特集 伝統美のモダニズム “Cool Traditions”
三重県・伊勢志摩:海女の伝統と新たな風

ジュリアン・ライオール【Profile】

[2017.07.11] 他の言語で読む : ENGLISH | 简体字 | 繁體字 | ESPAÑOL | العربية | Русский |

日本の海女は、50年前には全国で1万7千人いたが、今は2000人までに減少した。三重県・伊勢志摩地域では、全国の半分にあたる1000人の海女が伝統的な海女漁を続けている。

漁を終えて海から上がる。

初夏の5月の日差しの中、80歳の現役海女・木村政子さんはオレンジ色の足ヒレをひと蹴りし、しぶきを上げて海底に消える。ここは三重県・石鏡(いじか)の岬。岩場から数メートル沖で潜る木村さんが唯一目印にするのは、寄せては返す波に浮かぶ黄色い浮き輪(ブイ)だ。かなり時間がたったように思う頃―実際は1分もたっていないのだが―ブイの横に浮上すると一度に息を吐き、ヒューと「磯笛」を鳴らす。

網袋にアワビ、トコブシ、タコ、サザエなどの海の恵みを収めると、息を整えてもうひと潜り。規定の2時間半の漁を終えると、木村さんはゆっくりした足取りで三日月形の浜に上がってきた。

「今日の海は思ったより濁っていてあまり良く見えなかった。ちょっとがっかり」と網袋を指さして言う。「でも、今が一年で一番いい季節。水は温かいし、アワビも良い値で売れる」

海女小屋で暖をとる海女たち。

今に続く伝統の素潜り漁

海女が以前身に着けていた白い木綿服はウェットスーツに取って代わったが、カギノミ(片方がカギ状に曲がっている道具)を手に、今も伝統的な素潜り漁を続けている。この地域では、比較的男性より息が長く続き、寒さから身を守る皮下脂肪が多い女性たちが、海女の伝統を守ってきた。

タンクは背負わない。長時間潜ることが可能になってしまうからだ。海女漁は伝統的漁法であるだけでなく、タンクを使わないことで自ら潜る時間を制限する。漁期を定めて水産資源の乱獲を防ぎ、自然と共存する仕組みでもある。

こうして何千年も続いてきた海女漁とそれにまつわる数々の伝統が、このままではついえてしまうのではないかと近年、海女たちは気をもんでいる。若い女性はより安全で楽に稼げる仕事を求めて都会に行き、海女の数は年々減っているのだ。

「20年前に観光施設の仕事で定年を迎え、それから潜り始めた」と木村さんは海女小屋で暖を取りながら語った。小屋は、浜から少し上ったところに流木や石、トタン板で建てられている。中央で薪や流木を燃やし、火を囲む。海女たちは2時間半も潜って冷え切った体をたき火で温める。

「石鏡の女たちは、みんな海女だよ。他の仕事なんてなかったからね」と木村さんは、肩をすくめて言った。「ここは、隣町からずっと離れていて昔は交通の便なんてなかったから、まるで陸の孤島だったよ」

木村さんはマスクとウェットスーツを外につるすと、トコブシの入った網籠を肩に担いで市場に向かった。

トコブシがいっぱいの網籠を持つ木村さん。

海女体験を生かした新たな活路

1956年には、全国1万7000人もの海女が、漁で生計を立てていた(※1)。しかし、すっかり海女漁が途絶えてしまった地域もある。ここ三重県の志摩半島では、日本全体の約半分にあたる1000人の海女が潜る。

冬になると旅館、民宿、土産屋などの仕事で稼ぐが、近年は海女体験を生かした新たな試みも始まった。採れたての海の幸で客をもてなしながら海女漁を語る「海女小屋レストラン」が観光客の人気を集めているのだ。

「14歳の時に海女漁を始めました。でも、5年前に80歳になったのをきっかけにやめました」と野村禮(れい)子さん(85)。野村さんは伝統的な白い木綿の磯着を着て、相差(おうさつ)の海辺にある海女小屋レストラン「はちまん」で働いている。

60年以上、海に潜ってきた話で観光客をもてなす野村禮子さん。

「母も、祖母も、曾祖母も、みんな海女でした。海女になることは、ここでは通過儀礼のようなものです」と野村さんは言う。

66年間潜り続けた野村さんでも、何度かかなり危険な目に遭ったという。腰に付けた命綱が海底の石に挟まれたり、海藻に絡まったりした。たとえ短時間でも、素潜りの海女には危険がつきものだ。そのため、木綿の磯着頭巾には彼女たちを海の危険から守り、浜に戻れるようにお守りの印が描かれている。

左上から時計回り:海女小屋「はちまん」のかまどで貝を焼く。採れたてのカキ、ホタテ、サザエ。伝統的な海女踊りを披露。海女を続けながら海女小屋でも働く岡野みつゑさん。

「はちまん」では、野村さんの仲間―ほとんどが60~70歳のベテラン海女―がサザエやカキ、ホタテを小屋の中央に設えたかまどで焼き、話をしながら客をもてなす。

岡野みつゑさん(70)も同様に、若い海女のなり手が少ないことを気にしている。「みんな娘がいますが、私たちが海から上がって寒がっていたのを目の当たりにしているので、この仕事をなかなかやりたがらないのですよ」と岡野さんは言う。「最近は海女だけで生計を立てるのは難しく、ほかの仕事もしなくてはならないのです」

相差の集落を見下ろす小高い丘の頂には、海女たちが信仰する神明神社がある。神社の本所はずっと続く赤い鳥居の奥だが、手前右側にあるのが、海女たちがお参りに行く「石神さん」だ。今では、女性の願いを1つかなえてくれると、一般の女性にも人気がある。灯籠が祭壇の両側に立ち、さい銭箱と願いを書き記した紙を入れる箱が置かれ、酒とせんべいが供えられていた。

石神さんは神明神社の境内の中。女性の願い事を1つかなえてくれるという。

東京からの「転職」が「天職」に

海女人口が減る一方で、伝統的な海女漁に就こうとする勇敢な若者もいる。「小さい時から海が大好きでサーフィンやシーカヤック、スキューバーダイビングをしていました」と語るのは大野愛子さん(38)。大野さんは2016年10月、鳥羽市の「都市住民を対象にした海女の見習い募集」に応募して石鏡にやってきた。それまでは、東京でプロのカメラマンをしていた。

海から上がり、腰に付けた重りを外す新人海女の大野愛子さん。

「東京にいる時からずっと、海の見えるところに住みたいと思っていました。海女は天職だと思っています」。志摩半島に引っ越した今が、これまでで一番幸せだと言う。海に潜る漁はわくわくするし、自分のペースでのんびり仕事ができる。一方、同世代が周りにほとんどいないのはなかなか大変だと本音ももらした。

「最初はよそ者扱いでしたが、今では海女ファミリーの一員です」と大野さん。石鏡の人々と信頼を築くまでに1年かかった。「ちゃんと食べているか?」と野菜やおかずを持ってきてくれたり、漁で使う道具を作ってくれたりする人もいる。正月には家に呼んでくれ、自分の家族と一緒にごちそうしてくれた。

海女の伝統を守りたいと願う大野さんは「自然と共生する職業は素晴らしく、若い女性にとってもシンプルで理想的なライフスタイル。そんな海女のイメージを作ることが私の役目の一つです」と語る。そして、こうつけ加えた。「海女の存続のため、できることは何でもやっていきたいと思っています」。

海女小屋 はちまんかまど

517-0032 三重県鳥羽市相差町1094
電話: 0599-33-6145
ウェブサイト: http://amakoya.com/

原文英語。バナー写真:海女漁を終え、岸に向かう海女。

写真:本野 克佳

(※1)^ 日本水産学会誌(2014) 『全国の海女の変遷と現在』海の博物館, 石原義剛

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  • [2017.07.11]

英紙デーリー・テレグラフ特派員で、日本と韓国を担当。ウルバーハンプトン大学、セント・ランカシャー大学院でジャーナリズムの学位を習得。ロンドン出身。1992年来日、現在横浜在住。サウス・チャイナ・モーニング・ポストなど他紙にもフリーランスとして執筆。

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