2017年に逝った人たち

社会

小林麻央さん、日野原重明さん、鈴木清順さん、平尾昌晃さん…。この1年に亡くなった著名人の足跡を振り返る。

2月2日

岡野俊一郎さん(85)=元日本サッカー協会会長

東京大学在学時にサッカー選手として活躍し、日本代表でもプレー。旧西ドイツ留学を経て代表コーチとなり、長沼健監督を支えて1964年の東京五輪で8強、68年メキシコ五輪では銅メダル獲得に貢献した。70~71年に代表監督。持ち前の語学力を生かし、日本サッカーの育ての親であるドイツ人コーチ、デットマール・クラマー氏の通訳を務めたこともある。日本サッカー協会理事、副会長を歴任し、98年に会長就任。Jリーグの設立に尽力したほか、史上初の共催となった2002年のW杯日韓大会の開催準備、運営にも携わり、大会を成功へと導いた。

2月3日

三浦朱門さん(91)=作家、元文化庁長官

1948年に東大文学部卒業後、文芸雑誌『新思潮』に参加。51年に『画鬼』を発表し、小島信夫、阿川弘之、遠藤周作らと共に「第三の新人」として活躍した。名前はイタリア文学者だった父・三浦逸雄氏が十二使徒の一人、シモン・ペテロから付けたという。83年には小説『武蔵野インディアン』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。日大芸術学部教授、日本文芸家協会理事長のほか、85~86年には文化庁長官を務めた。軽妙な筆致のエッセーも数多く残し、著書は100冊を超す。妻は作家、曽野綾子さん。夫婦共にカトリック信徒。

2月11日

谷口ジローさん(69)=漫画家

温かみのある独特の作風が、欧州を中心に海外でも高く評価された。京都の洋品卸会社に勤めた後に上京し、24歳の時に『嗄(か)れた部屋』でデビュー。92年には「犬を飼う」で小学館漫画賞を受賞。98年、作家の関川夏央さんとコンビを組んで手がけた『「坊ちゃん」の時代』で手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞し、代表作のひとつとなった。2002年には『遥かな町へ』で、アングレーム国際漫画祭で最優秀脚本賞などを受賞。11年にはフランスの芸術文化勲章「シュバリエ」を受けた。

『「坊ちゃん」の時代』(双葉社)の原稿。日仏会館ギャラリー(東京・恵比寿)で17年12月に開催された原画展にて(撮影:長坂芳樹 ©パピエ)

2月13日

鈴木清順さん(93)=映画監督

高校在学中に学徒出陣で応召し、復員後の1948年、松竹大船撮影所に助監督として採用された。54年に日活に移り、『港の乾杯 勝利をわが手に』で監督デビュー。奇抜なアングルや独特の色彩感覚を持ち味とする『けんかえれじい』などの作品で注目された。67年の『殺しの烙印(らくいん』を見た当時の日活社長に「訳が分からない」と解雇されたが、10年後の77年に松竹で撮った『悲愁物語』で復活。80年には代表作の一つ『ツィゴイネルワイゼン』を監督し、その幻想的な映像美が高く評価され、ベルリン国際映画祭審査員特別賞などを受賞した。

映画『オペレッタ狸御殿』の制作発表会見で写真に納まる鈴木清順監督(中央)左は女優のチャン・ツィイーさん(中国)、右は俳優のオダギリジョーさん=2005年3月29日、東京・新宿(時事)

2月16日

船村徹さん(84)=作曲家

戦後の日本歌謡界を代表する作曲家の一人。1955年に友人の作詞家、高野公男さんとのコンビで作った『別れの一本杉』(春日八郎)が大ヒット。61年には『王将』(村田英雄)が戦後初のミリオンセラーとなるなど、日本人の人情味や心意気を切々と表現するトップ作曲家して不動の地位を築いた。門下生も多く、歌手の北島三郎さん、鳥羽一郎さんのほか、作曲家の三木たかしさんらが師事。83年には、細川たかしさんの『矢切の渡し』が大ヒットし、日本レコード大賞を受賞した。

文化勲章の受賞が決まり、記者会見する船村徹さん=2016年10月27日、東京都渋谷区(時事)

4月1日

梯(かけはし)郁太郎さん(87)=ローランド創業者

1972年に電子楽器製造会社のローランドを創業し、電子ピアノやシンセサイザーの開発に傾注。80年代に入ると、「TR-808」「TR-909」「Jupiter-8」など、世界のポピュラー音楽シーンに変革を起こした斬新な“名器”を次々と世に送り出した。R&B、ヒップホップ、ポップス、ロックといった各音楽ジャンルで愛用した世界的ミュージシャンは数知れない。2013年には米音楽界の最高権威とされるグラミー賞の特別賞に輝いた。異なるメーカーの楽器間で音楽データをやり取りできる規格「MIDI」を作ったことでも知られた。

梯郁太郎さん=2007年撮影(時事)

4月5日

大岡信さん(86)=詩人

現代詩の第一人者で、詩や古典に関する評論も数多く手掛けた。歌人大岡博を父に持ち、旧制中学在学中から詩の創作を始めた。東京大学卒業後、読売新聞社に入社し、川崎洋、茨木のり子らの詩誌『櫂(かい)』に参加。55年に批評『現代詩試論』」を刊行、翌56年には詩集『記憶と現在』を発表し、鋭敏な感覚を持つ批評家と清新な作風の詩人の両面で頭角を現した。63年に新聞社を退社後も、東京芸術大学や明治大学で教鞭をとる傍ら、『紀貫之』『うたげと孤心』などの斬新な評論や、『春 少女に』『地上楽園の午後』といった叙情豊かな詩集を次々と発表した。

6月13日

大田昌秀さん(92)=元沖縄県知事

沖縄県の米軍基地問題の解決を終生、訴え続けた。沖縄県・久米島に生まれ、45年、鉄血勤皇隊に動員された。戦後、琉球大学教授として沖縄戦と戦後史を研究。90年の沖縄県知事選で初当選し、連続2期8年務めた。95年に米兵による少女乱暴事件が起きると、米軍用地の強制使用の代理署名を拒むなど政府と鋭く対立し、米軍基地の縮小や日米地位協定の改定を求めた。住宅地にある普天間飛行場の危険性を訴え、96年の日米両政府による返還合意の原動力となった。2001年には社民党から参院選に立候補して当選し、1期6年務めた。

6月22日

小林麻央さん(34)=フリーキャスター、タレント

がん闘病をつづったブログが多くの人々の共感を呼んだ。上智大学在学中のテレビ出演をきっかけにタレントとなり、2003年からお天気キャスターとして活動を開始。その後もニュース番組のキャスターなどとして活躍した。10年に歌舞伎俳優の市川海老蔵さんと結婚し、1男1女をもうけた。16年、海老蔵さんが、小林さんが乳がんの治療を受けていると発表。同年9月にブログを開設し、亡くなる直前まで自身の病状や家族への思いを率直に語った。ブログは国外でも反響を呼び、英BBC放送が同11月に発表した「100Women(100人の女性)」にも選ばれた。

7月18日

日野原重明さん(105)=生涯現役医師

100歳を過ぎても精力的に医療に携わり、ベストセラー『生き方上手』など200冊を超す著書を残した。京都大学医学部卒業後、41年から内科医として聖路加国際病院に勤務。終戦間際の東京大空襲では多数の被災者の治療に当たった。医師が患者と対等に接する患者本位の医療を早くから提唱。成人病と呼ばれていた脳卒中や心臓病などを「習慣病」と呼び、日ごろの予防の大切さをいち早く訴えた。70年には、福岡での学会に向かう際に搭乗した日航機「よど号」でハイジャック事件に巻き込まれ、死を覚悟したという。95年の地下鉄サリン事件では、現場に近い同病院の院長として、自ら患者受け入れの陣頭指揮をとった。波乱に満ちた生涯でもあった。

新著『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』を発刊し記者会見する日野原重明さん=2015年9月25日、東京都中央区(時事)

7月21日

平尾昌晃さん(79)=作曲家、歌手

高校時代にバンド活動を始めて米軍キャンプやジャズ喫茶で腕を磨き、1958年に歌手デビュー。ミッキー・カーチスさん、山下敬二郎さんと共に“ロカビリー三人男”と呼ばれロカビリーブームを巻き起こし、『星は何でも知っている』『ミヨちゃん』などを大ヒットさせた。60年代半ばに作曲家に転進し、『霧の摩周湖』(布施明)、『よこはま・たそがれ』(五木ひろし)、『瀬戸の花嫁』(小柳ルミ子)など哀調を帯びたヒット曲を次々と世に送り出し、ヒットメーカーしての地位を確立。日本の歌心と洋楽の調和を追い求めた生涯だった。

8月28日

羽田孜さん(82)=元首相

1990年代の政局激動期、非自民連立政権の細川護熙内閣を引き継いで首相を務めた。夏場の半袖スーツの「省エネルック」姿が印象深い。大学を出てバス会社に就職後、69年に衆院選で初当選。故竹下登元首相の率いる自民党旧竹下派出身で、農相、蔵相を歴任した。93年、野党が提出した宮沢喜一内閣の不信任決議案に賛成。小沢一郎氏らと共に自民党を集団離党して新生党を結成し、同年8月に発足した非自民勢力の党会派による細川連立政権では副総理兼外相を務めた。94年に首相に就任するが、社会党の連立離脱で少数与党となり総辞職に追い込まれた。首相在任は64日間で、戦後2番目の短命政権だった。

8月30日

谷口稜曄(すみてる)さん(88)=被団協代表委員、原爆の語り部

16歳の時、郵便配達の途中、長崎に投下された原爆の爆心地から1.8キロの路上で被曝。熱線を浴びて背中一面に瀕死の大やけどを負った。入院生活3年7ヵ月のうち1年9ヵ月をうつぶせの状態で過ごし、その後も後遺症が残った。1955年に発足した長崎原爆青年の会などの反核活動に当初から参加。2006年からは長崎原爆被災者協議会(被災協)の会長を務め、10年からは日本被団協代表委員も務めた。「語り部」として海外での活動にも精力的に取り組み、国連などの会議の場で、入院中に撮影された真っ赤になった背中のやけどの写真を自ら掲げ、「目をそらさないで見てほしい」と悲惨さを訴え続けた。

10月19日

西室泰三さん(81)=東芝元社長、日本郵政元社長

1961年に現在の東芝に入社。米国事業などで実績を挙げ、1996年に社長に就任。豊富な海外経験を持つ国際派として、社内カンパニー制導入などの経営改革を進めた。2000年に会長就任後、05年に相談役に退いた後も、経営や人事に絶大な影響力を保持した。その後、システム障害が相次いだ東京証券取引所の社長兼会長となり、信頼回復に向けた事後処理に奔走した。13年には民営化を進める日本郵政社長に就任し、ゆうちょ銀行、かんぽ生命保険と合わせてグループ3社の上場を実現した。一方で、15年に発覚した東芝の不正会計問題では、西室氏の責任を指摘する声も上がった。

12月11日

チャールズ・ジェンキンスさん(77)=北朝鮮拉致被害者、曽我ひとみさんの夫

米国出身。在韓米軍の軍曹だった1965年、北朝鮮に脱走。日本から拉致された曽我さんと80年に結婚し、2人の娘をもうけた。北朝鮮が日本人拉致を認めた2002年に曽我さんは帰国。ジェンキンスさんは04年に2人の娘と北朝鮮を出国し、インドネシア経由で来日した。米軍法会議で禁錮30日と不名誉除隊の判決を受けて服役した後、曽我さんの故郷・新潟県佐渡市で家族で暮らした。佐渡では観光施設で働き、地域の人にも親しまれた。

バナー写真:結婚報告で成田山新勝寺(千葉県成田市)を訪れた市川海老蔵さん、小林麻央さん夫妻=2010年7月9日、斎川瞳撮影(毎日新聞社/アフロ)

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