曲がり角を迎えた日本の対イラン外交:米制裁巡り、原油の輸入を停止

政治・外交

米国の対イラン制裁を巡る日米協議が続く中、石油元売り各社がイラン産原油の輸入停止を決めるなど、日本の対イラン外交が曲がり角を迎えている。第1次オイルショックからイラン革命、イラン・イラク戦争、湾岸戦争といくつもの荒波を乗り越えてきた両国関係の推移を、イラン研究者として、また外交の第一線で見つめてきた田中浩一郎・慶応義塾大学教授に聞いた。

田中 浩一郎 TANAKA Kouichirō

慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科教授。専門は中東地域、とりわけイランを中心とした国際関係とエネルギー安全保障。1961年生まれ。東京外国語大学外国語学部ペルシア語学科卒業。同大学院修了。在イラン日本国大使館専門調査員や国連アフガニスタン特別ミッション政務官を務め、中東外交の一線で活躍。日本エネルギー経済研究所・中東研究センター長などを経て現職。

イラン革命当時でもなかった輸入停止

——日本の石油元売り各社がイラン産原油の一時輸入停止を決めた。米国のイラン制裁を巡る日米協議で日本は輸入継続を求めているが、米国の理解は得られていない。この状況をどう捉えているか。

田中  日本とイランとの石油を介した付き合いは非常に長い。1973年の第1次石油ショック直前に、日本は7割もの石油をイランから輸入していた。これは異常ともいえる数字なのだが、当時の日本・イラン関係の緊密さを表す数字でもある。79年のイラン革命を挟んでイラン・ジャパン石油化学(IJPC)の巨大プロジェクトが挫折するなど紆余曲折はあったが、イランの原油は日本の経済成長を支えてきた。それが今回、ゼロとなる意味は大きい。

最近のイランからの原油輸入は5%前後で、ボリュームとしてはそれほどでもない。しかし、ついに輸入がゼロになる。その象徴的な意味は大きいと思う。日本はこれまで、イラン革命の当時でさえ、原油の引き取りを停止しなかったのだから。

イラン側の視点からすれば、やはりかなりの失望感はあるだろう。これまでの両国関係を概観してみよう。まずIJPCの撤退の後、民生支援の立場から日本は初めて円借款でダム建設事業を手がけている。だが、途中で頓挫してしまった。21世紀に入ってからは、アザデガン油田の開発権益を得たのだが、米国の対イラン制裁のあおりで放棄・売却している。今後の日本・イラン関係を考えると、原油の輸入停止は両国の将来に大きな禍根を残すことになるだろう。

冷戦下という環境が後押しした日本の「独自外交」

——日米同盟の枠の中で逼塞してきた戦後の日本外交にとって、イランこそ独自外交の一条の光だった。その意義をいま問い直してほしい。

イランは産油国、天然ガス産出国が集中する西アジアから中東で、8000万人もの人口を抱える地域大国だ。また、ペルシャ湾の沿岸国の中で最も長い海岸性を持つ国。かつ、その出入り口にあたるホルムズ海峡に、オマーンとともに領海を持っている。これらを見ても、イランは日本にとっても非常に重要な国であることが理解できる。

IJPC開発に関連し、80年代のイラン・イラク戦争の時代には、日本が「シャトル外交」を行って紛争解決に積極的に関わった土地でもある。当時はイラン・イラク双方に等距離の立場で行き来できる国は日本を除いてほとんどなかった。米国をはじめ西側の多くの国は明らかに反イランだった。そして80年代半ばにはイラク支持にシフトしていく。日本は非常にユニークな立場でテヘランとバグダッドを行き来し、独自の「シャトル外交」を通じて停戦を熱心に働きかけた。一時、かなりの感触を得た時期もあった。

——当時の日本とイランの関係はどのようなものだったのか。

革命後のイランは米国との関係がなくなり、米国からの資本、技術導入の道が閉ざされたことで、よりアジア諸国との関係緊密化を模索するようになった。革命前からイランは日本に対していいイメージを持っていて、日本を頼るようになった経緯がある。こうした中で日本は、西側諸国の中で唯一イランと良好な関係を維持し、イランと重要なメッセージをやりとりする役割を担ってきた。この日本の役割は、今も基本的には続いていると考えている。

1980年代から90年代のはじめまでは、日本がかなりの自由度をもって独自外交を展開した。反米を強く掲げるイランとこれほど緊密に付き合う日本の外交姿勢は、米国も容認していた。これは、当時はまだ冷戦下にあったことが強く作用している。イランがソ連と緊密な関係になることは避けたい、西側陣営で対話のチャンネルを持つ国がなくなってはいけない。こうした思いはアメリカを含めて西側諸国にもあったはずだ。

インタビューに答える田中浩一郎氏

イランだけが「封じ込め」の対象に

——その後、1989年の冷戦終結、イラクのクウェート侵攻をきっかけにした91年の湾岸戦争を経て国際情勢は激変していく。

イランでは89年に革命指導者のホメイニ師が死去し、イスラム革命を主導するイランという国も次の時代にステップアップしていくと期待されていた。この当時、イランを国際社会に迎え入れる環境を整えるため、イランの国内改革を支援しようという意見もあった。これこそ当時の日本が独自外交を展開し、米国、欧州諸国を説得していく背景となったと思う。

この動きは他国から一定の容認を得て、日本はイランに円借款を供与した。そして大型ダムを建設し水力発電とかんがいに使うという「民生安定支援」のプロジェクトが動き出した。今からみるとよくやれたと思うが、90年代初めまではこのような国際環境があった。

一方、湾岸戦争でサダム・フセインのイラクが敗北し、イラクの軍事的な脅威がある程度減少した。相対的にイランの脅威が言われ、米クリントン政権はイラクとイランの双方を封じ込める方針(Dual Containment)に中東外交の舵を切っていった。97年に開放路線を掲げるハタミ師が大統領に当選したが、米国はその意義をついに理解することはできなかった。

イラク戦争(2003年)でサダム・フセイン政権が倒れ、米国はその後、イランだけを対象に締め付けを進めている。その背景には、核開発疑惑や弾道ミサイル開発に対する懸念、また中東で米国と敵対する勢力にイランが支援を行っていることなどが挙げられる。さらにイラン国内での人権抑圧問題。これらを題材に、さまざまな局面でイランを政治的、経済的に「叩く」ということが常態化してしまった。

このような経緯から国際社会でイランへの風当たりが強まったことで、イランに対する日本の独自外交は色あせてきた。日米関係に引っ張られて、独自のアプローチをとることが難しくなった。

問題を指摘せず、「請願」するだけの日本

——「トランプの米国」が出現し、日本の対イラン外交はますます厳しい局面にある。日本の対イラク外交の現状をどう見ているのか。今後の日本外交はどのように対処していくべきか。

日本外交の大きな方針は「国際協調」だろう。 「国連中心主義」を「日米基軸」と並列させていた時期もあった。最近は「法の遵守」という言い回しがよく使われるが、いずれも概念としては共通の土台に立っている。ここにきて米国が掲げる「単独主義」「一国主義」は、日本の方針から逸脱するどころか、場合によっては対立を招いていると言っていいだろう。

イランを巡る今回の米国の行動は、国連決議で裏書されている核合意を一方的に破棄するものだ。しかも合意の下でイランが遵守している内容について、IAEAが確認し、違反の事実なしとしているにも関わらず米国は離脱してしまった。

こうした米国とイランの「対立」について、日本は同盟国として米国を諫めようとしていない。日本の石油元売り会社がイラン原油の引き取りを続けられるように請願、懇願するばかりだ。トランプ政権がとった行動に大きな問題ありと指摘し、その論理で真っ向から切り込んだりする対米アプローチを少しもとっていない。こうした安倍政権の対応は、ほかのG7パートナーである欧州諸国とは著しく違う。

日本は核合意の署名国ではないので、欧州諸国と同じ対応を取るべきだとまでは言えないだろう。だが一方で、「トランプの米国」の行動が今後の中東情勢、さらには国際情勢に禍根を残しかねない振る舞いであるなら、米国の緊密な同盟国として指摘すべきはきちんとモノを言ってしかるべきだろう。

米国とイランとの間にはさまざまな問題があり、外交関係も断絶しているため、お互いを敵視、警戒するのは致し方ない。しかし、この敵対関係が日本とイランの関係、日本と米国の関係に直接波及するということが、日常的に、頻繁に起こっては困る。双方の関係改善の仲介を日本が担っていっていくべきではないか。日本が主体的に関わっていれば、現在の状況も少しは変わっていたはずだ。しかし残念ながら、その時期は過ぎてしまったと思う。イランに関して日本外交が影響力を取り戻すことは難しいだろう。

イランを巡る様々な問題については、米国や、中東・東アジアの同盟国が、それぞれの利己的な利益を代弁するためのツールとして使われることはあってはならない。域内における自国のポジションを確立するために、また米国を巻き込んでいくためにイラン問題を利用するようなことがあれば、国際社会の混乱はさらに広がっていくだろう。

インタビュー・構成=ニッポンドットコム編集部
(インタビューは2018年9月28日、東京・虎ノ門のnippon.comで行った)

バナー写真:2017年9月、国連総会出席のため訪れた米ニューヨークで首脳会談を行った安倍晋三首相(左)とイランのロウハニ大統領(Abaca/アフロ)

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