日本の書

ひとり暮らしのダウン症の書家・金澤翔子を訪ねて

文化

30歳でひとり暮らしをすると宣言し、実行に移した金澤翔子さん。1週間で帰ってくるのではないかと思っていた母泰子さんの心配をよそに、青春を謳歌(おうか)している。

金澤 翔子 KANAZAWA Shōko

書家、雅号「小蘭」。1985年東京生まれ。書家である母に師事し、5歳で書を始める。2005年、初の個展「翔子 書の世界」を開催。その後、鎌倉建長寺、京都建仁寺、奈良東大寺などで個展を開催。2015年、ニューヨークで初の海外展を開催し、同9月にピルゼンおよび11月にプラハ(チェコ共和国)で個展を開いた。母との共著に、『魂の書 金澤翔子作品集』、『海のうた 山のこえ―書家・金澤翔子 祈りの旅』ほか多数。

商店街の人気者

国際的に活躍しているダウン症の書家・金澤翔子さんが、ひとり暮らしを始めて1年半がたとうとしている。春めいてきた3月初旬、翔子さんの案内で大田区、池上線・久が原駅の近くに借りているひとり暮らしの空間に向かった。

駅前の商店街に出ると、翔子さんは行き交う人たちと笑顔で挨拶。握手を求めてくる女性もいた。彼女の暮らす賃貸マンションまでは、5分あまりの道のり。翔子さんと歩きながら、ふと花屋のウインドーを見ると、翔子さんの写真と作品が目に入った。そこにはこの秋に開催される上野の森美術館での個展を告知するリーフレットが貼られていた。気が付くと、蕎麦屋、ケーキ屋、美容院、文具店などのウインドーにも飾られているではないか。

翔子さんが自分で店を1軒1軒回ってリーフレットを2枚ずつ配り、「表と裏の両面を貼ってください」とお願いしたという。そして、その願いは見事にかなったわけである。みんなで彼女を応援しているこの商店街を、私は「金澤翔子ロード」と呼びたいと思った。

商店街を通って賃貸マンションに向かう

翔子さんの住まいのドアを開けると、目の前に電磁調理器を備えた白いキッチンシステムが鎮座していた。料理好きの彼女にふさわしい構造だ。キッチンを通ると木のフローリングの広いワンルーム。壁は純白、カーテンは落ち着いた感じのピンク色。ロココ調のドレッサーや机、棚も白を基調にところどころピンクが配され、いかにも若い女性の部屋といった印象を与えている。

料理大好き、買い物もOK

個展の開催や席上揮毫、講演のために、母泰子さんと全国各地を訪れることが多い翔子さんだが、東京にいるときは必ず自分で料理を作る。「今日の夕食は何?」と尋ねると、「今夜はお客さんが来るのでビーフシチューにします」と言って、買い物に出かけた。

すぐ近くの精肉店に入って、「ビーフシチューのルーとおいしい牛肉をください」と注文した後、店内にある野菜コーナーでニンジン、タマネギも調達。居合わせたご婦人が翔子さんに「いつもスイミングクラブで一緒だもんね」と、うれしそうに話しかける。買い物の支払いを済ませた翔子さんは、お気に入りの喫茶店へ。

精肉店で牛肉を購入

40年以上前から開いている老舗の店内は、懐かしい昭和の雰囲気を漂わせている。カフェオレができるまで、翔子さんはマスターと自分が出演したテレビ番組や料理の話をしたり、スマートフォンでSNSに何やら書き込みしたり、いかにも楽しそう。ここが毎日のように通う憩いの場なのだそうである。自分の娘のように接するマスターと奥様を見ていて、翔子さんはこの街の大切な宝であり、アイドルなのだと実感した。街をパトロールするお巡りさんが「翔子ちゃんはこの街に降りてきた小さな魔法使い。魔法の杖でキラキラ星を降らせて、この街を元気にしてくれた」と話していたという。納得である。

大好きな喫茶店

部屋に戻ってエプロンを掛けた翔子さんは、「料理は手が大事」と流しでしっかり手を洗う。まずピーラーでニンジン、ジャガイモの皮をむき、包丁でトントンと切る。タマネギに取り掛かると、最初は「眼は痛くないので大丈夫」と言っていたのに、いつの間にか目をしょぼつかせ、涙があふれそうに。思わず蛇口から水を出して眼を洗う。その様子が可愛くまたおかしかった。

「これはオリーブオイルです」、「お肉を食べやすいように切ってあげます」、「お肉がこんがりしたら赤ワインを入れます」。翔子さんは料理教室のように要点を説明しながら、1時間ほどでビーフシチューをこしらえた。おいしそうな匂いが部屋を満たす。

夕食のメニューはビーフシチュー

小鉢にシチューを盛った翔子さんは、白い棚の上に置かれた父、裕さんの遺影に供えた。そして「お父さま、ビーフシチューです。一緒に食べましょう。いつも天国から見守ってくれてありがとう」と語りかけながら目を閉じ、手を合わせた。

自分の城に書道用具なし

翌日、翔子さんが自分だけの小さな城でどんな時を過ごしているのか、拝見させてもらった。朝ゆっくり目覚めるオフの日、翔子さんは、午後から勉強を始めた。机には何やら難しそうな本が。『四字熟語辞典』である。その第1ページにある「愛別離苦(あいべつりく)」という仏教の言葉の解説文をノートに書き写している。少女の頃は聖書の章句を筆記するのを日課としていた翔子さん。こうした日々の努力が、言葉や文字に対する鋭敏な感性を培ったに違いない。

『四字熟語辞典』で勉強

勉強のあとはリラックスタイム。ピンクのiPadを持ち出し、ユーチューブでマイケル・ジャクソンのダンスで賞をとった旭君(12)の動画を見る。自分でもマイケルのダンスを踊る翔子さん。次に、パソコンのキーボードを巧みにたたいて何やら検索したと思ったら、やはり旭君の出演ラジオ番組やダンス・パフォーマンスの動画を見つけて、満面の笑みをみせた。そういえば、この部屋には書道用具は一切ない。仕事を離れた翔子さんの「自由の解放区」なのである。もう一つの大事な日課が、運動してやせること。自分で料理をするのでつい食べすぎるせいか、少し太ってきたという。ピンクのルームランナーを作動させ、軽いランニングで体調を整えてから、気分を一新して母の待つ金澤邸の仕事場へと向かった。

3つの約束は、「おかたづけ」「寝る時間を守る」そして「やせる」

リラックスタイムは、iPadでダンスを検索

母親の「真の愛情」に支えられ

久が原駅から至近距離にある実家は、2階建ての立派な邸宅で、1階には母泰子さんが主宰する「久が原書道教室」がある。泰子さんの案内で2階の広いリビングルームに入ると、翔子さんがハート形のチョコレートケーキを切ってもてなしてくれた。

部屋の奥には書道用の机が置かれ、濃紺の毛氈(もうせん)の上に広げられた大きな紙に「般若心経」の文字が見えた。後ろの壁には翔子さんが10歳の時に書き、今でも一番人気がある4幅の「涙の般若心経」が掛けられている。この秋に上野の森美術館で開催される『書家 金澤翔子展』に、現在制作中の「般若心経」と一緒に並べる予定という。

書道の稽古を終えたとき、泰子さんは「ひとり暮らしを始めてから1年半。自ら進んで実家に来ることはありません。仕事がないと一週間も顔を見ないことがあります」と寂しそうに語った。翔子さんは各地の講演会や2015年「世界ダウン症の日」にNY国連本部で行ったスピーチなどで「30歳になったらひとり暮らしをします」と宣言し続けていた。「とても心配でしたが、みなさんにお約束したことだからとやらせてみたらごらん通りです」「小さいときから、私がいなくなった後も一人で生きていけるようにと料理、掃除、買物を厳しく教えました。できないと思うのは親の側の幻想なのですね」と言葉をつないだ。

実家で母泰子さんと書道の練習

この30年余の苦悩と葛藤を振り返った後、「社会に出たからお金の大切さを理解できたのでしょう。ある時、翔子が『お給料ちょうだい』と言ってきました。それで、席上揮毫で1枚書いたら5000円あげることにしたんです。うまく書けた日には、その場で『今日は7000円にして』と増額の交渉をするんですよ」と、わが子の成長ぶりを嬉しそうに語り、笑顔を見せてくれた。

絶対無理だと思われていた翔子さんのひとり暮らしを実現させたもの。それは、ダウン症の子供の生命力と可能性を信じて厳しく指導してきた母泰子さんの真の愛情と、母への信頼と愛情に支えられて日々積み重ねてきた翔子さんの努力の賜物である。人間の素晴らしさを改めて教えられた2日間であった。

(バナー写真:ひとり暮らしのマンションで料理をする金澤翔子。写真=長坂 芳樹)

写真撮影=長坂 芳樹

金澤翔子 ダウン症 書家