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時代とともに移り変わる学校制服の意味

難波 知子【Profile】

[2018.10.09]

軍服がルーツの男子学生服。袴から始まった女子学生服。時代とともにセーラ服やブレザーへと変化した学校制服は、日本人にどのように受け止められてきたのか。

今年、銀座にある泰明小学校の「アルマーニ制服」が大きな話題となった。学校制服が浸透している日本でも、公立小学校で制服を採用している学校は少なく、10~15%程度と言われている。しかし中学や高校になると、公立・私立を問わず、制服を採用する学校は格段に多くなる。制服はその学校のシンボルとなり、着用する生徒にとっても青春時代を彩る重要なアイテムとなっていく。皆が同じ型の衣服を着る制服には賛否両論あるが、日本ではなぜこれほど広範囲に、そして100年以上も長く学校制服が着用され続けてきたのだろうか。

学校制服のルーツは学習院

学校制服とは、「〇〇学校の生徒」という意味を表す社会的記号である。日本では、ジャケットとズボン・スカートで構成される全体的なシルエットはどの学校でも共通するが、その細部、例えば制服の色やライン、バッジやエンブレムなどによって、各学校の違いが表される。似ているようで、ちょっとずつ違う制服のデザインから、日本人はその人が何者であるかを特定できる。こうしたいわば制服の言語が、100年以上の時をかけて育まれ、日本では広く共有されてきた。

ある学校で同じスタイルの制服を生徒全員が着る、ということが成り立つためには、着用を義務づけるルールが不可欠だ。しかも制服の費用は家庭の負担である。そうした学校制服を日本で最初に制定したのは、私立の学習院である。

日本の貴族階級である「華族」の学校として創立された学習院では、1879(明治12)年に男子の詰め襟学生服・ズボン・学帽の制服が制定された。この詰め襟の上着は、明治になっていち早く洋服を導入した軍服を模している。当時の学習院では、将校の育成を一つの教育目標に掲げ、馬術や剣槍(けんそう)術などの科目があった。ゆえに軍服の機能性が制服に求められたといえよう。ただし、当時の洋服は高価であり、その費用を負担できる家庭は上流階級に限られた。

制服姿の帝国大学生(1906年)(写真提供:著者)

79年の時点では、学習院の制服はある一つの特別な学校の生徒が着るユニホームであったが、その後、男子制服として定型化する。その過程には、帝国大学における制服制定の影響がある。帝国大学では、86(明治19)年に詰め襟学生服・ズボン・角帽の男子制服が制定された。当時の大学生といえば、現代とは比べものにならない超エリートであり、そんな彼らがまとう制服には羨望(せんぼう)のまなざしが注がれたであろう。最高学府で採用された制服は、全国の中学や高校の模範となり、やがて広まっていくことになる。

このように、近代的な洋服を取り入れた男子制服は、エリート学生によって着用され始めた。学校制服に限らず、当時の日本で先進的な洋服を着ることは、社会におけるその人の特権的な地位を表した。ゆえに男子学生にとって学校制服とは、身分や所属を伝えることで、飛び抜けて優秀で、将来有望な「私」を堂々と社会に誇示できる衣服だったのである。

女学生は袴からセーラー服へ

一方、女子制服として最初に普及したのは袴(はかま)であった。戦前の日本における教育制度は、小学校より上は男女別学となり、女子は小学校を卒業すると、一部の者は高等女学校に通った。この女学校に通う制服として、女子の袴は1900年ごろ(明治後期)に定着をみせる。

袴を穿いた女学生(1900年ごろ)(お茶の水女子大学所蔵)

女子の袴はスカート状をしているが、これは明治になってから考案された新しい衣服である。もともと武士の衣服であった袴はズボン状であり、女性が身につけるものではなかった。明治初期に女学生たちが男性の袴をそのまま穿(は)いたことがあったが、男装としてきびしく批判され、やがて女性向けの袴が考案されるに至る。

当時の高等女学校では、健康な身体づくりのため、体育が盛んに行われ、袴は着物の乱れ(裾からのぞく脚)を隠し、活発に運動できる衣服として学校から推奨された。一方の女学生たちは、袴に対して憧れや着用願望を抱いた。なぜなら女性の袴には、皇室や宮中を連想させる高貴なイメージがあったからである。宮中では古くから女性も袴を穿いており、未婚女性は紫、既婚女性は赤の袴が穿かれた。高等女学校の袴は、この宮中の女性の袴と男性の袴を折衷して考案されたと言われている。ちなみに、明治の女学生に最も着用された袴は、海老(えび)茶色であった。

袴に憧れや着用願望を抱いた女学生たちは、自発的に袴を穿いて登校したり、校長に袴の着用を願い出たりした。袴が女子制服として定着する背景には、それを積極的に受容する女学生の行動力があったといえよう。輸入品のカシミヤの袴にリボンやパラソルなどの西洋小物をコーディネートして、明治の女学生たちは時代の先端をゆく、「和」と「洋」のハイブリッドなおしゃれを楽しんだ。

1920年代(大正後期)になると、女子制服も洋服へと変化していくが、中でも女学生に熱狂的に受け入れられたのはセーラー服であった。当時の回想によると、校則違反をしてでも、上着丈を短く、スカートの襞(ひだ)数を多くし、理想とする制服に改変した女学生もいたらしい。こうした女学生の行動からは、学校が示す規則に縛られず、制服を自ら解釈し、つくりあげようとする意欲が感じられる。制服をめぐる校則違反は、現在でも見られるおなじみの行為である。願望を実現しようと校則を破る生徒、それを取り締まる教師たちとのいたちごっこは、今も昔も変わらないようだ。

大衆化、制服批判、そしてデザインの多様化へ

こうして男女制服の歴史を振り返ってみると、制服に対してさまざま思いが重ねられてきたことが分かる。学校の指示に従い着せられてきた制服の歴史と、規則から逸脱し自らの願望や理想を投影してきた制服の歴史は表裏一体といえよう。

大正から昭和にかけて旧制中学校(男子)や高等女学校に進学する人が増え、さらに既製服産業の発達により洋服が庶民にも普及し始めると、それまでエリート学生やおしゃれ女学生の専有物だった学校制服は次第に大衆化していく。皆が同じものを着ることが「平等」ともつながり、貧富の差を隠すといった意味合いも制服に期待されるようになる。

第2次世界大戦後、学校制服の存続が危ぶまれたのは、1960年代末から70年代初めに学園紛争が起きた時代である。このとき管理教育の象徴として制服が批判され、制服を廃止したり自由化したりする学校が出てきた。しかし、制服廃止の動向は都心の一部の学校に限られ、制服が全廃されることはなかった。80年代後半になると、詰め襟学生服・セーラー服からブレザーへと制服のデザインを変える学校が現れる。次第に制服のデザイン性も多様化し、それにともない制服の評価も好転していき、現在に至っている。

制服に込められた美しき思い出

では、なぜ学校制服は批判されることがあっても、なくならなかったのだろうか。細かな規則に縛られ、いやな思いをするときもあるだろうし、制服代もファストファッションに比べれば割高なのに、どうして今でも着用されているのか。

学校制服に対する人びとの思いに耳を傾けていると、興味深いポイントが浮かび上がってくる。それは、学校制服への関わりは、在学期間だけに限らないということだ。母校の制服を着た生徒を見かけると、つい声をかけてしまうという人、母校で制服のデザイン変更が持ち上がると猛反対する人がいる。かつて学生だった多くの人たちの思いまでもが、学校制服には重なり合っているのである。制服がそう簡単になくならないのは、こうした支持層の厚み、美化された制服の思い出、制服ノスタルジーが大きな要因となっているのではないだろうか。学生時代を懐かしみ、自分の原点を振り返るのに、学校制服は重要なトリガーなのかもしれない。

もちろん、全ての人が学校制服を支持しているわけではない。皆と同じ格好をさせられ、窮屈な思いをした人、している人もいるだろう。また制服の没個性的な側面、費用負担の問題、LGBTへの対応など、学校制服に問われている問題も山積みである。しかし一方で、入学式シーズンに真新しい制服に身を包んだ学生たちを見ると、春の風物詩としてほほえましく思ったりもする。このようなアンビバレントな感情こそが、多義的・多面的に学校制服文化が育まれてきたことの証しだろう。いいところも悪いところもある。好きでもあり嫌いでもある。なぜ学校制服を着るのか。その答えは、一言ではとても言い表せない。

バナー写真=黒板の前に立つ高校生(アフロ)

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  • [2018.10.09]

お茶の水女子大学基幹研究院人文科学系准教授。1980年岡山県生まれ。同大大学院博士後期課程修了、博士(学術)。2012年同大助教を経て、17年より現職。著作に、『学校制服の文化史―日本近代における女子生徒服装の変遷』(創元社、2012年)、『近代日本学校制服図録』(創元社、2016年)などがある。

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