ゲイやレズビアン:性的指向の自由は「21世紀の人権」-日本社会とLGBT

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東京都渋谷区で2015年4月、生計をともにする同性カップルを「結婚に相当する関係」と公的に認める条例が施行されるなど、日本でも性的少数者の権利が注目されるようになってきた。

人口の5%程度は性的少数者

まずLGBTという言葉の解説から始めよう。そもそもこれに説明が必要である時点で、日本が後進国であることの証明なのだが、知られていないのだからしかたない。L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル、両性愛者)、T(トランスジェンダー、性別違和もしくは性同一性障害)の総称で、セクシュアルマイノリティ(性的少数者)を指す言葉として広く使われている。性同一性障害については、最近「障害」ではないという意味で用語法が問題視されるようになり、性別違和という言葉が使われるようになった。

LGBTの人口比に関しては厳密な統計はないが、さまざまな調査から人口の約5%程度と言われており、学校のクラスに1人はいるということになる。にもかかわらず、同性愛と性別違和との区別すら充分に理解されておらず、日本の取り組みは遅れている。

ただ遅れているのは日本社会だけではない。セクシュアルマイノリティに対する差別を、性的指向に対する差別と表現するのだが、この性的指向(sexual orientation)というのは、人種や性別などと異なり、憲法で平等に扱われるべき権利として明記している国もほとんどない。(※1)

国連でも、未だに一致した意見の集約ができない状態にある。当事者の合意に基づく同性愛行為を死刑に処する国まであるからである。思想信条の自由などを「19世紀の人権」とした上で、日本国憲法25条(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)に象徴される「生活権」を「20世紀の人権」と呼ぶのなら、性的指向は、いわば「21世紀の人権」とでも呼ぶべき、新たに認知された権利ということができるのだ。

男性同性愛に寛容だった日本社会

日本社会は実は明治半ばまでは男性同性愛にたいへん許容的な社会で、武士や僧侶などの間で、同性愛行為は一般的なものとして認められていた。キリスト教を背景として、同性愛が宗教上の罪であるとともに、刑法上も犯罪とされたヨーロッパとは大きく異なっている。

武士や僧侶に代わって、明治では学生寮がそうした同性愛の現場であったことは、森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』などにも描かれている。しかし明治後期以降の近代化のプロセスで、同性愛を「病気」とする西欧の医学が持ち込まれ、同性愛を変態視する発想が根付くようになる。

世界ではじめて同性愛者の権利運動が立ちあがるのは、1969年のニューヨーク・マンハッタンでの事件が端緒となった。当時は同性愛が違法であったため、ゲイバーに警察のがさ入れが入ったのだが、そこにいた同性愛者たちが籠城して闘い、バーの名前から、ストーンウォール事件と呼ばれている。今でも事件のあった6月になると、マンハッタンには多様な性を象徴する虹色の旗が翻る。

1990年代の裁判闘争が転機に

日本では1990年の「府中青年の家」事件がひとつの転機となる。これはあまり知られていない「事件」なのだが、日本におけるセクシュアルマイノリティの問題を考える上で、最も重要な出発点である。「府中青年の家」という東京都の公共宿泊施設を、同性愛者の団体である「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」が利用したことが発端だ。従来は同性愛者の団体であることは隠して利用していたのだが、いつまでも隠しているのではなく、前面に出して理解を求めていくべきではないかとの意見が内部で出た 。

そこで議論の末、夜の団体紹介の場で、「私たちは同性愛者の人権を考えていく団体です」と述べたところ、廊下ですれ違うごとに「あ、またホモがいた」、風呂場をのぞき込んで「あいつらホモなんだぜ」といった嫌がらせを受けた。誤解を解く場を開いてもらおうとしたのだが、充分なものにはならず、それどころか府中青年の家の次回以降の利用まで拒否されてしまう。

東京都教育委員会の示した理由は、青年の家の「男女別室ルール」に従うと、同性愛者は室内で性交渉ができてしまい、青少年の健全育成によくない、というものだった。これに対してアカーは、1991年に東京地裁に提訴。

東京地裁は 94年に、「性行為を行う具体的な可能性がなければ利用は拒否できない」とした上 で、「アカーにはそのような可能性はない」として、原告ほぼ全面勝訴の判決を出した。注目されるのは、そこで同性愛について「人間が有する性的指向のひとつであって、性的意識が同性に向かうものである」という価値中立的な定義を与え、その観点に基づいたときに、差別・抑圧があることを指摘した点である。

「知らなかったでは許されない」差別

ところが東京都は控訴。主張の中で、「90年当時は正確な知識がなく、拒否した判断はしかたなかった」と述べた。これに対する 97年の東京高裁の判決は圧巻である。原告の全面勝訴を言い渡したのみならず、「行政当局としては、少数者である同性愛者を視野に入れたきめの細かい配慮が必要で、同性愛者の権利・利益を考えなければならない。そうした点に無関心であったり、知識がないということは、公権力の行使者として、当時も今も許されることではない」と断じたのだ。

「知らなかったでは許されない」というのが、この判決のメッセージである。だからこそこの事件の経緯は、高校までの必修科目で習うべき内容であるはずなのだ。性差別や人種差別が間違っているのと同様に、同性愛者の差別についても、「知らなかった」は許されないとしているのだから。これは裁判所からの、現在の日本社会に対するたいへん厳しい批判でもある。「知らなかったではすまされない」というのに、なぜ多くの人が、今まで学ぶ機会すらなかったのだろう。判決は1997年のことである。

急速に認知すすんだ性別違和

ここまでは「LGB」の話になるので、「T」の性別違和の問題も取り上げておこう。日本では1996年7月埼玉医科大学倫理委員会が答申として、① 性転換症(当時の呼称)という症例の存在を認める、② 手術を含めた治療が正当な医療行為であることを認める―― としたことが転換点となり、「症例」としての認知が進んだ。

翌97年には日本精神神経学会による診断のガイドラインができる。2001年には「3年B組金八先生」で上戸彩が性別違和の子ども役を演じ、この問題が広く知られるひとつのきっかけとなった。さらに 03年には性同一性障害特例法が成立し、こうした医療上の診断に基づく性別違和について、精神科医の診断を受けている、20歳以上であること、現に婚姻をしていないこと、など一定の条件の下で、戸籍上の性別の変更が認められるようになった。

同性愛の問題は、府中青年の家事件が転機であったとはいえ、明治から問題は認識されており、1970年代には『薔薇族』のような男性同性愛者向けの雑誌が成立している。それに対し、性別違和は、虎井まさ衛がFtM(女性→男性)の性別適合手術を1988年にアメリカで受けたことが、日本でこの問題が最初に認知された事例とされており、その意味では歴史は比較的浅い。

にもかかわらず、まるで同性愛の問題を追い抜くように、急速に「問題」としての認知が進み、法律の制定まで進んだのは、それが医学上の「病気」とされたからであろう。「症例」であるために「救済」の対象となったのだ。逆に言うと同性愛は、あくまで「指向」の問題であるために、個人の問題として留め置かれたといってもよいだろう。

まずは基本的な生活に関する保障を

2015年4月東京都渋谷区で同性愛者をパートナーとして認める条例が、全国ではじめて施行された。同性愛者をパートナーとして認める法律を持つ国は北西ヨーロッパではもはや一般的で、さらに結婚とまったく同じ効力を持つ同性婚を認める国も北欧やオランダなどをはじめとして、珍しいものではない。

日本では同性婚に関し、憲法24条の「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」という条文との整合性が問題とされている。24条の立法趣旨は家長の権限で決められていた結婚からの独立であって、「両性」を「女と女」、「男と男」と判断することを禁じていない、というのが、同性婚を認めるべきと考える法学者の見解である。

日本で即座に同性婚が認められるようになるとは考えがたいが、「内縁関係」に準ずるような関係として、せめて手術の同意や入院時の付き添い、アパートへの入居、相続や保険受取人としての認定といった基本的な生活の水準で、関係が認知されるか否かが、喫緊の課題と言えるだろう。

タイトル写真:同性婚の挙式を行い、記者会見でキスをするタレントの一之瀬文香さん(左)とタレントの杉森茜さん=2015年4月19日、東京都新宿区(時事)

(※1) ^ ポルトガルでは2004年の憲法改正で性的指向を平等に扱われる権利の一つとして明記した。

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