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「水商売」を外国人に説明してみようか

谷口 功一【Profile】

[2018.09.19]

ゴールデン街にもインバウンドの波

先日、大学のクラス会が新宿であり、同級生から誘われて久しぶりにゴールデン街に行ったのだが、狭い路地に外国人観光客があふれ返っており、今さらながらインバウンドもここまで来たかと驚いたのだった。

店に入って話していると、外国の人には「チャージ」などが理解できずトラブルになることも少なからずあるという話を聞き、さもありなんと思ったが、確かに彼らに日本の夜の店の仕組みを説明するのは、なかなかに骨の折れる仕事かもしれない。

昨今、夜のスナックをめぐっては、小さなブームのような状況を呈しており、玉袋筋太郎氏など古くからのスナック愛好者たちとは別に、スナックをコミュニティとして捉えた上でビジネス論ともつなげていこうとする、スナックの「ニュースクール」とでも言うべき動きも出てきている。

わたし自身は、前者の古式ゆかしいオールドスクールに属する者だが、今日は、もし外国人に「スナックとは何か」と説明を求められたら、どのように説明するだろうかということについて考えてみたい。

このような説明をする際には、店の料金体系などから話し始めるのが常道だろうが、スナックもその中に含まれる「水商売」自体が、そもそも何なのかということから話を始めるべきかもしれない。

実のところ、外国人だけでなく、都心で働くホワイトカラーの日本人にとっても水商売が何なのかというのは、もはやよく分からなくなってしまった話でもあるので、この「外国人にはどう説明するの」という話は、うまくできるのならば、(背景にある文化的)コンテクストの共有が期待しにくい外国人にさえ説明可能なのだからという点で、スナック論のユニバーサライゼーションに資することになるかもしれない。

九鬼周造の「色」と「いき」の考察

さて、日本以外の夜の店で女性が居るということは、ほぼ例外なく売春と結びついているが、日本ではそうではない。これは世界的(歴史的)に見ても本当になぜだかよく分からないのだが、日本だけが売春からは截(せつ)然と切り離された形で女性が夜の店を営むという形態がかなりの広がりをもって存在している(管見の限り、実は韓国など一部のアジア諸国にはあるのだが、「紙幅」の関係で今日はその話は割愛する)。

このような水商売に関して、最近流行りのスナック論議では完全に削ぎ落とされてしまっているが、「色」の要素が実のところ最も根底的な要素の一つとしてあることには間違いがない。正調のスナックとは、喫茶店やコミュニティスペースではないのである。

このことについて考える上で、かつて哲学者の九鬼周造(1888-1941)が『「いき」の構造』の中で展開した議論が参考になるかもしれない。九鬼は、ヨーロッパに留学中、ベルクソン、ハイデガー、サルトルらにも親炙(しんしゃ)し、のちに京都帝国大学で哲学の教鞭(べん)を執ることとなったが、他方において毎朝祇園から帝大まで人力車で通っていたという逸話が残るほどの遊興の士でもあった。彼は、ある意味で水商売の極致である花街での豊かな体験を基にして、「水商売とは何か(「いき」であること)」を、この本の中で解明しようとしていると読むことができる。

九鬼によるなら、廓での「いき」とは「媚態(びたい)-意気地(いくじ)-諦め」という三層構造を持つものとして描き出される。「媚態」とは「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」である。要するにヤレるのかヤレないのかハッキリとは分からない関係(可能的関係)を相手との間に結び、相手を誘惑しつつも一線は越えさせない、ということである。九鬼はさらに続けて「蓋(けだ)し、媚態とは、その完全なる形態に於(おい)ては、異性間の二元的動的可能性が可能性の儘(まま)に絶対化されたものでなければならない」とも記しており、こういう緊張関係(簡単にはヤラせない)を維持しないとならないと述べているのである。

次に「意気地」だが、これは先述の「媚態」を持ちながらも、「なほ異性に対して反抗を示す強みを持った意識である」とされる。最近の言葉で言うなら「ツンデレ」の「ツン」にあたるものとでも言おうか。要するに「あたしャそんなに軽くないヨ」と。

三つ目の層としては、「諦め」がある。これは「垢抜(あかぬけ)」とも表現され、人生の裏表を見てきた年増芸者の「酸いも甘いもかみ分けて」といった心持ちを指している。九鬼は「婀娜(あだ)っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙のほのかな痕跡を見詰めたときに、はじめて『いき』の真相を把握し得たのである」とも記している。

語れば「野暮」に落ちる

以上から、九鬼にとっての「いき」とは、「垢抜けして(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということになるわけである。

このような「いき」は、特殊な事実として存在するものであり、その存在は「あ、分かった!」と「会得」しなければならないようなものなのである(多田道太郎)。九鬼はこれを「悟得(ごとく)の形で味会(みかい)」するものだと表現している。

当時最新のヨーロッパ思想を武器に「普遍的」な言語である哲学によって、極東の島国の特殊な事実としての「いき」を解明しようとした九鬼であったが、正味のところ彼の説明が「成功」しているのかは、甚だ心許ないところでもある。

長々と何が言いたいかというと、「水商売」はもとより「色」に関する話というのは、こういう哲学をはじめとした《理屈の世界の間尺》には合わない事柄だということなのである。九鬼の本の中で描かれた「いき」がそうであったように、豊かなものは個別の具体性の中にこそある。であるからして、そもそもの話として、それ(水商売とは何か)を言語化して話すこと自体が、そして、そのようなことを一般化された形で問うこと自体が、必然的に「野暮」や「無粋」に落ちることになるのだ。

ともかくも、仮に外つ国(とつくに)の人にスナックのことを説明するなら、それならばまずは水商売とは何なのかから、という前提のもとで以上を記し連ねてきたが、ここまでの話を外国語でしてみようということになると、これはなかなかに困難な作業であり、やはり、ことの繊細な綾(あや)や襞(ひだ)は「悟得の形で味会」してもらう他ないようにも思われるのである。

[参考文献]

  • 九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)
  • 安田武・多田道太郎『「いき」の構造』を読む』(ちくま学芸文庫)

バナー写真:スナックのホステスと客=東京都(時事通信フォト)

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  • [2018.09.19]

首都大学東京法学部教授。1973年、大分県別府市生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て現職。専攻は法哲学。著書に『ショッピングモールの法哲学』、編著として『日本の夜の公共圏』(いずれも白水社)など。「スナック研究会」代表。

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