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「メディア五輪」=東京大会は最大限の「政治的効用」を目指せ

佐藤 卓己【Profile】

[2018.05.14]

朝鮮半島の南北融和に向けた動きを演出した平昌冬季五輪。政治利用として批判されることも多い五輪だが、そもそも政治と切り離すことができるのか。メディア史を専門とする筆者が、歴史的な五輪の本質を振り返るとともに、メディア社会における東京大会の在り方を問う。

今年2月に開催された平昌五輪で、日本選手団は冬季大会では過去最多のメダル13個(金4、銀5、銅4)を獲得した。2020年東京大会を2年後に控え、新聞もテレビも国民の五輪熱をあおり立てていた。

筆者はスキーもスケートも特に関心がなく、競技中継よりも北朝鮮代表団の動向など朝鮮半島を巡る国際政治ニュースに興味をそそられていた。実際、この平昌五輪で掲げられた大会テーマ「一つになった情熱(Passion. Connected)」は、予言の自己成就とでも言うべきか、朝鮮半島の南北首脳対談につながったわけである。古代ギリシャの「聖なる休戦」に範を取った「平和の祭典」には、今日も一定の政治的効用があることは確かである。

「メディア五輪」=集客ビジネス時代の終えん

そもそも五輪を含むスポーツ大会の多くは、新聞やテレビなどマスメディアで報道されることを目的に開催されている。その報道は「ニュースの製造」であり、米歴史家ダニエル・J・ブーアスティンが言う「疑似イベント」(=広く報道されることを前提に、人為的に仕組まれた出来事)にほかならない。

メディア論として考えるならば、五輪競技場での実際の観戦が「本物の体験」で、居間でのテレビ視聴が「偽物の体験」だと言うことはできない。むしろ逆である。競技場での観戦は、ちょうど映画のロケ現場を見学するのに似ている。現場の熱気は直接肌で感じられるかもしれないが、それでコンテンツの全体が見渡せるわけではない。一方、完成した映画作品の劇場鑑賞に対応するのが、居間のテレビで見る五輪体験だ。どちらを「本物の体験」と考えるかは人それぞれだが、映画体験の場合であれば、ロケ見学よりも劇場鑑賞の方が本質的だろう。つまり、競技場での観戦より居間のテレビ視聴の方がリアルな五輪体験だと言うこともできるわけだ。すなわち、「メディア五輪」である。

こうした「メディア五輪」であれば、五輪チケットが売れず、現地ホテルが埋まらないのは当然だろう。現在、東京はホテル建設ラッシュだが、「メディア五輪」状況が劇的に変わらない以上、そうした過剰な宿泊施設が負の遺産とならないことを祈るばかりである。ちなみに、五輪終了後50年となる2070年の日本の人口は約7000万人と推定されており、高齢化率は40%を超えているはずだ。果たして新国立競技場ほか巨大施設の適切な維持管理に、長期的展望はあるのだろうか。

この点では、テレビで見る五輪にスタジアムは不要と断じた建築家・磯崎新の主張にもっと耳を傾けるべきではなかったか。磯崎は14年11月に日本外国特派員協会で記者会見し、五輪開会式を皇居前広場の仮設会場で開催することを提案していた。10万人の観客をスタジアムに閉じ込めるのではなく、10億人の人がライブで楽しめるような都市的スケールの広がりを持つメディア時代にふさわしい開会・閉会式を、江戸城の石垣を背景とする広場を舞台として行うという提案である(磯崎新『偶有性操縦法―何が新国立競技場問題を迷走させたのか』青土社・2016年)。こうした発想こそ、持続可能なシステムを目指す少子高齢化時代の五輪構想だったのではないか。

いずれにせよ、「現地」集客ビジネスとしての五輪がすでに終わっていることは、東京大会以後の開催地、つまり2024年のパリ、28年のロサンゼルスが事実上は無競争で決まったことからも明らかである。新たな設備投資の負担に耐えられないと判断した各都市が次々と撤退を表明した結果である。

エンブレム問題に見る広告ビジネスとしての五輪

集客ビジネスとしての五輪がすでに終わっているとしても、メディア社会の広告ビジネスとしてはなお生き続けている。それを裏付けたのは、2015年7月に表面化した「五輪エンブレム問題」だろう。グラフィックデザイナー・佐野研二郎氏の作品がいったんは公式エンブレムとして発表されたが、インターネット経由で一気に広がった「パクリ」疑惑で取り下げを余儀なくされ、再公募により今日のエンブレムが確定している。この不祥事もメディア社会における五輪を象徴する出来事だった。

メディア研究者の立場からすれば、「剽窃(ひょうせつ)」など著作権侵害は論外としても、「模倣」や「引用」は必ずしも否定されるべきものではない。仏社会学者ガブリエル・タルドは『模倣の法則』(1890年)で発明と模倣は対立概念ではなく、その違いは紙一重であることを論じている。「社会とは模倣である」以上、無意識の場合を含め模倣されない人間行動は社会科学の対象とはならないからだ。

今回の「パクリ疑惑」の構造を歴史的に分析した加島卓は、『オリンピック・デザイン・マーケティング―エンブレム問題からオープンデザインへ』(河出書房新社、2017年)において、デザインとアートの違いを次のように指摘している。クライアントやユーザーの「使い方」に訴えるのがデザインであり、批評家や鑑賞者の「見方」に委ねるのがアートである。以下では、五輪というメディア・イベントをスポーツの「見方」からではなく、ナショナリズム発散の場としての「使い方」から検討してみたい。

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  • [2018.05.14]

1960年 広島市生まれ。京都大学大学院教育学研究科教授。専門はメディア史、大衆文化論。1984年 京都大学文学部史学科卒業。86年、同大大学院修士課程修了。87~89年ミュンヘン大学近代史研究所留学。89年京都大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学新聞研究所・社会情報研究所助手、同志社大学文学部助教授、国際日本文化研究センター助教授などを経て、2015年より現職。主な著書に『「キング」の時代』(岩波書店、2002年/日本出版学会賞受賞、サントリー学芸賞受賞)、『言論統制』(中央公論新社、2004年/吉田茂賞受賞)、『輿論と世論』(新潮選書、2008年)、『災後のメディア空間―論壇と時評2012-2013』(中央公論新社、2014年)、『「図書」のメディア史』(岩波書店、2015年)等。

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