オリンピックと日本外交

政治・外交

世界中の精鋭選手が集い、日頃の鍛錬の成果を競い合うオリンピックは、スポーツの祭典の最高峰であるのみならず、各国にとっては重要な外交機会となっている。オリンピックの持つ外交的側面について、日本との関連を歴史的に概観する。

オリンピックの外交的側面

表彰台で金メダルを手に涙を見せるソフトボールの上野由岐子選手(2008年北京五輪)。

4年に1回開かれる国際スポーツの祭典オリンピックには、世界中のトップアスリートが結集し、日ごろの鍛錬の成果を競い合う。大会の模様はメディアによって大きく報じられ、全世界の注目を集める。したがって、各国がオリンピックを外交的に利用しようとするのは、当然であるといえる。

オリンピックの外交的側面とは、具体的に何なのであろうか。

第1は、国威発揚、ナショナリズムの盛り上げである。メダルを幾つ獲得するか、特に国旗を背景に、国歌吹奏のもと、表彰台の中央で自国選手が金メダルを授与される場面は、国民を熱狂と感動の渦に巻き込む。第2次世界大戦後、メダルの数が国力を反映することに気付いたソ連や東欧諸国は、アマチュアしか参加が認められていなかった当時のオリンピックに対処するため、形式的には公務員などアマチュアだが、練習と試合に多くの時間を割く 「ステート・アマ」を 国家丸抱えで養成し、オリンピックに送り込んだ。

第2は、国家の宣伝に大きな効果を持つことである。オリンピック開催地・開催国は、このビッグイベントを通じて、組織や競技施設の素晴らしさはもとより、街の表情、国作りの様子などを伝える絶好の機会を得る。その代表的な例が、1936年のベルリン大会であった。別名「ヒトラーのオリンピック」と呼ばれるように、ナチスドイツがその威容を誇る宣伝として、オリンピックを最大限に活用したのであった。

第3は、国家としての正統性を訴える手段としての側面である。1988年のソウル大会は、北朝鮮に対する韓国の優位と、国際社会への正統性をアピールする手段となった。それまで韓国を承認していなかった中国、ソ連、東欧諸国も選手をソウルに送り、それが中韓、韓ソ国交正常化へとつながった。

第4は、外交の直接的手段としての活用である。1980年のモスクワ大会では、アフガニスタンからのソ連軍の撤退を求めてアメリカがボイコットを呼びかけ、日本はじめ多くの国が同調した。近代オリンピックの創始者クーベルタンの提唱した「参加することに意義がある」という理想は、「参加しないことの政治的意味を持たせる」ことで踏みにじられたのであった。

戦前の日本の国威発揚とオリンピック参加

次に、オリンピックの外交的側面と日本が関係したケースをみてみよう。

日本が、国威発揚の手段としてオリンピックを強く意識したのは、1932年のロサンゼルス大会と、1936年のベルリン大会であった。

ロサンゼルス大会では、前年に勃発した満州事変の影響によりアメリカの対日感情が悪い中、日本選手は男子背泳ぎ100mで金、銀、銅メダルを独占したのみならず、「バロン西」の名で知られた西竹一中尉が馬術競技で優勝し、「アジアのスポーツ大国ニッポン」を印象付けた。

ベルリン大会では、「前畑、ガンバレ!」の名放送で有名になった前畑秀子の200m平泳ぎ優勝、棒高跳び決勝で2位と3位を分け合った西田修平と大江季雄が、銀と銅のメダルを二つに割ってひとつにした「友情のメダル」、男子マラソンで優勝した朝鮮半島出身の孫基禎の活躍、世界新で金メダルを獲得した三段跳びの田島直人など、ドイツ側の完璧な運営と相まって、日本は次の東京での大会の参考にしようとしたのであった。

幻と消えた1940年東京大会

ベルリン大会がおこなわれた1936年には、国際オリンピック委員会(IOC)において、1940年の第12回オリンピックを東京で開催することが決定した。これは、紀元2600年を記念する行事として日本が活発な招致運動を行った結果であり、同じく開催地に立候補したローマに対しては辞退してもらうよう工作し、航空機のない時代とあって、遠隔地であるハンディをどう説明するかに苦心するなどという努力の末に、アジア初のオリンピック大会の開催を勝ち得たのであった。

しかし翌年、日中戦争の勃発により、第12回オリンピック開催の前途には暗雲がたちこめることになった。アメリカをはじめとする列国は、戦争当事国での大会開催に疑問を呈し、日本国内でも異議が唱えられた。また、戦争の継続により、鉄材、コンクリートなど資材の不足が生じ、競技場の建設も不可能となった。結果として、日本は開催権返上を決定することとなり、開催国はヘルシンキに変更されたが、第2次世界大戦の勃発により第12回大会そのものがなくなったという苦い過去がある。

戦後復興と1964年東京大会

第2次世界大戦後になると、古橋広之進ら、日本の水泳陣による新記録の更新が続き、無条件降伏と敗戦にうちひしがれた日本国民に希望を与えた。しかし、敗戦国日本は、ドイツなどとともに、オリンピック参加資格をはく奪されていたため、1948年のロンドンオリンピックに招待されず、古橋らも国際舞台で実力を示すことはできなかった。

日本水泳連盟は、ロンドン大会と同じ日に全日本水上選手権大会を開催することで、記録による勝負を挑み、古橋は、1500m自由形と400m自由形で世界記録を更新した。翌年、ロサンゼルスの全米水泳選手権大会に招待された古橋は、戦勝国アメリカの選手に圧勝し、「フジヤマのトビウオ」の活躍は日本人を熱狂させた。

日本選手団の入場行進(1964年東京五輪)。

日本が東京でオリンピックを開催したのは、1964年のことである。第2次世界大戦中には、原爆も落とされて廃墟と化した国が、その復興を世界にアピールするチャンスがやってきたのだ。東京オリンピックを機会に、東海道新幹線、東名高速、首都高速も開通し、衛星テレビの中継を通じ、日本の組織力の素晴らしさや、時間厳守の勤勉さなど、日本や日本人について伝えることができた。安保騒動で混乱した日本国内も、池田首相の唱える「所得倍増論」とオリンピックによりまとまっていった。アメリカは、安保騒動が共産主義者の陰謀によるものではなく、議会制民主主義に危機を覚えた大衆の運動であり「安保反対、岸を倒せ」の大騒動も岸首相の退陣によって落ち着いたと安堵した。

外交的理由からボイコットした1980年モスクワ大会

1980年のモスクワ大会では、オリンピックが日本外交に直接影響を与えた。アフガニスタンで親ソ派のクーデターが発生すると、軍事介入を行ったソ連は、弱体な政権維持のため軍隊を駐留しつづけることになった。反発した諸国は、国連決議などでソ連軍の撤退を要求したが、アメリカのカーター政権は、聞き入れないソ連政府に対し、定められた期日までに撤退させなければ、モスクワで開かれるオリンピックに参加しないと通告した。アメリカは、日本や西ドイツなどに対し、ボイコットに同調するよう求めてきた。日本は、「モスクワに選手を送らないのは、一番安上がりな対米協力」であるとして、ボイコットを決定。最終的には、不参加国は66カ国、参加はしたものの開会式の行進に参加しなかった国は8カ国に達した。気の毒だったのは、大会に備えて苦しい練習に耐えてきた選手たちだった。報復として、ソ連と東欧諸国は、1984年のロサンゼルス大会に参加せず、まさにオリンピックは政治と外交の道具とされたのである。

現在、東京は、2020年のオリンピックとパラリンピックの開催に名乗りをあげている。設備や財政に加えて、テロ対策、環境への配慮、人権問題がらみの抗議への対策なども必要とされるなど、実現までには紆余曲折があろう。国民の支持と日本の英知の結集がなければ、オリンピックの開催は不可能といえる。

(2012年7月19日)

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