霊峰からの恵みを命につないで-出羽屋の山菜料理
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佐藤治樹
「出羽屋」四代目。1988年、現当主の三代目、佐藤治彦の長男として、山形県西川町に生まれる。2011年、玉川大学経営学部卒業。現在、常務取締役として、厨房と経営を担う。
春には20~30種類もの山菜料理が並ぶ
古くから山岳宗教の聖地として、人々の信心の対象であった出羽三山。「彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の出を目のあたりにしたようで、かえってこれがあの月山だとは気さえつかずにいた……」(森敦『月山』)と、作家が香気高く描いたように、主峰の月山は、今も昔も神秘的な姿で出羽の国にたたずむ。「山菜料理」で名高い料理旅館「出羽屋」は、そんな月山の入り口に位置する。
佐藤治樹(以下、佐藤) 「出羽屋」の創業は昭和4(1929)年。月山の麓、西川町のあたりに鉱山があり、鉄道駅ができた時に、私の曽祖父がここに行者さんを迎える宿を出したことが始まりです。曽祖父、曾祖母は、もとは寒河江の在で農業を営んでいた人たちで、当時、農家が商売に転じることは大変珍しく、大騒ぎになったと伝え聞いています。
月山、湯殿山、羽黒山からなる出羽三山は何百年も前から、「東の奥参り、西の伊勢参り」として、日本人の信仰を集めた山でした。易学的に見ると、出羽三山が「陰」、伊勢が「陽」とされており、また三山は過去、現在、未来の象徴ともいわれ、日本人の霊的な精神の拠りどころであり続けたのです。
出羽屋が位置するのは、まさに月山への入り口です。行者さんは白装束を着て、山で一度あの世に行ってから、この世に甦る。そんな覚悟で、旅に出立したといいます。出羽屋の界隈はかつて、そのような行者さんを迎える茶屋や行者宿が立ち並んでいたところでした。
行者宿の料理とは、今生への別れという覚悟を持った人たちを、旅に出す前にもてなした料理である。その源流は、土地に根付く家々に伝えられた家庭料理だという。
佐藤 私たちがお出しする料理に「山菜料理」という名前が付くようになったのは、二代目の佐藤邦治の時です。このあたりは海からは遠く、一年のうち半年は雪に覆われてしまう山国ですから、宿で供するものといえば、自然と山菜が多くなります。遠来の行者さんが厳しい修業に入る前に、少しでも体力を養っていただけるよう、お出しする方は一生懸命考えたはずです。
もともと地元の家には、長い歴史の中で伝えられてきた山菜の調理法があり、そこから宿ではさらに工夫が凝らされるようになりました。たとえばくるみあえやごまあえは、山菜だけでは栄養が不足してしまうところを、補ったものです。
一方で、行者さんたちが、それぞれの土地の珍しい料理を伝えることもありました。そのようにして、よその土地のお客さまが喜んでくださるものが生き残り、だんだんとこの地ならではの山菜料理というものを形作っていったのだと思います。
地元の人にとっては、当たり前の日常料理だったものを、その背後の歴史とともに一つの「文化」としてとらえ、「山菜料理」としてまとめた人が祖父でした。
その文化をひと目で味わえるのが、宿で供される山菜料理だ。食卓には数えきれないほどの皿が並べられ、よその土地の者には馴染みのない名前の山菜が、いくつも出てくる。
佐藤 春にはトータルで20~30種類の山菜をお出ししています。一応、おひたしをスタートにしていますが、田舎らしい精一杯のおもてなしということで、地味な山菜が少しでも映えるよう、最初に小鉢をある程度お出しして、その後にお鍋やてんぷらなどの温かいものを味わっていただいています。
山菜が本格的に食卓に上るようになるのは4月から。都会は春でも月山はまだ雪にすっぽりと埋もれたままで、西川町にも雪があちらこちらに残っています。そんな中、ふきのとうが顔を出して、清流の水辺に川松や川ぜりを見つけると、いよいよ冬が明けたな、と実感します。
それからはすごいですよ。万作の花を合図に、きのもえ、にりん草、かたくり、こごみ、じゅうな、うこぎ、たらの芽、行者にんにく、どほいな、しどけ、あいこ、みず、山うど、ぜんまい、わらび、しをで、山ぶきなどが次々と採れるようになります。5月下旬になると、今度は月山筍(がっさんだけ)が出始めます。
豪雪に閉ざされた山国の春は遅いのですが、その代わり長く続き、7月上旬までは山菜採りに行って、採れたての春の味を楽しむことができます。
山の恵みは命と直結したもの
出羽屋の生命線となっているのは、代々、信頼で結ばれた山菜採りの名人との絆だ。
佐藤 名人は雪を越え、川を渡り、人の知らない深山まで足を運んで、貴重な山菜をいっぱい採ってきてくれます。
山菜もきのこも、山からの恵みには、見かけは同じで毒を持つものがあります。たとえば、にりん草は、根に猛毒を持つトリカブトに似ているんです。料理旅館はお客さまの命を預かるところですので、食べていいもの、いけないものを見分ける目は、非常に重要になります。
私も名人と月山に入って、一緒に山菜を採りますが、季節のどのタイミングで、どのようなものを採ればおいしいかは、経験を積むしかありません。
山菜では、それぞれが持つ味わいと色味を引き出してくれる水も大事になります。出羽屋では月山からの湧き出る水を引いて料理に使っています。軟水系の水で、これが山菜にも、お茶にもどちらにもよく合います。
山のタイミングで食材が入ってきて、山の営みで我々の生活が回っている。その意味で、月山は我々の命と直結した山です。
出羽屋では「おふるまい」と呼ぶハレの日の献立もある。この地方では人を正式に招待する時に、伊万里物のうつわを使った。その伝統にのっとり、「おふるまい」では伊万里物で座を盛り上げる。
佐藤 鮮やかな彩色がほどこされた伊万里物を使うと、宴席がひときわ華やぎます。ただ、紛らわしいのですが、この地方で「伊万里物」と呼ばれたのは、佐賀の伊万里焼に限ったものではありません。
江戸期以前の昔から、山形は紅花が特産品で、最上川から酒田へ、酒田から北前船で堺の港へと、同じく特産品の米とともに運ばれていました。帰路は荷下ろしした紅花の代わりに焼き物を積んで、それを重りに船は再び日本海に出たのですが、その時に積まれたものの一つが伊万里物だったわけです。
そのような交易の文化も、私たちの土地の祖先が育んできたものなんですね。
出羽屋の現当主は、佐藤の父で三代目の佐藤治彦。四代目となる佐藤は、小さい時から祖父の着物の胸に入れられて、山形や東京・築地の河岸に連れていかれていた。今は父とともに厨房を担い、次代への形を模索している最中だ。
佐藤 私は高校まで山形で過ごし、東京の大学では経営学を学びました。それ以前から家業を継ぐことは、はっきりと意識していました。「山菜料理」という文化を背負うには、日本料理のちゃんとした形を知らないといけないと思い、大学在学中には都内の日本料理店や大手ホテルで料理とサービスの勉強をさせていただきました。
文化を守ることは第一ですが、時代に合った工夫も大切だと思います。たとえば食後の甘味に、山うどを混ぜたチョコレートや、うどと酒粕のチーズケーキなどをお出ししています。山菜のほろ苦さが、洋風の濃い味に合うと好評です。
出羽三山のスピリチュアルな歴史は海外にも知られ、最近は外国人旅行客の姿も目立つようになってきた。
佐藤 外国の方にとって、出羽屋でお出ししているような山菜料理は、やはりとても珍しいようです。山菜をストレートに出すという、供し方もそうでしょうし、その背景に宗教的なものがあるということで、より興味を持っていらっしゃるようですね。私たちにとっても、お山は非常に神秘的な場所です。異文化から来た人でしたら、なおさらではないでしょうか。
また、宗教的な背景をのぞいても、山菜料理は飽食の時代に、健康によい料理だという点にも、惹かれるところがあるのだと思います。私たちの家族も毎日、山菜をいただいていますが、新鮮な味と歯ごたえに、体が生き返るような思いがします。
春を過ぎ、盛夏にはいわぶきや青みず、じゅんさいに加えて、天然鮎、かじかといった渓流魚が献立に加わります。夏の終わりに、とび茸が登場すると、周囲はもう初秋の気配がただよい、そこからはあけびの実、山ぶどう、またたび、山ぐり、ブナの実、そして松たけ、しめじ、ししたけ、ますたけ、くりたけと、秋本番の味覚がやってきます。
山菜料理は見た目はシンプルですが、実は下ごしらえに手間と忍耐がかかっています。そこに、山間の厳しい自然の中で、土地の人たちが我慢強く暮らしてきた歴史と、山に入る行者さんや信者さんに寄せた厚い情が感じられると思っています。
(文中敬称略)
バナー写真:佐藤治樹さん(右)と、治樹さんの母で女将として「出羽屋」を切り盛りする佐藤明美さん
取材・文:清野由美 撮影:猪俣博史(提供写真を除く)
<情報>
出羽屋
住所 〒990-0703 山形県西村山郡西川町間沢58
電話 0237-74-2323
ファクス 0237-74-3222
ウェブサイト http://www.dewaya.com/
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