『目黒千代か池』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第61回

歌川広重「名所江戸百景」では第23景となる『目黒千代か池』。古くから景勝地の名所だった池を彩る、満開の桜を描いた一枚。

大名屋敷内の名所で描いた珍しい“逆さ桜”

現在の目黒駅付近は、江戸時代には目黒不動尊参詣の通り道で、人気の行楽地であった。白金台から続く台地の端に当たるために眺望が良く、西に富士山が美しく見えた。目黒川に向かって下る急な斜面も、自然が豊かで趣深かったようだ。台地の上からの眺めは「目黒新富士」と「爺々が茶屋」、斜面下からの風景は「目黒太鼓橋夕日の岡」を見てもらえればと思う。

「千代が池」は現在の目黒区目黒1丁目1番辺り、太鼓橋の少し北の斜面にあった。南北朝時代(1336-1392)の武将・新田義興(よしおき)の側室だった千代が、身を投げたことで命名されたという。義興は、室町幕府初代将軍・足利尊氏と争った新田義貞の次男。父と兄の死後、一時は鎌倉を奪うなど足利氏との攻防を繰り返したが、1358年に多摩川の矢口の渡し(現・大田区矢口付近)で謀殺された。訃報を受けた千代は、その後を追ったのだ。千代が池の名が浸透すると、それを見下ろす崖上部分の平地も「千代が崎」と呼ばれた。広重の『絵本江戸土産』には「千代が崎は、渋谷より目黒へ往還する芝生の岡をいう」とあり、現在のJR目黒駅から恵比寿のアメリカ橋に向かう目黒三田通り一帯を指すようだ。

江戸時代、千代が崎には三田用水が流れていて、その川辺から西側の斜面にかけて肥後島原藩主・松平主殿頭(とのものかみ)の下屋敷が広がっていた。千代が崎に建てられた主殿頭の別荘は、見事な眺望から「絶景観」と呼ばれたという。千代が池も敷地内となったが、行楽客なども見物できたようだ。三田用水から引かれた段々の滝が流れ落ち、春には桜の花が彩った。

広重は池の縁から、桜が咲く斜面と滝、花見を楽しむ親子連れなど、のどかな春の風景を描いている。名所江戸百景全119枚には水辺が多く登場するが、水面に映る木々や、その影を描いているのは4枚だけだ。「目黒千代か池」はそのうちの1枚で、広重には“逆さ桜”の美しさが、特別に印象深かったと思われる。

現在、目黒三田通りの西側の斜面には、ホテルやマンションなどが立ち並ぶ。千代が池の一部は昭和初期まで残っていたようだが、今はもうない。ロケハンの時に、かつての千代が崎にあたる目黒三田通り沿いの「三田公園」で、桜の木が植えられているのを見付けた。しかし、平たんに整地してある公園で、元絵と似た雰囲気の写真は撮れそうにない。八重桜が満開の日に、園内にある青い滑り台を滝に見立てることを思い付き、ローアングルでシャッターを切った。地面に映る木陰が、さざ波が立つ池の水面にも重なったので作品とした。

●関連情報

千代が崎、三田用水、恵比寿

南北朝時代の軍記物語『太平記』は、新田義興が憤死後に怨霊となって、策謀に加担した人々に災いをもたらしたことを描いている。その御霊(ごりょう)を鎮めるため、勇猛果敢だった義興を祭神とする新田神社(大田区矢口1丁目)が1358年に建立された。神社のホームページには、目黒不動や大鳥神社から池上本門寺を経由して新田神社にも立ち寄るのが、江戸時代の人気行楽ルートの一つだったとある。平賀源内らが手掛けた義興を題材にした浄瑠璃『神霊矢口渡』(1770年初演)も好評を博したことから、ゆかりのある千代が池や千代が崎にも足を延ばす人がいただろう。

千代が崎のあった目黒三田通りの西側には、ビルの谷間に急な下り坂が残り、台地の端という地形は変わらない。今でも空気が澄む晴天の日には、富士山を美しく望める場所がある。その近くを、かつて三田用水が流れており、千代が池に落ちる滝の水源にもなっていたようだ。明暦の大火(1657)後に拡大した江戸では、水の需要も一気に増加。幕府は、1664(寛文4)年に玉川上水を北沢村(現・世田谷区北沢)で分水し、代田、代々木、渋谷、目黒を通り、白金、高輪、三田、芝方面まで続く三田上水を造った。維持費がかさんだために一度廃止となるが、農業用水にしたいという周辺村落の願い出により、三田用水としてすぐに再開した。今では想像し難いが、「住みたい街」の上位にランキングされる代々木や渋谷、恵比寿、目黒、白金は、かつては江戸っ子の胃袋を満たす農業地帯だったのだ。

三田用水は広重の時代にも利用していて、『目黒新富士』では富士塚を取り囲む川のように描いている。明治になると、水車を動力とする工場が、三田用水沿いに立ち並ぶようになった。しかし、20世紀になると、山手地域の宅地化や工場動力の電化が進む。太平洋戦争後にその傾向が強まり、1974年に正式に廃止された。

三田用水沿いにできた工場の代表格が、ヱビスビールを製造する日本麦酒(ビール)醸造会社の目黒工場だった。1889(明治22)年の末に操業が始まり、1901年(明治34)にはビール輸送のための貨物駅「恵比寿停留所」、その5年後には日本鉄道品川線(現・JR山手線)の「恵比寿駅」が誕生。その頃から、周辺を恵比寿と呼ぶようになったという。しかし、正式な地名となったのはだいぶ後の1966(昭和41)年で、翌年にサッポロビール目黒工場も恵比寿工場に改称した。ヱビスビール記念館に加え、東京都写真美術館やホテル、レストラン、百貨店などがある複合施設「恵比寿ガーデンプレイス」は、この恵比寿工場の跡地に1994(平成6)年に完成したものである。

『絵本江戸土産』3編「目黒千代ヶ崎遠景」(国会図書館蔵)は、目黒千代が池近くの高台の上から眺めた風景だ。7編には、『名所江戸百景』とよく似た構図の「目黒千代が池」も収録されている
『絵本江戸土産』3編「目黒千代ヶ崎遠景」(国会図書館蔵)は、目黒千代が池近くの高台の上から眺めた風景だ。7編には、『名所江戸百景』とよく似た構図の「目黒千代が池」も収録されている

港区白金台に残る三田用水の遺構。筆者が子どもだった60年代、大谷(おおや)石で造られた水路には、水が枯れ、雑草が茂っていて、かっこうの遊び場になっていた
港区白金台に残る三田用水の遺構。筆者が子どもだった60年代、大谷(おおや)石で造られた水路には、水が枯れ、雑草が茂っていて、かっこうの遊び場になっていた

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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