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シリーズ 生きづらさを感じている人たちへ:ささやかなメッセージ
「何をしたいのかわからない」という悩み

泉谷 閑示【Profile】

[2018.02.20]

「何をしたいのか分からない」「好きなことが分からない」という温度の低い悩みを抱える人が増えている。そんな悩みを抱えたクライアントと日々対峙(たいじ)している精神科医からのメッセージ。

「温度」の低い悩みの急増

近年、「自分が何をしたいのか分からない」「将来どうなりたいのか分からない」という悩みを抱える人が、とても増えてきている。彼らに「好きなこと」や「嫌いなこと」について質問をしてみても、「そういうことをあまり考えたことがないので、よく分からない」という答えが返ってきてしまうことが珍しくない。

少なくとも20~30年前までは、人々の悩みにはもっとある種の「温度」があったように思う。例えば「親に理解してもらえない」「なりたい自分になれなくて、劣等感にさいなまれている」「みんなに認めてもらいたいのに、認めてもらえない」などといった、「得たいものが得られない」という内容が中心だったのだ。そこには共通して、熱い「執着」が認められたのである。

しかし、近年増えてきた悩みには、あまりそのような「温度」が感じられない。なぜこのような変化が生じてしまったのだろうか。

彼らの生育史には、ある共通点が見られる。それは、幼い頃から教育熱心な親の下で、さまざまな習い事や塾に通わされ、その延長線上で今日まで来てしまったという点である。このようにして生きて来た彼らは、進路選択や職業選択を迫られたり、何らかの障害に直面して歩みが止まった時になって初めて、生きるモチベーションの不在に気付くことになる。これは、動力のないトロッコが押された慣性で走っていたものの、レール上にあった小石につまずいて止まってしまったような状態なのだ。

ハングリー・モチベーションの終焉(しゅうえん)

かつて多かった「温度」の高い悩みは、ハングリー・モチベーションが人間を動かしていた時代の産物だったと言えるだろう。ハングリー・モチベーションは、人類が始まってからごく最近に至るまで、われわれの主たる原動力であった。より安全に、より便利に、より豊かに暮らせるように、人々は情熱を傾け、少しずつそれを実現させてきた。しかし、このようなモチベーションは同時に、さまざまな執着、つまり「温度」の高い悩みも生み出していたのだった。

ところが、そのような人類の歩みは、近年になって新たな状況に直面した。先進国を中心として飽食の時代が訪れ、急激な高度情報化が実現され始めたのだ。その結果、人々の生活は便利で快適なものになったが、一方では皮肉にも、生きる目標が見失われ、失速したような状態に陥ったのである。

このようにハングリー・モチベーションが成り立ちにくい現代にあって、人々の悩みは徐々に「生きる意味の喪失」という実存的なテーマにシフトしてきた。人々の悩みの「温度」が低下した現象の背景には、このような事情があったのではないかと考えられるのである。

生まれた時には、もうレールが敷かれている

しかし、ハングリー・モチベーションの時代に生まれ育った親たちは、いまだに慣れ親しんだ価値観から抜けられず、わが子の将来が社会的・経済的に成功するようにと、早期教育に熱を上げることが多い。

実際、私たちの周りにはさまざまな幼児教室や塾が氾濫し、現代の子どもたちの多くは、ビジネスマン顔負けの多忙な日々を送らされている。たまの休日ですらも、しっかりと出来合いのリゾート施設に行く予定が組まれていたりするのだ。その結果、現代の子どもたちには、もはや「空白の時間」と呼べるような時間がないのである。

子どもは本来、暇でつまらない「空白の時間」の中で、遊びを考案したり、さまざまな好奇心を発動させたりする存在である。このような時間がすっかり奪われてしまったことで、子どもたちの生は「受動的」なものに変質させられてしまった。さらに、ゲームやスマホなどの便利なツールが「暇つぶし」として与えられてしまったことによって、子どもたちの「受動的生」はなおのこと加速させられてしまったのだ。

このように、自分が「やりたいのか」「やりたくないのか」を判断する猶予も与えられず、あてがいぶちの習い事や勉強、そして人工的なツールに取り囲まれて育った子どもたちは、次第に自分の心の声を聴くことを諦めてしまう。親から「あなたのためだから」と言われてやらされることに、子どもは反発もできない。そして子どもたちは、単に「好き/嫌い」を言わなくなるだけでなく、それを感じること自体を煩わしく思い、心の声を聞くことをやめてしまうのだ。

このようにして育った人たちは、進路選択や職業選択の局面で「何が好きなのか」「何がやりたいのか」を自分自身に問い掛けてみても、何の答えも返ってこないことに愕然(がくぜん)とする。これはもはや、心理的去勢を施されたに等しい状態なのだ。

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  • [2018.02.20]

精神科医。作曲家。東北大学医学部卒業。財)神経研究所附属晴和病院等に勤務。99年に渡仏し、パリ・エコール・ノルマル音楽院に留学、パリ日本人学校教育相談員を務め帰国。2005年より精神療法専門のクリニックを開業(『泉谷クリニック』東京)。『「普通がいい」という病』、『仕事なんか生きがいにするな』など著書多数。

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