悪質タックル問題と「ブラック」部活動指導

社会

課外の部活動は「生徒の自主的・自発的な参加」に基づくと学習指導要領に定められている。しかし、実際には「自主性を強要」し、自分で考え判断する機会を奪っているのではないだろうか? 中高時代の部活動の在り方にさかのぼって、日大アメフット部の悪質タックル問題を考える。

「1プレー目でつぶせ」

大学スポーツとして決してメジャーとは言えないアメリカンフットボールが、これほど注目されたことがあっただろうか。2018年5月6日に行われた日本大学と関西学院大学の定期戦で、日大のディフェンスライン(DL)の選手が、試合の流れとは無関係に、関学のクォーターバック(QB)に背後からタックルして、けがを負わせた事件は、連日、マスメディアに大きく取り上げられた。

この事件では、タックルの悪質性以上に、問題が起きた背景や、その後の関係者の対応が注目を集めた。とりわけ、日大DLが、監督やコーチから関学QBを「1プレー目でつぶせ」と指示されていたことを巡って、監督とコーチは「けがをさせるような意図で言ったのではない」と主張し、これが大きな非難を浴びることとなった。

その詳細は他に譲るとして、この記事では、事件の背景にある運動部活動やスポーツ指導の在り方について考えてみたい。

「自分で判断できなかった」

今回の事件で人々の記憶に最も残ったのは、日大DLの会見であろう。20歳になったばかりの学生が、実名と顔を出して会見に臨んだ。そして、相手を負傷させる意図をもって関学QBにタックルしたことを、自ら認めた。

「プレー中の出来事だ」「勢いが止まらなかった」と言い訳することも可能だっただろう。だがそうした言い訳はなく、意図的にタックルしたのだと、刑事責任が問われることになっても不思議ではないほどに、正直な告白であった。確たる信念をもって、発言しているように見えた。

その信念は、会見時に読み上げた陳述書の最後に、こう示されている。

本件は、たとえ監督やコーチに指示されたとしても、私自身が「やらない」という判断をできずに、指示に従って反則行為をしてしまったことが原因であり、その結果、相手選手に卑劣な行為でけがを負わせてしまったことについて、退場になった後から今まで思い悩み、反省してきました。そして、真実を明らかにすることが償いの第一歩だとして、決意して、この陳述書を書きました。

「つぶせ」という監督やコーチからの指示の問題性に気付くことができなかった。そして、指示どおりに危険なタックルを入れてしまった。自分で判断できなかったことが最大の問題である、と日大DLは謝罪した。

「恐怖の下では、教育は成り立たない」

日大DLの会見から4日後に開かれた関西学院大学側の会見は、日大DLの苦悩をよく理解しているかのようであった。記者から学生スポーツの在り方を問われた際に、関西学院大学アメフット部・鳥内秀晃監督はこう述べた。

大学スポーツですけど、もともとスポーツいうのは自分らで考えてやるもんで、その中から人格が形成されていく (略) 恐怖の下、体罰の下でやって教育が成り立つかといえば、あり得ないと思います。これ、いろんな競技が今ありますけど、いまだにそういう体質でやっておられるところがあるんであれば、今こそ改革するチャンスではないかなと。これは小学校、中学校、高校と、みんな同じや思いますけど。

監督におびえながらその指示通りに動くということではなく、自分の力で一つ一つ判断していく。鳥内監督は、小学校から大学まで、スポーツ指導の意義はそこにあると考えている。

名ばかりの「自主性」

鳥内監督が、「小学校、中学校、高校と、みんな同じや思います」と述べたことは、とても意義深い。

大学もまた教育機関であり小中高と同じように、部活動指導は立派な教育活動である。果たして学校の部活動は、部員自らが考えるプロセスを重視できているだろうか。

実は中学校・高校の部活動は、そもそも「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」ものとして、国の学習指導要領に定められている。規定上はあくまで、自主性あるいは自発性を直接的に具現化する機会のはずである。しかし現実には、部活動への参加が強制されていることも多く、自主的なものであるということを知らない生徒さえいる。

スポーツ庁が2017年に実施した「運動部活動等に関する実態調査」によると、公立中学校では、全体の32.5%において、生徒全員の入部制をとっている。全国の3分の1の中学校は、部活動を生徒に強制しているのが現実で、「自主性」とは名ばかりである。

また、強制かどうかに関係なく、おおよそ9割の中高生が部活動に参加している。高校で運動部に所属していた生徒の6~7割が、大学に入学する際に運動部から離脱するという実態を考えると、強制はなくとも半強制という現実があると考えられる(拙著『ブラック部活動』)。

部活動をやめさせない圧力

しかも不思議なことに、自主的であるはずの部活動において、「自主練」というものがある。例えば、授業前や日曜日の練習が、ときに「自主練」と呼ばれる。しかしながらその「自主練」に、顧問である教員が来るのはもちろんのこと、まるで強制であるかのように、生徒もほとんどが参加する。

自主性の軽視は、部活動の入部時だけではなく、退部時にも起こり得る。部活動顧問が、「やめたい」という生徒を何としてでも引き留めようとするのである。

とある高校では、部活動をやめたいと申し出た生徒に、顧問が「一緒にやってきた仲間のことも考えろ」「お前は人間のクズだ」と怒鳴りつけた。

怒鳴りつけた理由は、果たして「一緒にやってきた仲間のこと」を思ってのことなのだろうか。顧問が部活動に執着するとき、そこから離脱しようとする生徒は、顧問に抵抗する反乱分子のように見える。これを指導し説得することがまた、部活動指導の一環と考えられ、さらにはそこに教員としての指導力の高さが現れると見なされる。

もちろん、何でも生徒の思い通りにすることには、慎重でありたい。だが、部活動はそもそも生徒の自主的な参加により成り立つものである。「部活をやめたい」という生徒に、顧問が激怒する正当な理由はない。

日大DLが教えてくれたこと

私は、部活動は害悪だらけだと言いたいのではない。部活動が自主的な活動であるとするならば、その通りにもっと自由度を高めるべきだと言いたい。

それはすなわち、上層部からの命令に忠実な人間を育てるのではなく、その命令の意味を自分の中で捉え直すことができる人間を育てていくということである。部活動というものが「自主性」とは名ばかりに、生徒を拘束し続けて自由を奪い、自分で考え、判断する機会さえも奪っているのだとしたら、それは間違った教育活動である。

そして日大アメフット部の悪質タックル事件は、まさに間違った教育活動が積み上げられてきた結果として起きた事件である。

ただその中でも、一つだけ救いがあった。

日大DLが試合中にとった行動は、大いに問題である。それでも、日大DLはタックルの直後に自分の行為の問題性に気付き、いち早く、相手方に謝罪すべきだとの立場を明確にした。さらには公衆の面前で、自分の罪を正直に告白した。

この日大DLの自ら考えた結果の真摯な態度が、部活動指導の問題性へと私たちの関心を誘ってくれたようにみえる。

世論は、日大DLによるタックルそのものの悪質性よりも、監督やコーチによる指導の悪質性を問題視した。この社会には、部活動指導の在り方を変え得る力が、宿っているようだ。

一つの事件が引き出したこの世論の力を、大切にしていきたい。

バナー写真:練習を再開した日本大学アメリカンフットボール部=2018年6月29日、東京都世田谷区(時事)

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