冷戦後日本外交の軌跡

日米同盟再定義

政治・外交

1990年代、冷戦終焉でソ連という共通の敵を失い、「同盟に意味があるのか?」という疑問に直面した日米両国。ポスト冷戦期の安全保障戦略を模索する中で、日米同盟をどのように再定義していったのだろうか。

1990年代前半、日米同盟はその根幹にかかわる疑問に直面していた。冷戦の終焉によってソ連という共通の敵を失った日米両国にとって「同盟に意味があるのか?」という問いである。ポスト冷戦期における安全保障戦略を模索していた両国は、各々の政策立案過程で、冷戦後の世界においても同盟には重要な意味があるという結論に達した。公式・非公式のさまざまなチャネルで意志疎通を図りながらのことであった。1996年4月、橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領の間で合意された「日米安全保障共同宣言」は、そのことを両国の首脳レベルで確認するという意義を持っていた。翌1997年9月、両国政府は、作戦運用面における協力の具体的な要領を示す新たな「日米防衛協力のための指針」(新「ガイドライン」)に合意した。「日米同盟再定義」の過程である。(※1)

冷戦構造の終焉と日本のポスト冷戦戦略

そもそも日米同盟は、日本が軽武装にとどまり、国外での軍事的なコミットメントを抑える一方で、米軍に基地を提供することによって、米国に対して安全保障面での協力を求めるという関係である。外務省条約局長として旧安保条約締結のための日米交渉に関わった西村熊雄は、安保条約の性格を「一言にいえば、日本は施設を提供し、アメリカは軍隊を提供して日本の防衛を全うしようとするものである。人と物の協力である」としてその非対称性を指摘している。(※2) さらに、日本の防衛という事態を考えてみても日米両国の役割は非対称である。自衛隊が攻撃的な役割を負うことに憲法上の制約があることなどから、敵地に対する攻撃のような「矛」の役割は米国に委ね、日本は専ら防勢的な「盾」の役割に徹することとしてきた。

とはいえ、冷戦の間、特にその末期においては、日本が「盾」の役割を果たすこと自体に国際安全保障上の意味があった。欧州大陸において北大西洋条約機構(NATO)諸国が東側陣営の強大な陸軍をけん制する一方、アジア太平洋戦域において、日米同盟がソ連海空軍の進出路にあたる宗谷、津軽、対馬の3海峡を扼する日本列島周辺を堅固に守っていることは、戦略的に重要なことだったからである。1994年8月、防衛問題懇談会(樋口廣太郎座長)が村山富市首相に提出した報告書「日本の安全保障と防衛力のあり方―21世紀へ向けての展望」(「樋口レポート」)は、このことを「冷戦期における日本の防衛力は、敵対勢力による日本の国土に対する攻撃に備えることを主眼として、整備され維持されてきた・・・・日本はもっぱら個別的自衛権に基づく自国の防衛を使命としてきたが、その地勢上の位置からいって、おのずから西側陣営の対ソ戦略の中で重要な役割を果たしてきた」と解説している。(※3)

この意味は、冷戦終焉とともに姿を消す。1990年と1991年の湾岸危機・湾岸戦争は、日本にとって、「盾」の役割を果たすことの戦略的な意味が大きく低下したことを痛感する機会であった。この危機に際して日本は、世界各国からの拠出金の20%にあたる130億ドルの資金を提供した。これは、サウジアラビア、クウェートに続き第3位の拠出額であったが、多国籍軍と行動をともにする人的な貢献がなされなかったため、日本に対する国際社会の評価は高くなかった。1991年3月にクウェート政府が米国内の主要メディアを通じてクウェート解放に努力した諸国に対する謝意を表したとき、貢献国のリストに日本の国名はなかった。日本の動きは「小切手外交」と揶揄された。

日本の外交政策において、国際的な平和維持・平和構築のために防衛力を活用することが考えられるようになったのはこの頃である。1991年、湾岸戦争直後のペルシャ湾に海上自衛隊掃海部隊を派遣して機雷除去にあたらせたのを嚆矢とし、1992年には、カンボジアにおいて自衛隊として初めての国連PKOに参加した。前述の「樋口レポート」は、「平和維持活動をはじめ、国際安全保障を目的として国連の枠組みのもとで行われるさまざまな多角的協力に可能な限り積極的に参加することを、自衛隊の重要な任務とみなすことが肝要」であるとした。この考え方は、1995年に策定された「防衛計画の大綱」(「95防衛大綱」)にも反映された。「95防衛大綱」は、防衛力が担うべき役割として、(1)我が国の防衛、(2)大規模災害等各種の事態への対応に加えて、(3)より安定した安全保障環境の構築への貢献を明記し、この視点から国際平和協力業務などに積極的に取り組むこととした。(※4)

一方、1993年から1994年にかけての第一次北朝鮮核危機、1993年5月の北朝鮮によるノドン・ミサイル発射などを背景として、日本の周辺における安全保障についての関心も高まった。日本に対する直接的な攻撃にはいたらないものの、日本の安全にとって看過できないような事態を想定することの必要性が浮上したのである。これを受けて「95防衛大綱」は、「我が国周辺において我が国の平和と安全に重要な影響を与えるような事態が発生した場合には・・・・・日米安全保障体制の円滑かつ効果的な運用を図ること等により適切に対応する」と謳った。1996年から1997年にかけて策定された新「ガイドライン」を巡る議論において焦点となった、いわゆる「周辺事態」の前身である。この点は、前述した防衛力の役割(1)~(2)の中では、(2)項、すなわち大規模災害等各種事態への対応に付記された形で整理されたこともあって、注目されることもなかった。「周辺事態」として関心を集めるのは、新「ガイドライン」策定をめぐる議論の中である。ともあれ、「95防衛大綱」は、冷戦間を通じて我が国の防衛一辺倒であった防衛力の役割を拡大した。地域的な、さらには、地球規模での安全保障問題に関しても我が国の防衛力が一定の役割を果たすべきであるということを指摘したのである。

同時に「95防衛大綱」は、日米同盟の意義を強調した。その冒頭には「日米安全保障体制の信頼性の向上に配意しつつ、防衛力の適切な整備、維持及び運用を図ることにより、我が国の防衛を全うするとともに、国際社会の平和と安定に資するよう努めるものとする」とある。また、「95防衛大綱」は、13カ所において日米安全保障体制に言及しているが、1976年に策定された旧「防衛大綱」における記述がわずか1カ所であったことに比較しても、日米同盟を重視した政策文書であるといえる。(※5)

「95防衛大綱」の要点
  • 防衛力の役割
    1. 我が国の防衛
      • 侵略の未然防止
      • 侵略への対応
    2. 大規模災害等各種事態への対応
      • 自然災害等への対応
      • 周辺事態への対応(新「日米防衛協力の指針」(新「ガイドライン」)の「周辺事態」の前身)
    3. より安定した安全保障環境の構築への貢献
      • 国連PKO等
      • 防衛交流・安保対話等
      • 軍備管理・軍縮への協力

    ⇒地域的、地球規模での安全保障問題に関しても日本の防衛力が一定の役割を果たすべきと指摘

  • 日米同盟の意義
    • 「日米安全保障体制の信頼性の向上に配意しつつ、防衛力の適切な整備、維持及び運用を図ることにより、我が国の防衛を全うするとともに、国際社会の平和と安定に資するよう努めるものとする」
    • 13カ所で日米安全保障体制に言及(「76防衛大綱」では1カ所)

    ⇒日米同盟を重視

(※1) ^  この間の経緯を解説した文献は数多い。例えば、柴田晃芳『冷戦後日本の防衛政策』北海道大学出版会、2011年;外岡秀俊、本田優、三浦俊章『日米同盟半世紀:安保と密約』朝日新聞社、2001年、486-540頁;Yamaguchi Noboru, “Japanese Adjustments to the Security Alliance with the United States,” Michael Armacost and Daniel Okimoto (eds.) The Future of America’s Alliances in Northeast Asia, Washington: Brookings Institution Press, 2004, pp. 73-90.

(※2) ^ 西村熊雄『安全保障条約論』時事通信社、1960年、40頁

(※3) ^ この有識者懇談会は、1976年に策定された「防衛計画の大綱」を見直す作業に先立ち、1994年2月、非自民連合政権の細川護煕首相によって設置された。その後、懇談会は、羽田孜首相、ついで誕生した自社さ連立政権に引き継がれ、8月12日、村山富市首相に「樋口レポート」が提出された。防衛問題懇談会〔原編〕、内閣官房内閣安全保障室編集『日本の安全保障と防衛力のあり方―21世紀へ向けての展望』大蔵省印刷局、1994年

(※4) ^ 「平成8年度以降に係る防衛計画の大綱」、1995年11月

(※5) ^ 「昭和52年度以降に係る防衛計画の大綱」、1976年10月

米国におけるポスト冷戦戦略の策定

クリントン政権が発足した1993年の9月、米国防省は、ボトムアップレビュー(Bottom-Up Review)と名付けられた国防計画の見直しを公表し、ポスト冷戦戦略の姿を明らかにした。(※6) 背景には、冷戦終焉にともなう「平和の配当」、すなわち国防に対する投資の大幅な削減を求める声があった。長年上院で防衛問題に携わってきたレス・アスピン国防長官の下、根本的な見直しが行われた結果、1987年当時約217万人の兵力を擁していた米軍は、1999年までに140万人に削減されることとなった(実際の削減後の兵力は約145万人)。中東と朝鮮半島における紛争を念頭において、2カ所における大規模な地域紛争(major regional conflicts)にほぼ同時に対処することができる兵力を保持するという論理であった。

米国外に展開する米軍兵力についても削減が検討され、欧州およびアジア・太平洋地域にそれぞれ約10万人の前方展開兵力を維持することとされた。このことは、アジア・太平洋地域にとっては意味の大きいことであった。冷戦期を通じて、30万~40万人の兵力を擁していた在欧米軍に比し、米太平洋軍隷下の前方展開部隊はその3分の1程度にあたる10万~12万人であった。これに対してボトムアップレビューが示した前方展開態勢では、欧州とアジア・太平洋地域は同等であり、米軍の態勢上、アジア・太平洋地域の相対的な重要性が増すことになったからである。

この考え方は、1995年2月に公表された「東アジア戦略報告」でさらに具体的になる。前年9月に就任したジョセフ・ナイ国防次官補の名をとって「ナイ・レポート」とも呼ばれるこの報告書は、「1993年における米国の太平洋貿易は、3740億ドルを超え、米国における280万人の雇用を創出している」旨を指摘して、当時順調な経済成長を遂げていたアジア・太平洋地域の経済的な重要性を強調した。(※7) クリントン政権が経済を重視していたこともあり、アジア・太平洋地域の安全保障に対するコミットメントの重要性を経済面から訴えたのである。(※8) 特に日米同盟に関しては、「日本との関係ほど重要な二国間関係はない」として、「米国の太平洋政策における安全保障政策とグローバルな戦略目標の双方にとって基礎となる」ものであることを強調した。また、アジア・太平洋地域に約10万人の前方展開兵力を維持することも確認された。米国として、この地域を重要視していることを明らかにするとともに、冷戦が終焉した後においても日米同盟を重視することを再確認したのである。

米国防省「ボトムアップレビュー」(1993年9月)の要点
  • ポスト冷戦期の国防計画(冷戦終焉にともなう国防投資の大幅削減を求める声が背景)
  • 約217万人(1987年)の兵力を、140万人にまで削減(実際の削減後の兵力は約145万人)
    →2カ所での大規模な地域紛争(major regional conflicts)にほぼ同時に対処することができる兵力を保持
  • 欧州およびアジア・太平洋地域にそれぞれ約10万人の前方展開兵力を維持
    →米軍の態勢上、欧州とアジア・太平洋地域が同等となり、アジア・太平洋地域の相対的な重要性が増す(冷戦期は、欧州30万~40万人に対し、アジア・太平洋地域は10万~12万人)
米国防省「東アジア戦略報告」(「ナイ・レポート」、1995年2月)の要点
  • 米軍のアジア・太平洋地域の安全保障に対するコミットメントの重要性を経済面から訴える
  • 「日本との関係ほど重要な二国間関係はない」
  • 「米国の太平洋政策における安全保障政策とグローバルな戦略目標の双方にとって基礎となる」
  • 冷戦終焉後も日米同盟を重視することを再確認

ナイ・イニシアティブと日米安保共同宣言

米国の「東アジア戦略報告」と日本の「95防衛大綱」は、日米両国がそれぞれの国内において同盟の重要性を認めるという意味をもっていた。次に必要なことは、このことを二国間、特に首脳レベルで確認しあうことであり、また、ここで合意されたことを作戦運用レベルでの協力に深化させていくことであった。言い換えれば、「日米安保共同宣言」(1996年4月17日)および新「ガイドライン」(1997年9月23日)策定のための作業を進めるということである。

日米間において、このための政策調整過程、すなわち「日米同盟再定義」が蠢動するのは、「95防衛大綱」策定を前に「樋口レポート」に向けての議論が行われていた1994年のことであった。8月に公表された「樋口レポート」は、防衛政策の柱として、(1)国連PKOへの積極的参加などを含む多角的安全保障協力のための防衛力の役割、(2)日米安全保障協力関係の充実、(3)自衛能力の維持と質的改善、(4)防衛産業や技術基盤などの基盤的な事項を列挙した。この構成は、広く国際社会全体との関わりから説き起こし、日米同盟に触れた後に自助努力としての防衛力の整備に言及するものであり、当時の防衛政策担当者からみれば違和感のない整理であった。また、湾岸危機・湾岸戦争の教訓を踏まえてようやく国連PKOへの参画を始めた日本にとって、多角的な安全保障という概念を打ち出すためにも説得力があった。

他方、米国における有識者の中には、多角的安全保障協力の項目が日米安全保障協力より先に記述されていることなどから、日本が米国との同盟から離れ、多国間主義に向かっているとの危惧を持つ向きがあった。(※9) ハーバード大学からクリントン政権入りしていたジョセフ・ナイとエズラ・ボーゲル、ワシントンで日米関係を知悉した気鋭の研究者であるマイケル・グリーン、パトリック・クローニンなどのグループはそうであった。グリーンとクローニンは、「日米同盟再定義」と題する論文を発表して、「日本の政策立案におけるすう勢とエネルギーは同盟から離れていく方向にある」と述べた上で、同盟関係における日米両国の役割・任務分担を議論するための包括的な対話を始めるべきであると主張した。(※10) 1994年9月、国家情報会議議長から国防次官補に転じたナイは、直ちにこれに着手する。同年末から約1年間をかけて議論を重ねた上で、日米首脳会談の場で共同文書を発表しようとする構想であった。ナイ次官補の名前をとってナイ・イニシアティブと呼ばれることになった日米間の政策協議である。共同文書の公表は、当初1995年11月に大阪で開催されるAPECサミットの機会を予定していたが、内政上の理由からクリントン大統領が訪日できなかったため翌年に延期された。この間、1995年2月、「東アジア戦略報告」によって米国としての日米同盟に対するコミットメントが確認される一方、日本としても、11月、「95防衛大綱」を発表して米国との同盟を重視する姿勢を明らかにした。

この時期、1995年9月に米海兵隊員などによる少女暴行事件が起きたことをきっかけとして沖縄の米軍基地問題が再び沸騰する。沖縄県には、面積にして在日米軍が占有する施設の75%が集中していた。日米両国政府は、この状況を改善して沖縄に対する基地の負担を軽減するために「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(沖縄に関する特別行動委員会、SACO)」を設け、基地問題の見直しを開始した。この一環として、日米両政府は、1996年4月15日、市街地に隣接した普天間飛行場の返還に合意する。(※11)

1996年4月17日、橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領は、東京において開催された首脳会談に際して「日米安保共同宣言」を発表した。(※12) 「日米安保共同宣言」は、3つの重要な意味を持っている。第1に、「日米同盟再定義」の成果として、両国首脳が冷戦後の環境においても、日米間の安全保障分野における協力は極めて重要であるという結論を内外に向けて公式に宣言したことである。第2に、防衛協力の分野を、日本の防衛や日米間の技術協力などの二国間協力に限定せず、地域における協力、地球的規模での協力を含むものとしたことの意味も大きかった。冷戦期においては、同盟関係に関する議論の幅は狭く、例えば日本を防衛するための米軍の来援、在日米軍駐留に対する日本の協力といった、二国間の文脈に限られたものであった。この共同宣言は、朝鮮半島の安定化に向けた協力といった地域安全保障に関する問題、さらには、平和維持活動や人道的な国際救援活動などに際する協力を含むグローバルな問題にも言及し、日米協力の分野を広範なものとした。第3に、両国政府に対し、1978年に策定された「日米防衛協力のための指針」(旧「ガイドライン」)を見直すよう命じたことは、自衛隊および米軍の運用面での協力を深化させる上で重要なことであった。

「日米同盟再定義」の過程
1994年8月 防衛問題懇談会が「樋口レポート」を村山富市首相に提出
(日本の防衛について、国際社会全体との関わりから説き起こし、日米同盟に触れた後に自助努力としての防衛力の整備に言及)
1994年9月 ジョセフ・ナイ国防次官補就任、ナイ・イニシアティブと呼ばれる日米間の政策協議が開始される
1994年11月 マイケル・グリーン、パトリック・クローニンが論文「日米同盟再定義」を発表
(日本が米国との同盟から離れ、多国間主義に向かっていると危惧)
1995年2月 米国防省「東アジア戦略報告」(「ナイ・レポート」)公表
(米国の日米同盟に対するコミットメントを再確認)
1995年11月 日本政府「95防衛大綱」公表
(米国との同盟を重視する姿勢を明らかに)
1996年4月 橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領が「日米安保共同宣言」を発表
「日米安全保障共同宣言」の要点
  • 日米首脳が、冷戦後も日米間の安全保障協力は極めて重要であることを公式に宣言
  • 防衛協力の分野を、日本の防衛や日米2国間協力に限定せず、地域や地球的規模での協力を含むものとした
  • 1978年策定の「日米防衛協力のための指針」(旧「ガイドライン」)の見直しを命令

 

「日米安保共同宣言」の調印後、握手をするクリントン大統領と橋本首相(1996年4月17日、東京)(写真=産経新聞社)

(※6) ^ Les Aspin, Report on the Bottom Up Review, Washington, DC: Department of Defense, October 1993.

(※7) ^ U.S. Department of Defense, “The United States Security Strategy for the East Asia-Pacific Region”, February 1995.

(※8) ^ この時期、米太平洋軍司令部は、「アジア太平洋地域の経済現況(Asia Pacific Economy Update)」と題する年次報告を出し、担当する戦域が米国にとって経済的に重要であることを訴えている。

(※9) ^ 柴田前掲書、109-118頁。

(※10) ^ Patrick M. Cronin and Michael J. Green, “Redefining the U.S.-Japan Alliance: Tokyo’s National Defense Program” (McNair Paper 31), Washington, DC: National Defense University, November 1994.

(※11) ^ “The SACO Final Report”,  December 2, 1996; “The SACO Final Report on Futenma Air Station (an integral part of the SACO Final Report)”,  December 2, 1996;「SACO最終報告(仮訳)」「普天間飛行場に関するSACO最終報告(仮訳)」1996年12月2日

(※12) ^ “Japan-U.S. Joint Declaration On Security—Alliance for the 21st Century—”,17 April, 1996;「日米安全保障共同宣言-21世紀に向けての同盟-(仮訳)」1996年4月17日

新「日米防衛協力のための指針」(新「ガイドライン」)

旧「ガイドライン」は、坂田道太防衛庁長官とジェームズ・シュレジンジャー国防長官のリーダーシップの下で開始された協議の成果として、1978年に日米安全保障協議委員会(SCC)において承認された。(※13) この文書は、日米安保体制のより円滑かつ効果的な運用を狙いとして自衛隊と米軍の役割分担や具体的な協力内容を示したものであり、特に1970年代から1980年代にかけて運用面での協力態勢を強化する上で大きな役割を果たした。しかしながら、旧「ガイドライン」は冷戦期における戦略環境に対応するための構想であり、冷戦終焉後大きく変化した戦略環境に適応するためには、その見直しが必要であった。4次にわたるケース検討などを経て策定された新「ガイドライン」は、1997年9月23日、日米両国の外務・防衛担当閣僚で構成される安全保障協議委員会(いわゆる「2+2」)に報告された。(※14) 新「ガイドライン」は、防衛分野における協力を3つの分野、すなわち、(1)平素から行う協力、(2)日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等および(3)日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事態)の協力に区分した。

見直し作業の焦点は、周辺事態における協力をめぐる問題であった。「日米安保共同宣言」の中で、特にこの分野における政策調整を促進することの必要性が強調されたことを受けてのことである。新「ガイドライン」における周辺事態関連の記述は、日本に対する武力攻撃に関する記述量を上回っており、旧「ガイドライン」において、極東有事に関する記述が日本防衛に関する記述のわずか10分の1であったのと好対照をなしている。周辺事態における具体的な協力分野は3つのカテゴリーに区分され、40項目にわたる協力活動の例が列挙された。第1のカテゴリーは、両国政府が各々主体的に行う活動における協力であり、捜索・救難、非戦闘員を退避させるための活動などが例として挙げられた。日米両国がそれぞれの必要性から行う活動ではあるが、二国間の協力が望ましいと考えられるものである。第2のカテゴリーは、米軍の活動に対する日本の支援であり、米軍に対する補給、輸送、整備などの後方支援や米国に対する施設の提供が例示された。すなわち、米側の必要性を満たすために日本が行う支援である。第3のカテゴリーは、運用面における日米協力であり、海空域の使用調整や警戒・監視に関する情報交換などが列挙された。米軍および自衛隊がより円滑に行動できるようにするための協力である。(※15)

新「日米防衛協力のための指針」(新「ガイドライン」)の要点
  • 防衛分野における協力を3つの分野に区分
    1. 平素から行う協力
    2. 日本に対する武力攻撃に際しての対処行動等
    3. 日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事態)の協力
  • 周辺事態における協力をめぐる問題が見直しの焦点に
    →周辺事態関連の記述が、日本に対する武力攻撃に関する記述量を上回る
  • 周辺事態における具体的な協力分野は3つのカテゴリーに区分
    1. 両国政府が各々主体的に行う活動における協力
      • 救援活動及び避難民への対応のための措置
      • 捜索・救難
      • 非戦闘員を退避させるための活動
      • 経済制裁の実効性を確保するための活動(情報交換、船舶検査での協力など)
    2. 米軍の活動に対する日本の支援
      • 施設の使用
      • 後方地域支援(補給・輸送・整備など)
    3. 運用面における日米協力
      • 海空域の使用調整
      • 警戒・監視に関する情報交換

 

新「ガイドライン」が示した協力、特に周辺事態に関連する活動を日本が実行できるようにするためには立法上の措置が必要であった。これらの活動に関連する法案は、1998年4月国会に提出され、2000年11月までに周辺事態安全確保法、船舶検査法などの形で成立し、周辺事態において米国と協調・協力しつつ、後方地域支援、後方地域捜索救助活動および船舶検査活動を行うことができる法的枠組みが整えられた。ところで、新「ガイドライン」は、周辺事態と我が国に対する武力攻撃が同時に起こり得ることを指摘している。朝鮮半島で武力紛争が起き、我が国に対してもミサイルや特殊部隊による攻撃が行われるような場合である。日本自身の安全がおぼつかないようでは、米国に対する協力どころではないということを考えれば、我が国の防衛態勢を充実させることが肝要であり、また、その余地も大きかった。この点に関しても、いくつかの分野で進展がみられた。例えば、1990年代後半以降、弾道ミサイル防衛(BMD)に関する日米協力が加速した結果、2003年12月には、イージス・システム搭載護衛艦及び地対空誘導弾ペトリオットの能力向上(PAC-3)によるBMDシステムを整備することが決定された。また、2003年には、自衛隊にとって30年来の懸案であった有事関連法制の整備も進展した。

日本にとっての「日米同盟再定義」とその後

日本は、「日米同盟再定義」に先立ち国連平和維持活動などの国際的な平和協力活動に参加することを決めた。グローバルな意味合いで防衛力を使用するという決断である。1996年の「日米安保共同宣言」においては、このような分野を含めたグローバルな日米協力に加え、北東アジアにおける地域安全保障問題に関する協力やいわゆる周辺事態における協力を強化することを明らかにした。新「ガイドライン」策定の過程では、周辺事態に際する日米協力を掘り下げる一方、ミサイルや特殊部隊による攻撃のような新しいタイプの脅威から日本を防衛することを検討した。日本にとっては、地球的な規模での問題をはじめとして、地域安全保障に関する懸案から日本自身の防衛にいたるまで、日本が関わる安全保障上の問題すべてを網羅したといえる。

日本にとって「日米同盟再定義」の過程は、同盟を冷戦後の環境に適合させるための作業であると同時に、ポスト冷戦戦略を模索する過程そのものであったといえる。このように安全保障戦略の全体像を描き、米国と包括的な政策調整をするのは、20年ぶりのことであった。1976年に「防衛大綱」を定め、1978年に旧「ガイドライン」について米国と合意して以来である。その後、日本は2004年と2010年に「防衛大綱」を策定した。(※16) 2004年から2006年に行われた、いわゆる「米軍再編」に関する協議の中では、日米両国にとっての共通の戦略目標、それぞれが果たすべき役割・任務と保有すべき能力について議論を尽くした上で、普天間代替施設を含む在日米軍基地の変容について協議した。2011年6月に開催された「2+2」においては、あらためて日米共通の戦略目標を列挙し、その達成のために協力を強化すべき分野を明らかにした。(※17) これは、前年、2010年に米国と日本がそれぞれ策定した「4年ごとの国防計画の見直し(QDR)」(※18) と新たな「防衛大綱」(※19) を踏まえてのことであった。こうしてみると、「日米同盟再定義」のプロセスは、日米両国がそれぞれの安全保障政策を変化する国際環境に適合させていく際に、相互に政策を調整するためのひな型になったといえよう。高い緊張を伴っていたものの一種安定した構造の下にあった冷戦期に比べ、21世紀初頭の数十年間の情勢は、より流動的である。今後しばらくの間は、「日米同盟再定義」と同様のプロセスを繰り返すことが必要になりそうである。

 

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