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中国と日本の死生観:「不老不死」と「ピンピンコロリ」(下)

漆嶋 稔【Profile】

[2018.06.07]

古代日本人も大いに関心を持っていた「不老不死」。『竹取物語』の「不死(富士)山」から現代の「ピンピンコロリ」まで。「下」では日本人の死生観を読み解く。

<(上)から続く>

不老不死は夢物語

古代には、日本人も「不老不死」には大いに関心を抱いていたと思われる。例えば、かぐや姫の『竹取物語』にも不老不死の薬が登場する。かぐや姫に振られた帝が山頂で不老不死の薬を焼いたので、その山を「不死(富士)山」と呼ぶようになったという。

徐福の伝承地は、北は秋田から南は鹿児島まで二十数カ所ある。当時の先進国から総勢三千人(一隻の船でも数百人規模のはず)が上陸すれば、その地は大騒ぎとなり、地元の有力者にも報告される。当然ながら、徐福一行は有力者から渡来の目的を問われる。幸い一行には軍人が見当たらないので、平和目的と了解されたはずだ。また、仙薬が見つかれば、徐福だけなく、有力者にも朗報なので、官民問わず必死に探したであろう。だが、結局はどの土地でも見つからなかった。すなわち、ほぼ同時期に日本の北から南まで同じような調査が行われた結果、「仙薬は存在しない」という認識が当時の日本に広まったと思われる。

その代わりに、徐福が連れて来た技術者はさまざまな技術を伝えてくれた。夢物語の仙薬探しよりも、現実的な恩恵を与えた各種技術に人々は驚くとともに感謝したに違いない。例えば、徐福は不老不死の仙薬を求めて富士山に入ったが、その途中で亡くなったというという伝説がある。だが、徐福像が富士吉田市に建てられたのは、徐福が機織りや養蚕などの技術を伝えてくれたからである。また、先述の鹿児島県いちき串木野市の「徐福花冠祭」が開催されるのも、稲作や五穀を伝えてくれたからだ。徐福は始皇帝を失望させたかもしれないが、日本には希望を与えてくれたのである。

あの世は「あの世」

清水湊(現在の静岡県清水港)には、幕末から明治にかけて「海道一の大親分」と呼ばれた清水の次郎長という侠客がいた。喧嘩や賭博の渡世人であったが、次郎長はその侠気によって世間から賞賛を浴びることになった。

慶応4(1868)年9月18日、咸臨丸事件が起きた。旧幕府海軍副総裁榎本武揚は新政府軍への艦隊引き渡しを拒絶し、艦隊を脱走させた。そのうちの咸臨丸が暴風雨で難破し、清水湊で修理中に新政府軍に発見され、乗組員は戦死した。新政府に刃向かった賊軍なので、遺体はそのまま放置された。それを不憫(ふびん)に思った次郎長は砂浜に手厚く葬った。新政府軍はこれを非難したが、次郎長は「死んだら仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか」と反論した。

換言すれば、新政府軍はこの世での属性(賊軍)があの世でも引き継がれると見たが、次郎長はあの世はこの世と別世界と考えたのである。当時も両方の考え方があったということになるが、次郎長に対する高い評価を勘案すれば、世間は次郎長の行動に軍配を上げたことになる。要するに、一般的な日本人は次郎長の死生観に親しみを覚えたことの証左である。

では、なぜあの世はこの世と別世界と考えるようになったのか。死者が生き返って説明してくれるわけはないので、死後の世界は本来曖昧模糊(あいまいもこ)としたものだったと思われる。それを「見える化」したのは、地獄絵図や極楽絵図を持ち込んできた仏教だったのではないか。例えば、筆者にとっての地獄や極楽とは、仏教系幼稚園の講堂に掲示されていた地獄絵図と極楽絵図であった。

現在、寺院数は日本全国で7万7000、京都だけで約3000あるという。明治初頭に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が実施されているので、江戸時代以前はもっと多かったと思われる(鹿児島では、江戸末期の寺院数1066が明治7年にはゼロになったという)。その昔、お寺のお坊さんの話は娯楽の1つだったであろうし、それを聞いた親や縁者が子どもにも話して聞かせたであろう。特に、刺激的な地獄や三途の川の様子などは何度も語られたはずである。さらには、全国津々浦々には寺子屋もあり、これらを通じて地獄や極楽に関する共通認識が完成したと思われる。すなわち、「あの世(地獄か極楽)」はとても「この世」ではない、という確信が日本人の中に定着したと思われる。

目指すは「ピンピンコロリ」

上述の通り、日本人は不老不死など無理筋の願いであり、あの世は「あの世」と悟ったと思われる。例えば、織田信長は本能寺の変で斃(たお)れる間際に、『敦盛(あつもり)』を舞った。すなわち、「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内を比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり」と謡った。これは、「下天(天上界で最下位の世)」の一日は人間界の50年に相当し、天上界に比すれば人の世は儚(はかな)いという意味である。信長は戦国時代の武士であるためか、命に執着しない潔さや諦念(ていねん)が窺(うかが)える。また、武士以外の民衆も、風水害や火事に見舞われたり、重い年貢に苦しんだりの日々が続けば、この世に未練を見せず、恬淡(てんたん)として生きる人は多かったであろう。

永遠に生き長らえることができないのであれば、次善の策として、この世にいる限りは健康で暮らしたいと思う。それをうまく表現したのが「ピンピンコロリ」という考え方である。これは、長野県下伊那郡高森町発祥の「ピンピン健康で長生きし、死ぬときはコロリと大往生」という願いである。昨今、健康寿命という言葉が喧伝されるようになってきたのは、医療費予算のひっ迫化によるものだけでなく、健康志向の高まりとピンピンコロリの考え方が広範に受け入れられてきたからではないか。

不老不死の仙薬を手に入れることはできなくても、「ものは考えよう」である。この世にいる間は健康で楽しく暮らすように日頃から心掛けていれば、案外この世でも極楽浄土が味わえるかもしれない。

バナー写真:長野県下伊那郡高森町の瑠璃寺境内のピンピンコロリ地蔵(提供:ピンピンコロリ地蔵事務所)

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  • [2018.06.07]

翻訳者。1956年宮崎県生まれ。神戸大学卒業。三井銀行(現三井住友銀行)上海支店を経て独立。訳書に『決定の本質I、II』『孫子 戦争の技術』『馬雲のアリババと中国の知恵』(以上、日経BP社)、『FRB議長』(日本経済新聞出版社)、『経験学習によるリーダーシップ開発』(日本能率協会マネジメントセンター)など。

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