SNS

最新記事

ニュース

More

サー・ヒュー・コータッツィを送る

谷口 智彦【Profile】

[2018.08.21]

「伝えられるところ、貴大臣の前任諸侯は日本に関する書類に接する度、『小職は日本を好まない』と書きつけるのみ、それで済ませた由であるが、かかる時代を過去のものにできたと思料できるのは欣快である。しかもなお告白するならば、大臣諸氏には押しなべて、日本に関しては何事か問題でも起きぬ限り関心を寄せようとしない傾向があるとの印象を抱く(※1)

駐日英国大使の任を終えるに当たってロンドンの外相宛て発した最後の電報、俗にいう「パーティング・ショット」の冒頭近く、ヒュー・コータッツィはそう記した。日付は1984年2月8日とある。この時サー・ヒューは60歳。爾来34年を経て、英国に根強く残った日本に対する悪感情はほぼ消えた。いまや英国と日本の関係に「同盟」の再来を見出し、寿ぐ向きすら、双方にある。

礎石を積んだ一人は明らかにサー・ヒューである。大使の任期はマーガレット・サッチャーの時代と重なる。日産自動車の英国進出を実現させた半面、フォークランド戦争に際し英国への支持を明言しない東京の態度に業を煮やした。大使としての業績は、どの大使もそうであるように明暗半ばする。むしろ離任後、日本でいう還暦後において、彼が英国における対日観の転換に果たした意義は顕著、不滅だ。

近代以降の日英関係について通史的描写を与えたかと思えば、忘れ難い人物の誰彼について伝記的素描を加えるといった地道な研究・執筆を続けたサー・ヒューには、その名を冠した著書、または編者となった書物が数多い。全巻を渉猟するのは至難である。試みようとする学徒は、編著者の知的屹立ぶりに圧倒されずにはいないだろう。

皇太子徳仁(なるひと)親王に、1983年からの2年をオックスフォード大学マートン・カレッジで送った際の回想録がある。サー・ヒューによって達意の英語となり、The Thames And I: A Memoir Of Two Years At Oxfordとして2006年、公刊された。学習院大学刊の日本語原著が1993年に出た時、親王の露出を抑制したかったか、その販売を都内一部書店でしか許さなかった宮内庁は、英訳の刊行にも難色を示した。辛抱強く押し切り世に出さしめたのは、サー・ヒューの仕事として特筆される。

これまで多くの日本人が著した留学記の系譜に並べたとして、親王筆の同書は、著者が犀利な観察眼とともに瑞々しい感受性の持ち主だったことを遺憾なく伝え、群を抜く。同書を英語諸国民の公有財としたサー・ヒューの業績は、2019年に予定される新天皇の即位を控え、いまこそ想起され、改めて顕彰されるべきだ。

1943年に応召、空軍で日本語の教育を受けたヒュー・コータッツィは、シンガポールで日本軍の降伏に通訳として立ち合った。1954年10月、吉田茂が訪英の折、意外や、英語が話せぬ吉田と、ウィンストン・チャーチルの間の通訳を務めた。吉田は後、見送りにきたコータッツィに、「私の日本語は『コックニー』だから、わかりやすかったかしらん」と言ったという(※2)

面白いのは、孫の麻生太郎は自身の英語について「カリフォルニアとコックニーの混交だから聞き取りにくかろう」と言うのを常とすることで、両者の言い分には遺伝子的類似性があるかのようだ……といったことを、ロイヤル・エアフォース・クラブにステッキをついて現れるサー・ヒューに言いたかったが、もうかなわない。

言ったところで、あの特徴的な、皮肉と同居しているかのような小さな微笑をすら、その顔に認められたかどうか。麻生太郎、安倍晋三といった日本の政治家について、サー・ヒューはしばしば辛辣な時評を著した。対面しての会話では、私がこの両政治家の言葉を紡ぐ仕事をしてきたことを知りつつ、彼らへの嫌悪感を隠さなかった。日本における愛国心の存在を、頭では容認しつつ、心では警戒する点、終生変わらなかった。

英国において日本に対する無知と偏見を正すことに生涯を費やしたサー・ヒューは、最近の日本に、違和を感じた。自分が愛着したのと、これが同じ日本かと訝る心情である。その感じたジレンマはおよそ感じる必要のないもので、心配は杞憂だったと、自身の眼で確かめてほしかった。いまやこれもかなわぬのは残念である。

愛着と懐疑、時に幻滅を日本という対象に抱くのは、日本の戦後建設をともすると我が事と任じたサー・ヒューの世代に共通の傾向である。英国内外において同じ世代の人々が去り……ジョージ・ブル(※3)、ジェフリー・ボウナス(※4)といった人の名が浮かぶ……、在英日本大使館にも話の合う相手を次第に見出せなくなった最晩年のサー・ヒューは、生来のやや偏屈な性格とあいまって、孤影を湛えた。

私の父が、生きていれば彼と同年だった。足腰が弱ってもはや日本に行けないのだと会う度嘆くサー・ヒューを見るにつけ、この次ロンドンに来た時も、欠かさず会おうと思ったものである。それができなくなったことを、まことに寂しく思う。

2018年8月14日没、享年94歳。安らかに眠られんことを。

バナー写真:ロンドンでインタビューに応じるサー・ヒュー・コータッツィ元駐日英大使=2002年1月(時事)

(※1)^ Matthew Parris and Andrew Bryson, Parting Shots (London, VIKING, 2010) pp. 82-85

(※2)^ このあたり、https://www.chu.cam.ac.uk/media/uploads/files/Cortazzi_1.pdfのp.2、p.11参照

(※3)^ George Bull (1929-2001)。ジャーナリスト。1980年代に英国のAnglo-Japanese Economic InstituteでDirectorを務めた。

(※4)^ Geoffrey Bownas (1923-2011)。日本研究者。オックスフォード大、シェフィールド大の日本学科設立に尽力したほか、三島由紀夫と共同で『現代日本文学選集』(1972年、英語)を編さんした。

この記事につけられたタグ:
  • [2018.08.21]

内閣官房参与、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授、ニッポンドットコム理事。1957年香川県生まれ。81年東京大学法学部卒業。『日経ビジネス』記者、編集委員を経て外務省に入省。外務副報道官、広報文化交流部参事官を務める。 著書に『通貨燃ゆ 円、元、ドル、ユーロの同時代史』(日本経済新聞社、2005年)、「安倍晋三の真実 官邸『激闘の舞台裏』」(悟空出版2018年)

関連記事
その他のコラム

ピックアップ動画

最新の特集

バナーエリア2
  • nippon.comコラム
  • in the news
  • ニッポンドットコム・メディア塾 —ジャーナリストを志す皆さんに
  • シンポジウム報告