国民の国政不信と政治の責任

政治・外交

昨年10月、読売新聞(2011年9月10日朝刊)の世論調査を紹介しつつ、政府に対する国民の信頼が地に落ちたと指摘したことがある(「野田政権に立ちはだかる課題」)。東日本大震災における仕事ぶりや活動について、政府(6%)と国会(3%)の評価がきわめて低かったからである。こういう調査が最近、実施されたかどうか、寡聞にして知らない。しかし、読売新聞が2月10-12日に実施した世論調査を見ると、政府・民主党と自民党に対する評価は低迷している。この調査によれば、野田内閣の支持率は30%で不支持率は57%、民主党支持率は2009年9月の政権交代以来、最低の16%、自民党支持率は17%、支持政党なしの無党派層は54%となっている。また、望ましい政権の枠組みでは、「政界再編による新しい枠組み」が53%、これに「民主と自民の大連立」23%が続き、「自民中心」は9%、「民主中心」は5%にすぎない。(読売新聞、2012年2月14日)

「地方の反乱」と新党結成の動き

国民の国政不信をあらためて指摘するのは、橋下徹大阪市長(42)を台風の目とする最近の「地方の反乱」を念頭に置いてのことである。橋下氏は、昨年11月の大阪市長選挙で、民主党、自民党、共産党3党推薦の現職、平松邦夫候補に圧勝した。またこの1月には、次の衆院選で塾生を中心に候補者300人を擁立し、200議席の獲得をめざすとして、維新政治塾の設立を発表した。この維新政治塾の参加希望者が締め切り日の2月10日夜の時点で2750人余に達した。橋下氏が大阪都を提唱し、地方交付税の廃止や道州制の導入を掲げていることはよく知られている。しかし、先日、発表された維新の公約「船中八策」は箇条書き程度のもので、彼が国政のどんな課題に、どういう優先順位で、どう取り組むつもりか、まだ何も分からない。

「地方の反乱」は大阪だけのことではない。愛知県の大村秀章知事(51)と名古屋市の河村たかし市長(63)も次の衆議院選挙に向けて政治塾を立ち上げようとしている。また滋賀県の嘉田由紀子知事(61)も政治塾を開講し、橋下氏と地方選挙で連携していく考えを明らかにした。さらに東京都の石原慎太郎知事(79)は、国民新党の亀井静香代表(75)、たちあがれ日本の平沼赳夫代表(72)と3月中に新党結成で合意した。こういう動きは、世代的にも、政治のアジェンダにおいても、まるで同床異夢である。しかし、それでも、これだけいろいろ動きが出てくる背景に、国政に対する国民の深い失望とフラストレーションがあることは疑いない。

「地方の反乱」と国政における第三勢力構築の動きは、これからの日本の政治にとって非常に重要である。しかし、これは国民の国政に対する信頼の回復に直ちにつながるものではない。そのためには、政府が国政の実績を挙げるしかない。野田佳彦首相は、TPP交渉参加、復興庁創設、税と社会保障の一体改革の素案決定等、決定すべき決定を行っている。しかし、中には、菅直人前首相のいう「個人の思い」と「政治主導」をまだ混同していると言わざるをえない決定も少なくない。

原発再稼働の決定は政府の責任

その一つが運転停止中の原子力発電所の再稼働に関する手続きである。政府は2月17日の閣議でこれについて、地元の理解などが得られているかどうかを判断する際に、「地方自治体の首長や議会の意見は、有力な根拠になる」とする答弁書を決定した。昨年9月の衆議院本会議で、野田首相が運転停止中の原子力発電所の再稼働にあたって「地元の理解や国民の信頼が得られているかという点も含め、政治レベルで総合的に判断していく」と述べたのを受けたものである。

これは原子力発電所再稼働の決定を事実上、「地方自治体の首長や議会」に委ねるに等しい。しかし、県に原子力発電所の安全性を確認するしくみも能力もない。そういうところで県知事に「地元の理解や国民の信頼が得られているか」の判断を求めればどうなるか、明らかだろう。知事には責任をもった判断はできない。その結果、定期検査を終えた原子炉の再稼働は延期され、稼働率は2011年12月にすでに15%まで低下し、これから数カ月ですべての原子力発電所が停止する。そのコストは非常に大きい。原子力発電をすべて火力で代替すれば燃料費コストは年間2-3兆円増加する。貿易収支はすでに昨年、赤字に転落した。産業空洞化も進んでいる。

しかし、それでも、朝日新聞(1月10日朝刊)によれば、経済産業相は低成長さえ受け入れれば脱原発は十分できると考えているそうである。過去5年の日本の実質経済成長率は、2007年=2.36%、2008年=△1.17%、2009年=△6.28%、2010年=3.96%、2011年=△0.47%(予測値)。日本経済はこの5年で縮小している。そういうところで「低成長」とは何を意味するのか。マイナス成長でも構わないというのか。その社会的コストは誰が払うのか。また、それを別としても、中長期のエネルギー政策と原子力発電所再稼働の決定を混同することがはたして賢明か。原子力発電所の新規建設はこれから少なくとも20-30年は政治的に不可能である。したがって中長期のエネルギー政策については、シェールガス革命、再生可能エネルギーの技術革新の動向等を見つつ、少し時間をかけて考える余裕がある。一方、原子力発電所再稼働の決定は、政府として今すぐにもやる必要がある。決定を事実上地方自治体の首長と議会に委ねるのは、責任回避にほかならない。

もう一つは食品中の放射性セシウムの規制値を大幅に厳しくする厚生労働省の新規制である。厚生労働省は今回、「牛乳」と「乳児用食品」の規制値を、放射線の影響を受けやすい低年齢層に配慮して一般食品の半分の値に設定した。読売新聞(2月17日朝刊)によれば、その背景には「より安心を作るために、乳児用食品には厳しい規制値を作りたい」という小宮山厚生労働相の強い意向があったという。当たり前のことであるが、安全と安心は違う。安全は科学的に評価できる。安心は個々人の心理的問題である。安心を重視するのはやさしい。しかし、安心を重視すればコストは上がる。そのコストは誰が負担するのか。実に奇妙な日本語であるが、「より安心を作るために」科学的な安全評価をはるかに上回る規制値を導入するのであれば、小宮山厚生労働相には、なぜ規制値をこの水準で設定するのか、その根拠は何か、コストはどのくらいで、誰が負担するのか、国民にはっきり説明する義務がある。それが政治の責任である。

白石隆 世論調査