日中の懸け橋

中国で日本語教師16年、ネットラジオを機に進化—中村紀子(上)

文化

日本語教師として中国滞在16年の中村紀子。赴任直後のSARSから始まり反日デモも経験し波乱万丈だった。今では対面授業から進化し、ネットを活用した「中村Radio」「中村日語」で日々奮闘している。

「長沙中日文化交流会館」。受付に掲げる大きな看板ができあがりました。2000冊の日本の本が読める閲覧室も準備完了です。誰もが気軽に立ち寄れ、日本語や日本文化を楽しめる空間がもう少しで完成します。新たな本拠地、中国華南地区の古都・湖南省長沙で、長い間温めてきた構想がついに形となるのです。

日本語教師として中国に来て16年が経ちました。目まぐるしい成長を遂げる中国、インターネットもますます発展し、日本語学習もネット利用が当たり前の時代になりました。私もネットラジオアプリの「中村Radio」とネット日本語教室の「中村日語」を立ち上げ、既存の指導法をいかに新しい発想や技術と融合させるか、日々奮闘しています。

SARS休校に迎えられた武漢での教師人生

2003年3月15日、新米日本語教師の私は湖北省武漢市の天河空港に降り立ちました。中国に来たのは3回目。1回目は1990年。北京で1年間留学生活を送り、いろいろなところを旅しましたが、武漢を訪れたのは、その時が初めてです。

最初の学校は「中専」と呼ばれる中学校を卒業して進学する中等専門学校でした。にぎやかな街の中心から少し離れた大きな湖のほとりにある学校です。当時の日本や今の中国と比べることはできませんが、90年当時の中国を知っていたせいか、それほど不便さは感じませんでした。

ただ、大変だったのは、やはり言葉でした。留学も語学が目的ではなく、帰国後もほとんど中国語を使うことはなかったとはいえ、少しは役に立つと思っていました。ところが、武漢で耳にした発音は教科書で学んだものとはかなり違いました。

初任地(湖北省武漢市)の中等専門学校で授業する中村紀子

武漢に着いた翌日、学校の購買部で買い物をしようと、中に入ると、親切そうな老板娘(ラオパンニャン=女店主)が話し掛けてきました。焦りました。全く分かりません。いかにも外国人という反応をした私に、老板娘は「日本人の先生ですね」と言ってくれたようなのですが、それすら聞き取ることができなかったのです。これは大変なことになったと、改めて異国での生活の大変さ、そして中国の広さが身にしみました。

幸い、テレビで耳にする言葉は教科書通りの普通話(標準中国語)で、中国ドラマには全て字幕がついていました。中国の若い世代は皆この普通語ができますから、私はなるべくドラマを見るようにして、現地の発音ではなく、まずは標準語である普通話が聞き取れるようにしていきました。実はドラマを見る時間はたっぷりあったのです。

というのは、武漢に到着して、すぐに授業が始まり、日本語教師生活がスタートしましたが、なんと2週間で学校が休校になってしまいました。まだ覚えていらっしゃる方も多いかもしれません。アジアを震撼させたSARS(重症急性呼吸器症候群)です。生徒たちはそれぞれの故郷に帰り、外国人教師は帰国するか、学校外に出ないか、選択するように言われました。武漢に来たばかりの私に帰国という選択肢はありません。それで、それから1カ月半、私は部屋の中で朝から晩まで中国ドラマを見ることになったというわけです。

このように、私の中国での日本語教師生活は波乱の幕開けでした。そして、その後10年間は、いろいろな日中間の問題が噴き出た時代でもありました。もちろん、日本人ということで、私も冷たい視線を向けられたり、辛辣(しんらつ)な言葉を投げ付けられたことがあります。そうそう、2005年の反日デモの時は、ある大学での講座で、顔を真っ赤にした男子学生に歴史問題で詰め寄られたこともありました。

でも、自分のごく近くでは問題はほとんどありませんでした。当時、日本語を専攻として学ぶ生徒や学生たちは、日本人の私以上に、中国と日本のはざまでいろいろ考え、悩んでいたはずです。それでも生徒たちは「もし先生が誰かに何か言われたら、私が言い返します」と私の気持ちをおもんばかってくれ、実際に矢面に立ってくれたこともよくありました。「80後(パーリンホウ)」と呼ばれる1980年代生まれの彼らは、高度経済成長期の中国で生まれ育ち、積極的に学び、働き、今では企業の幹部になったり、起業して成功したりした人たちです。最近の大学生はもの静かで、都会的な感じになってきましたが、「80後」たちは、表情豊かで、にぎやかな子が多く、授業もずいぶん盛り上がりました。

日本語教師は「日本人の知らない」世界

その中専には、2011年まで勤務していました。私立の学校だったので、他校の非常勤の仕事を紹介してくれることもあり、われながらよく働きました。中国で働く外国人教師の授業コマ数は、契約上は最高1週間で16コマ(1コマ45~50分)ですが、私は40コマぐらい働いていました。もちろん、授業の準備もあるので、睡眠時間を削って仕事をしないと追い付きません。

日本人が日本語を教えるのですから、そんなに大変ではないだろうと思われがちですが、それがなかなか難しいのです。私は日本語教師になる前の10年間は日本の学習塾で働いていて、国語もよく教えていましたが、それとはまったく違う「日本人の知らない」世界でした。

まず、大変だったのが、アクセントです。千葉市出身なので、問題ないだろうと思ったのが大間違い。結構、違っているんです。驚きました!初級の教科書にはアクセント記号が記載されていますから、読み間違えるわけにはいきません。初めの3年間ぐらいは、自分の話す日本語すべてが疑わしく思えて、アクセント辞典を手放せませんでした。中専には、私のほかに日本人教師がおらず、文法も会話もリスニングも何もかも教えることになりました。5年目ぐらいまでは毎日、知らない日本語との出会い。ずいぶん鍛えられました。

武漢市の中等専門学校の生徒と

日本語教師中村紀子を育ててくれた中専は、残念ながら8年後、生徒募集停止になり、私はこの学校を離れることになりました。次の赴任先は同じ武漢市内にある中南財経政法大学(以下財大)です。中国では一流大学のことを一本大学(イーペン・ターシュエ=「第一批次本科」の略)と言い、財大もその一つで、やはりそれまでとは学生たちの様子や雰囲気が違いました。

驚いたのは、50人ぐらいいる日本語学科の新入生のうち、9割近くが、大学入試の時の第一志望が日本語ではなかったということ。これは中国語で「調剤(ティアオチー)」と呼ばれ、希望の学科に合格するには点数が足らなかった場合、大学側から所属学科を割り当てられる仕組みです。財大は経済・法律系が主力の大学ですから、金融関係や税理士を目指す学生ばかりで、高校時代は文系クラスではなく、理系クラスだった子の方が多かったです。日本の外国語学部で、高校時代に理系クラスにいた子はほとんどいないと思いますから、これにはとても驚きました。

財大の学生を一言でいえば、真面目っ子。よく勉強しています。中国では二つの学位を同時に取得することが可能で、週末も第二学位の授業がびっちり入っていることが多いのです。高校、大学時代、部活動に明け暮れ、アルバイトもたっぷり経験した私にはカルチャーショックでした。でも、残念ながら学生たちは日本語を楽しんでいるようには見えません。

財大の学生らと

何とかしなくちゃ。私は行動を開始しました。ネットラジオにつながる話はここからです。

写真:著者提供

<以下、下に続く>

バナー写真:初任地の中等専門学校で(2003年、湖北省武漢市)

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