2014年沖縄県知事選挙結果が示す沖縄基地問題・将来への課題

政治・外交 社会

普天間基地移転問題が争点となった2014年11月の沖縄県知事選挙。民意は、辺野古移設反対派で前那覇市長の翁長雄志氏を知事に選んだ。この選挙結果を受けて、沖縄基地問題の原点から将来への課題を展望する。

今次県知事選挙の歴史的意味とは

2014年11月16日に行われた沖縄県知事選挙では、米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対を掲げた翁長雄志(おなが・たけし)・前那覇市長が、現職の仲井真弘多(なかいま・ひろかず)を破って当選した。この結果は、普天間飛行場の移設をめぐる20年近くに及ぶ混迷に、一つの区切りをつけるものであったといえよう。本稿では、普天間問題をめぐるこの20年近くの歴史的経緯をたどることで、今次の沖縄県知事選挙の意味を考えてみたい。

2014年11月・沖縄県知事選挙開票結果

(選管最終集計値)

翁長 雄志 360,820票
  仲井真弘多 261,076票
  下地 幹郎 69,447票
  喜納 昌吉 7,821票

事の始まりは1996年4月にさかのぼる。一部報道を受ける形で時の首相、橋本龍太郎がモンデール駐日米大使とともに普天間飛行場の返還合意を発表したとき、地元沖縄を含め、日本中が驚きに包まれた。大学や民家が密集する市街地のど真ん中に位置する普天間飛行場は、「世界一危険な基地」と言われながら具体的な返還計画もない中、「まさか」の劇的な返還合意発表だったのである。

この時なぜ日米政府は動いたのか。事態を動かす契機となったのは、前年1995年9月に地元の少女が複数の米海兵隊員に暴行されるという悲痛な事件が起きたことだと理解されることが多いが、それは必ずしも正確ではない。

「冷戦後」が生んだ普天間問題

今となっては隔世の感があるが、米ソ冷戦が終結したとき、世界的に流行した言葉は「平和の配当」であった。それまで冷戦のために費やされてきた資源や労力を軽減し、あるいは別の用途に振り向けるという「配当」が期待されたのである。中国台頭などが言われるようになるのは、そのずっと後のことである。

しかし、この流れに危機感を抱いたのが、日本を含むアメリカの一部同盟国であった。ソ連が消滅し、ヨーロッパでは冷戦は確実に終わったかもしれないが、アジア太平洋には不安定要因も残ると見えた。そのような中、「平和の配当」の掛け声の下、アメリカ軍が一方的に削減され、撤退するのではないか。それがこれら諸国の外交・防衛当局者の懸念であった。 

このような声に応える形で1995年に提出されたのが、当時、米国防次官補であったジョセフ・ナイの名を冠した「ナイ・レポート」(「東アジア太平洋安全保障戦略」)と言われる政策文書である。この文書は上記同盟国の不安を払拭する意味もあって、アジア太平洋における米軍の「10万人体制維持」を打ち出した。日本国内でこれに最も鋭敏に反応したのが、当時の沖縄県知事・大田昌秀であった。

トップダウンの返還決定

大田は「10万人体制」に対して、冷戦終結に伴う「平和の配当」という機運を逃せば、沖縄における大幅な基地の縮小を実現する機会は未来永劫、失われるのではないかと危機感を募らせた。しかし日本の歴代の政権は基地縮小の努力を口にはするものの、本腰を入れる気配は一向に見えない。そうして大田が最終的に選んだのが、軍用地の強制使用に関わる知事の代理署名を拒否するという手段であり、95年の夏には村山富市政権の中枢に代理署名拒否の意向を伝えた。

もともと沖縄の基地は、沖縄戦で上陸した米軍がそのまま基地を築き、その後「銃剣とブルドーザー」とも言われた強硬手段によって拡張されたという経緯から民有地が多い。地主が借り上げを拒否した場合、知事が代理署名をするのだが、大田はこれを拒否する決意を固めたのである。

日本のみならずアジア太平洋を見据える強固な日米安保体制だが、その足元を見れば、基地が集中する沖縄における軍用地の借り上げ契約にその存立を負っている。実際に代理署名拒否が実行されれば、沖縄の米軍基地の多くで借り上げ契約の期限が切れ、不法占拠状態が発生することになる。そこに起きたのが先述の少女暴行事件であり、戦後沖縄における基地関連の事件・事故を凝縮したような事件に、県民の悲しみと憤りが沸騰したのであった。そのうねりが、大田の代理署名拒否の決意に追い風になったことは間違いあるまい。

1995年9月、大田は代理署名拒否を正式に表明した。その後、1996年1月に村山の後を継いで首相の座に就いた橋本にとって、この代理署名拒否は日米安保の根幹を揺るがしかねない大問題となっていた。しかし米軍用地の安定的継続使用のため、法改正によって知事から代理署名の権限を取り上げるという緊急措置に踏み切れば、連立与党・社民党の反発を招き、連立瓦解は必至であった。追い詰められた橋本が踏み込んだのが、それまで予期されていなかった普天間返還という「サプライズ」であった。だがそれは日本政府内の外務・防衛当局者がおしなべて反対し、無理だとなだめにかかる中での孤独な決断であった。

予告された迷走

そして冒頭の普天間返還合意発表となるのだが、問題は「代替施設」という今に至る難問である。返還合意時の発表は、この点について嘉手納基地を中心とする沖縄の他の基地内にヘリポートを建設し、山口県の岩国基地などにも機能の一部を移すことで返還される普天間の機能を維持するというものであった。しかし実際には、具体的に内容が詰められたものであったとはいえない。この後、代替施設をめぐって20年近く事態が迷走していることが、その何よりの証左であろう。

沖縄県の基地の状況
出典:沖縄県基地対策課「沖縄の米軍基地」(平成25年3月版を基に作成)

この点について橋本自身は、「そういう問題を、例えば防衛庁(当時)が在日米軍のトップと連携をとるとかいう余裕がなかった」と、一部新聞の「スクープ」が先行して情報が漏れたことに理由を帰し、「その点で本当に悔いがある。あの数日は」(『朝日新聞』1999年11月11日)と述べる。

だが、沖縄の米軍基地縮小に際して最大の関門が、移設先を沖縄県内に求める「県内移設」にあることを、政策通でならした橋本が知らなかったはずがない。たとえば那覇市中心部に近い那覇軍港など、返還が合意されたのは1974年だが、県内移設が条件とされたため40年たった現在でもそのままである。普天間の全面的な移設先として沖縄県内を想定したのであれば、とても「スクープ」で失われた数日程度で目処がつく話ではなかったのである。

その意味で普天間返還は、合意発表の時点からその実行可能性について危うさをはらんでいたのであり、その後の迷走は予告された面があったと言えなくもない。だが、時の首相・橋本はそれだけ追い詰められていた。橋本はやがて、このジレンマを一挙に解決するかに見えたメガフロートを用いた「海上基地」案に飛びつくことになるが、それは結局のところ、海上案か陸上案かをめぐる新たな混迷の始まりとなった。

深まる沖縄と本土の溝

一方で大田は、代理署名拒否をめぐって最高裁まで争い、1996年8月に県側が敗訴したことをもって署名応諾に踏み切った。だが大田の応諾が、これと前後して政府から手厚い沖縄振興策が示されたことを受けたものであるかに見えたことに、「カネとの取引か」と県内からは反発の声も強かった。県内移設の候補地と目された名護市では反対多数の住民投票、これを覆す市長の態度表明と事態は迷走し、政府との板挟みになった形の大田は逡巡の末に最終的には移設反対の姿勢を示したものの、すでにその求心力は失われていた。

その後、1998年11月の知事選挙で大田を下して知事に就任した稲嶺恵一は、「15年」という期限付きかつ軍民共用という条件で辺野古への移設受け入れを表明した。その後任の仲井真弘多知事在任時には、知事、名護市長など関係首長が「辺野古への移設やむなし」で足並みをそろえた時期もあり、外務・防衛など政府当局者は「千載一遇のチャンスだった」と悔やむ。その後、民主党政権が発足し、鳩山由紀夫首相が「最低でも県外」を提起することになったからである。

「あの時、鳩山首相が余計なことを言わなければ・・・」というのが、政府当局者、そして本土世論の大勢であるように見える。しかし沖縄の人々にとっては、鳩山政権下で本土への「県外移設」という話が出た途端に、本土各地からあからさまな拒絶反応が示されたことの方がショックであったろう。そもそも日米安保は沖縄を守るためではなく、日本全体のためであるはずなのに、という思いがそこに重なる。地政学等々の説明が試みられたが、結局は安全保障専門家として防衛相を務めた森本敏が述べたように、移設先は「軍事的には沖縄でなくてもよいが、政治的には沖縄が最適」だということであろう。

二度にわたる「政治化」

こうしてこの20年余りを概観すると、普天間飛行場の県内移設ということが、事の発端からしてそもそもの「無理筋」であったようにも見える。そこを糊塗して辺野古への移設を進めるために、この20年余りにわたって各種の振興策が沖縄県内に注がれた。

かつて基地負担と沖縄振興策とのリンクは、注意深く、少なくとも表向きには結び付きが避けられたものであった。しかし、「カネで基地を我慢せよ」と言わんばかりのその後のあからさまなリンクは、かえって感情的な軋轢を惹起し、沖縄と本土との溝を深める結果となったことは否めない。

加えて二度にわたる首相主導の「政治化」が、この問題をことさら難しいものとしたように思われる。すなわち一回目は、代理署名拒否による日米安保体制の「不法占拠化」を突きつけられていた橋本首相による返還合意発表という「サプライズ」の演出、そして二回目は、鳩山首相が「対等な日米関係」の象徴として十分な検討なしに「最低でも県外」という策にのめり込んだことである。おそらく運用レベルで相当程度に軽減できるであろう基地負担が過度に「政治化」されてしまったことで、誰もが背負いたくないアイコンと化してしまった。

「三度目の政治化」 を危惧する

県知事選挙後の12月に行われた総選挙では、現行案推進を掲げた自民党候補は、全ての選挙区で落選した。現行案を拒否する沖縄の民意は、この20年余りの政府側のアプローチにもかかわらず、もはや明確だと言わざるを得ない。しばしば誤解されがちだが、ここでいう沖縄の民意は、県内に存在する全ての米軍基地について直ちに撤去せよと求めているのではない。「基地転がし」とも言われる「県内移設」に対して、もはや負担は限界だと訴えているのである。

仮に辺野古への移設という現行案が、この度の県知事選挙や総選挙で示された沖縄の反対の声を押し切って敢行されるとき、それが「三度目の政治化」となることを筆者は危惧する。すなわち、この状況において現行案の貫徹を目指せば、それは沖縄と本土との紐帯(ちゅうたい)を深く揺るがす象徴的問題となるだろう。そうなってしまえば、結局は沖縄に多くを依存する日米安保体制の安定そのものを揺るがすことになりはしないか。

確かに普天間は政治にとって、極めつけの難題と化してしまった。アメリカ知日派の筆頭と目されるアーミテージ元米国務副長官は、「復帰時点で日米政府がもっと沖縄の基地問題に真剣に取り組んでいたら、こんなに難しくはならなかった」(沖縄タイムス社編『民意と決断』)と吐露する。果たしてこの「遅れてきた宿題」の解決すべき本質はどこにあるのか。日本の政治がその核心を見据えることを避け、「すでに決まっているから」というだけで事を推し進めれば、結局はこの問題を一層深刻なものとし、より困難な形で次世代に負わせる結果を招くであろう。

(2014年12月10日 記)

タイトル写真:(左)2014年11月16日、沖縄県知事選で当選、娘から花束をもらう翁長雄志氏(写真提供:時事)/(右)普天間飛行場にならぶ米海兵隊新型輸送機オスプレイと、宜野湾市街地

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