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シリーズ 生きづらさを感じている人たちへ:ささやかなメッセージ
私たちの周囲で起きている「言葉が通じない」という事態について

泉谷 閑示【Profile】

[2018.07.02]

テレビで流れる国会中継や謝罪会見を見ていて発せられる言葉が、心に響かない。「意味」が伴っているように感じられないのだ。精神科医からのささやかなメッセージの最終回は言葉の危機について。

「意味」が伝わらない

最近のニュースをにぎわしているさまざまなスキャンダルやハラスメント等の報道を見るにつけ、そこに共通する、ある種の「不気味さ」を感じることが多い。同じような感想を持っている人は、案外少なくないのではないか。

記者会見などのやり取りを見ていると、何か以前とは質的に違う「言葉の通じなさ」が認められるように思う。表面上は、質問に対する応答は一応成されてはいるし、謝罪の言葉も繰り返されている。しかし、そこで発せられた言葉からは、本来込められているはずの「意味」が伝わってこないのだ。

私たちの社会は、言葉を用いた多種多様な決まり事によって成立している。それは条約、法律などから個人的な約束に至るまで大小さまざまあるが、いずれも言葉が指し示す「意味」が人々の間で共有され、秩序が守られることが前提になっている。つまり、人々に共通する何らかの認識が、全ての基礎に据えられているのだ。

しかし近年、どうもその前提自体が危うくなってきているのではないかと思うのだ。

「対話」の前提条件

古代ギリシャ人は、人間を「ロゴスを持つ動物」と定義した。

このロゴス(logos)という言葉は、「拾い集める」という意味のlegeinという動詞に由来したもので、「バラバラに散らばった事柄を、一定の秩序や筋目に従って取りまとめる」という意味だ。よって、理由、原因、説明、法則、秩序、意味、根拠、理性といったニュアンスを含み、今日では「言葉」と訳すことが多い。このロゴスを〈通じて〉やり取りすることがdia-logos、すなわち「対話(dialog(ue))」だ。

2人の人間が向き合って話せば「会話」にはなるが、「対話」はそれだけでは成立しない。「対話」は、次の4つの前提条件が満たされていなければならない。

(1)相手を「他者」として見ること
(2)その「他者」である相手のことを、知りたいと思っていること
(3)「対話」によって、互いが変化することを目標としていること
(4)自分と相手との関係に、上下関係を持ち込まないこと

前提(1)は、私たちが最もつまずきやすいものだ。ここで「他人」ではなく「他者」という言葉を用いたのは、相手が「未知な存在である」というニュアンスを強調するためだ。

われわれには、つい自分の延長線上で相手を捉えてしまう傾向があって、自分にとって当たり前のことは相手にとっても当たり前に違いない、と思い込んでいることが多い。そのため、会話の中で誤解が生じる可能性を軽んじているところがある。しかし、一人一人が言葉に込めているものには微妙な違いがあって、通り一遍の言葉のすり合わせだけでは、大ざっぱな意思疎通しかできないのだ。

前提(2)は、「他者」への関心の問題だ。

自分の感覚や価値観だけで満足し、これを相対化できないような場合には、「他者」への関心は生じない。自身を相対化できないと、そもそも「他者」がいるという認識を持つことができず、話を聴きたいとも思わない。つまり、「対話」を求める発想が生じないのだ。

前提(3)は、変化を受け入れる柔軟性の問題だ。

「対話」をしようと思う動機は、もしかすると自分の感覚や価値観が、偏狭で未熟なものかもしれないという知的な謙虚さと、未知なるものに触れて自分の世界を豊かにしようとする好奇心や向上心だ。

前提(4)は、「上下関係で人間関係を捉えない」という基本的人間観の問題だ。

自分のことを「上」と思っている人間は、よほどのことがない限り「下」の人間の意見や感想を聴く必要を感じない。「タテ社会」的な人間観を持つ人は、「対話」のような開かれたコミュニケーションを歓迎しないだろうし、もし「下」の者が率直な意見など言おうものなら、「無礼だ」「生意気だ」「分をわきまえろ」などと言って憤慨するかもしれない。

なおざりにされるロゴス

上に挙げた4条件で示した通り、相手を「他者」として尊重し、「他者」に対して自分の世界の窓を開け、双方の世界が交わることを望み、自分だけでは得られなかった経験を得ようとする「開かれた」態度が根本にあってこそ、「対話」は成り立つのだ。

人は幼い頃、自分しかいない自閉的状態から歩みを始める。その後徐々に、「他者」は自分の言動をどう感じているのか、同じものについてもどのように違った見方をしているのかなどを知り、言葉や行為に込められた「意味」がどのようなものかを学んでいく。そして「対話」の経験を積み重ねることによって人間観を成熟させ、社会性や公共性を獲得していく。このようにして、人は普遍的に通用するロゴスを獲得するのだ。

しかし、昨今あちらこちらで見られる「不気味なるもの」には、そのように公共性のある「意味」を伴ったロゴスが欠如しているように思われるのだ。

「約束はしたが、守るとは言ってない」といった理屈ならざる理屈ではぐらかし、不正の証拠がいくら提示されても「それは偽物だ」と否認し、虚偽答弁については「記録にない」「記憶にない」と言って責任を回避し続ける。さまざまなハラスメント事案においても、被害者の心情に視点を移すことをおざなりにし、「そんなつもりはなかった」と行為者の弁解が中心になってしまう。

世界恐慌の際には貨幣価値が一気に暴落したが、これは貨幣経済が国家による信用をベースにしているがゆえに、その信用が失墜したため避けがたく生じてしまった現象だ。これと同様に、われわれは今、ロゴスというものの信用が揺らぎ始める事態に直面しているのではないだろうか。

ロゴスを取り戻すために

ロゴスの公共性や普遍性を担保しているものは、「人間とはいかなる存在か」についての人々の共通認識だ。人間は、非自然原理の「頭」と自然原理の「心=身体」のハイブリッドだ(第2回記事「私たちはなぜ「孤独」を恐れるのか?」参照)。「頭」は理性の場所であるが、コンピューターのような働きなので、情報収集や情報処理を行うことまではできても、物事の「意味」を判断するような作業は、「心」が関与しなければできない。物事の秩序や原理を抽出する作業も、「心」の働きがあって初めて可能になる。つまり、「心」の関与があってこそ、ロゴスは成立するのだ。

また、「頭」は量的なものしか理解できないので、優劣や勝ち負け、損得などにこだわる傾向が強い。さらに、「頭」は事物のコントロールや所有を強く志向するので、エゴイズムを生み出す場所でもある。このような性質の「頭」が支配的になると、人は、金銭、地位、権力、名誉といった表面的な価値にのみ動機付けられてしまう。そして、自分にしか関心を向けず、所有や支配に執着することになってしまう。

現代社会は、経済的に発展することを過度に重視し、結果主義、効率主義に傾斜したがゆえに、「頭」優位の価値観に大きな力を与えてしまった。その結果、社会はロゴス無き非情な人間を次々に生み出し、彼らを誤ってリスペクトし、権力さえも付与してしまったのではないか。

ロゴスの危機は、「心」の危機だ。この「不気味なる」事態がこれ以上横行しないように、われわれ一人一人が自身の「心」との「対話」を欠かさず、「他者」に開かれた「対話」を重ねていくことが大切だ。そしてもう一度、より人間らしいロゴスの側に、力を取り戻す必要があるのだ。

バナーイラスト=オカダ・ミカ

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  • [2018.07.02]

精神科医。作曲家。東北大学医学部卒業。財)神経研究所附属晴和病院等に勤務。99年に渡仏し、パリ・エコール・ノルマル音楽院に留学、パリ日本人学校教育相談員を務め帰国。2005年より精神療法専門のクリニックを開業(『泉谷クリニック』東京)。『「普通がいい」という病』、『仕事なんか生きがいにするな』など著書多数。

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