東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜

【第1回】東シナ海と倭人の世界

社会

14世紀から16世紀にかけて東アジアで活動した「倭寇(わこう)」は、従来、「日本人海賊」と同義で理解されてきた。しかし、「倭寇」の国籍を特定しようとする議論は、その本質を正しくとらえているのだろうか? 

倭寇・倭人と境界人

私は1993年、『中世倭人伝』という小さな本を書いた(東京・岩波書店刊)。版元から依頼されたテーマは「倭寇」だったが、私はそれを「倭人」に読み替えて、日朝間の国境をまたぐ空間で活動する「境界人(marginal man)」として描き出そうとした。

従来「倭」という語は「日本」と等置され、倭寇即日本人海賊と単純に理解されていた。この常識は今もさほど変わってはいないが、私は15世紀の朝鮮の記録から、朝鮮政府が倭と日本とを別のものと認識している事例、あるいは、対馬から朝鮮を訪れる者は民族的には朝鮮人でも「倭人」と呼ばれた事例を示して、そのような理解に疑問を呈した。

80年代後半、日本人研究者から、14~15世紀の倭寇集団の中で日本人は1、2割にすぎず、高麗人・朝鮮人が多数を占めていた、という見解が出され、日韓の学界で議論が起きた。私はその新説に蒙を啓かれつつも、「倭寇は日本人か高麗人か、その割合はどうだったか」といった問題の立て方に、提起者も批判者も捕らわれていると感じていた。そして、国家的、民族的には多様な出自を持ちながら、国家支配の限界領域である国境空間を生活の基盤とするようになった人間集団、すなわち「境界人」にこそ、倭寇・倭人の本質を見いだすべきではないかと考えた。

このような観点からは、海賊行為に重心のある「倭寇」という語は一面的で、交易や漁業や海運の民として彼らをとらえなおし、海賊行為をもその一部として位置づける必要がある。その場合は「倭人」という語がより適切である。それによって、朝鮮王朝の登場で海賊(pirates)が交易者(trader)に転身していった15世紀をも、さらには、海賊=交易者集団が多民族性を増し、中国大陸沿海部をおもな活動舞台とするようになる16世紀をも、一貫した視点で見とおすことができる。

正反対の倭寇イメージ

その後、韓国や中国の研究者と交流を持つ機会が多くなったが、上記のような倭寇・倭人の理解ははなはだ不評だった。近・現代はともかく古代・中世史においては、日本と韓・中の間で見方が鋭く対立することは少ないのだが、倭寇問題がその最たるものであることに直面して、私は困惑した。批判を要約すると次のようになる。

(1)高麗末期の倭寇は純粋に日本人のみの集団であり、高麗社会にとっては100%外部的な存在である。倭寇の実体は戦闘を職業とする中世武士団で、略奪の目的は南北朝内乱という日本国内戦争のための兵粮米(ひょうろうまい)の獲得にあった。(李領韓国放送通信大学教授)

(2)国家間の公的関係の存続は、地域に安定をもたらす善であり、それを攪乱する倭寇や、倭寇に同調する中国沿海人民の超国家性・境界性を強調することは、悪の肯定的評価という倒錯であり、日本側が負うべき責任を忘れた態度である。(王新生北京大学教授)

両者ともに、倭寇を日本人の海賊集団ととらえ、朝鮮/中国の社会に対する外部者とする点で共通している。それによって、帰属の曖昧な境界空間は消し去られ、国家によって統合された均一な内部空間が確保される。国家の支配圏から離脱しようとする内部民は、裏切り者あるいは犯罪者として処理され、その存在によって内部空間の均一性が揺らぐことはない——。こうしたイメージに、近代国民国家による国民掌握の実態あるいは理念が投影されていることは明瞭である。

歴史事象に対する解釈の対立が存在するとき、歴史学がたちもどるべき原点は史料であり、可能なかぎり捕らわれない史料解釈である。倭寇・倭人の場合、圧倒的多数の史料は朝鮮・中国に残された記録だから、そこに現れた同時代の朝鮮人、中国人が何を見、何を語っているかに、まずは眼を注ぎ耳を傾けなければならない。

史料にたちもどって——(1)朝鮮を訪れる倭人

朝鮮政府は倭人をどう見ていたか 

1441年、慶尚道観察使から、倭人沙伊文仇羅(左衛門九郎)が「私は父母ともにもと朝鮮人なので、朝鮮国内に留まって民となりたい」と願い出たことが報告され、世宗王はこれを許可した(『朝鮮世宗実録』23年6月己丑)。左衛門九郎という日本風の名をもつ「倭人」は、父も母も朝鮮人で、このとき対馬からやってきたと推定される。このような事例はさらに数例見いだされ、私はかれらを「朝鮮系倭人」と呼んでいる。

いっぽう1510年、慶尚道観察使は而羅多羅(次郎太郎)という倭人について、「日本の倭人ではなく、妻帯して薺浦(チェポ)(朝鮮半島南岸の倭人居留地三浦(さんぽ)のひとつ)に住みついている。朝鮮語をよく理解し、すこぶる智略があって、変幻自在である」と報告している(『朝鮮中宗実録』5年6月壬子)。居留地に定住する倭人は「日本の倭人」ではない、という命題から、反対解釈として「日本系倭人」というカテゴリーを導くことができる。

さらに、而羅多羅のような、対馬やその延長としての三浦に居住する倭人を対象に、第三のカテゴリーを立てることも可能である。いずれにせよ、「倭人」を無邪気に日本人と等置することの不当性は明らかだろう。

1459年、世祖王(1455-1468)は海賊行為を働く隣人として「対馬・壱岐・博多等三島(さんとう)の倭人」をあげ、「日本国のごときははるか遠く離れていて、往来まれである」と述べる(『朝鮮世祖実録』5年4月己未)。野人(女真族)・日本・三島・琉球を朝鮮の「四夷」に数えた事例もある(同14年3月乙酉)。また成宗王(1469-1494)は、三島倭人むけの通訳が深処(九州島以遠をさす)の倭語に通暁していないことを危惧しており、三島/深処における言語の相違を認識していた(『朝鮮成宗実録』10年10月戊申)。以上のように、朝鮮支配層の意識の中で、「日本国」は三島や倭人とは別のものとして存在していたのである。

史料にたちもどって——(2)嘉靖大倭寇と郷紳層

明代後期の嘉靖(かせい)年間(1522~1566)、中国大陸南部沿海地方で大規模な倭寇が猛威をふるった。「嘉靖大倭寇」と呼ばれる。その民族構成は、1555年南京の軍人が「禦倭五事」を献策した中で、「夷人(倭人)は十の一、流人は十の二、寧・紹(浙江人)は十の五、漳・泉・福(福建人)は十の九で、大概は倭夷を自称しているが、その実体は戸籍に登録された一般人である」と述べたように(『明世宗実録』嘉靖34年5月壬寅)、倭人は1割程度で、大部分は中国人だった。

この時代に倭寇がはびこる背景には、陸地側の社会変容があった。明代の地方社会を牛耳っていたのは、中央科挙官僚の輩出母胎である「郷紳」層である。あたかも14~15世紀、中国中央部の経済成長はめざましく、通貨需要も中央政府から供給される銭貨では間に合わなくなりつつあった。海禁政策のために東南アジア方面との貿易の機会を奪われていた中国南部沿海の郷紳層は、非合法の中国人海商や国外の海賊集団と手を組んで、密貿易にのりだすようになる。倭寇取締りの責任者だった浙江巡撫朱紈(しゅがん)は、「外国の盗をなくすのは易しいが、中国の盗をなくすのは難しい。中国沿海の盗をなくすのはまだ易しいが、中国衣冠の盗をなくすのはもっとも難しい」と嘆いている(『明史』巻205朱紈伝)。

郷紳と結託した海上勢力の側も、しだいに多民族混成の度合いを増した。朱紈は「海洋賊船出没事」と題する文章で、「海洋に出没する賊船はみな内地の叛賊である。かれらは南からの季節風が吹く時期に、日本諸島・仏郎機(フランキ)(ポルトガル人)・彭亨(ボハン)(マレー半島の港町)・暹羅(シャム)の夷人たちを誘引・糾合して、寧波府の双嶼(そうしょ)港内にやってきて停泊する。それを内地の姦人たちが出迎えて、往来交易する」と述べている(『皇明経世文編』巻205)。双嶼は1520年代から密貿易の基地となっていた舟山諸島の港である。

嘉靖大倭寇が中国社会の外部的存在だったという言説は、同時代の中国人自身によって、明瞭に否定されていたと言わねばならない。

中世の「日本国」と倭寇的状況

倭寇が即日本人の海賊集団ではないとしても、それがなぜ「倭」の字を冠して呼ばれるのか、という問題は残る。それは東アジア海域に広がった国家に捕らわれない人や物の動き——これを「倭寇的状況」と呼ぼう——の中で、日本が占めた特異な位置と密接に関係している。論点は大きくわけて2つある。

第1は、倭寇という概念の中核にあるものは何か、という問題である。

14世紀末、倭寇の鎮圧にあたった高麗・日本の責任者が、倭寇の淵叢(えんそう)は両島だと、異口同音に言明している。倭は国をあげて盗をなすものではなく、その主体は国家の命令系統に従わない対馬・壱岐両島の叛民・寇賊である。かれらは「舟を以て家と為す」ような生活実態で、居所も定かではなかった(『高麗史節要』辛禑13年〔1387〕8月・『朝鮮太祖実録』4年〔1395〕7月辛丑)。15世紀に海賊行為が鎮静化しても、その認識に変化はなく、朝鮮側が念頭においていた「倭人」とは、ほぼ対馬島民とみてまちがいない。

もとより倭寇集団それ自体は、早くから朝鮮・中国の政治的敗者や課役を忌避する沿海民衆をとりこんで、多様な性格を帯びるようになる。その様相については、「倭寇とはだれか」と題する論文でくわしく論じた(『東方学』119輯、2010、東方学会)。しかし、日本列島西辺の島嶼が海賊活動の策源地であるという実態は、長く続いた。ただし16世紀にはその中心が対馬から五島に移っていく。

第2は、14~16世紀の東アジアにおける「日本国」の特異性である。

南北朝内乱、応仁・文明の乱、戦国争乱と続いた戦乱の中で、中央政府の求心力は極限まで低下した。当時、列島の各地から朝鮮へ多様な通交者の群れが押し寄せたが、国際関係の中で日本を代表するはずの「日本国王使」さえも、そうした通交者たちのひとりにすぎなかった。しかも16世紀になると、その名義は対馬以下の諸勢力が仕立てた偽使(ぎし)によって、思うがままに利用されるようになる。

「日本国王使」名義の不正使用すら防げないほど中央政権が弱体だったのだから、地方権力が対外関係に参入することへの障壁はないも同然だった。特に対馬宗氏、大内氏、大友氏、平戸松浦氏、島津氏らの西国大名は、領国が密貿易・海賊活動の策源地となることを取り締まるどころか、逆に貿易利潤のわけまえを懐に入れた。王直ら中国人の倭寇首領は、中国沿海の密貿易基地がつぶされると、列島西辺海域に移動して活動を続けた。

倭寇的状況の世界史的役割

国家史中心の伝統的歴史学からはマイナーに映る倭寇的状況は、16世紀の東アジアにおいて、一国史の枠を超えて世界史的な役割を演じた。

2007年世界遺産に登録された石見(いわみ)銀山では、1533年に新しい精錬技術である灰吹法(はいふきほう)が朝鮮半島から伝わったことで、爆発的な増産をみた。この技術移転は、山陰~博多~朝鮮の密貿易ルート上で活動していた倭人が、朝鮮の民間でひそかに行われていた銀精錬の現場から盗み出すことで実現した。さらに日本銀は、中国経済が銀中心の交換システムへと変貌していく動きの中で、密貿易ルートをたどって大量に中国へ流入した。銀と交換で中国から日本へ運ばれた品目の中心は中国産生糸で、その密貿易を担って巨利をあげたのが倭寇集団、なかんずく新参者のヨーロッパ勢力だった。

鉄砲とキリスト教も、前述の密貿易ルートを往来していた倭寇集団と、その船に便乗していたヨーロッパ人によって、日本に伝えられた。ポルトガル人が鉄砲を携えて乗りこんでいたのは、のちに倭寇王となる王直のジャンク(中国式外洋帆船)だったし、ザビエルを鹿児島に運んだのは、マラッカ在住の海賊(ラダラオ)という仇名を持つ中国人のジャンクだった。鉄砲が戦国動乱のゆくえを左右する新兵器として、またキリスト教が「宗門人別改(にんべつあらため)」という制度による強固な人民掌握を生みだした否定的触媒として、日本史の中世から近世への移行におけるきわめて重要な要素となったことは言うまでもない。

それ自体が巨大な「倭寇」「虜寇」として東アジアに登場した秀吉政権とヌルハチ政権(後金)は、倭寇的状況の中で急速に実現した貿易利潤や生産諸力拡大をわがものとしつつ、強大な軍事国家に成長した。それを受けた江戸幕府と清朝が、試行錯誤のすえに新たな国際秩序を創出し(いわゆる鎖国体制)、倭寇的状況を圧伏していくことになる。

歴史学は何のため?

倭寇・倭人に対する韓国・中国研究者の見方から感じられるのは、現在の民族主義的主張の裏づけを歴史の中に求める姿勢である。そこでは答えは始めから与えられていて、それに合う根拠を史料からむりやり「発見」しようとする。しかしそれに反発して、日本側の民族主義的主張を同等のレベルで対置する——しばしばその誘惑に駆られるのだが——のでは、不毛な行き違いしか生まれないだろう。

私の属している東京大学は、ソウル大学や北京大学と対比されることが多く、韓国や中国の学者の眼には、「国益」に奉仕する学問をやっている所と映っていそうな気がする。だが私の歴史学への思いは、それとはかけ離れたものだ。過去の姿を、現代人の受けているもろもろの制約——たとえば、国民国家の枠組みに流しこんで過去を解釈してしまう、というような——から可能な限り自由になって、同時代の眼にできるだけ近い視線に立って描き出したい。私が歴史学をやっているのは、そうした作業がおもしろいからだ。とくに史料が同時代の文脈において解釈できたと感じる瞬間の喜びは大きい。

現在、国民国家万能主義が行き詰まりを見せているにもかかわらず、北方領土、竹島、尖閣諸島等の境界空間が、息苦しい領土紛争の場となって、ポテンシャルを封殺されている。それを復権させ活性化するために、もし私の研究が、前近代における境界空間のあり方や境界人の活動を明らかにすることを通じて、何らかのヒントを提供できるならば、嬉しいことである。それはおもしろいから、好きだからやっている歴史学と矛盾しない。

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