『筋違内八ツ小路』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第63回

美術・アート

歌川広重『名所江戸百景』では第9景となる「筋違内八ツ小路(すじかいうち やつこうじ)」。江戸時代に交通の要所であった、神田川沿いの火除(よ)け地を描いた一枚である。

多種多様な人が行き交う江戸の縮図

「火事と喧嘩(けんか)は江戸の華」という言葉があるように、江戸の町は何度も大火に見舞われ、多くの犠牲者が出た。そのため、延焼を抑えようとさまざまな備えをしたが、その一つが「火除け地」である。橋のたもとや広い街道の近くに広場を設けて延焼を防ぎ、焼け出された人々の避難場所としても利用したという。

今回の絵は、現在の秋葉原駅近くを東西に流れる神田川の南側、万世橋と昌平橋の間(現在の千代田区神田須田町から神田淡路町)にあった火除け地を描いたものだ。広場の真ん中に立つと八方へと続く道が見えたので、「八ツ小路」や「八辻小路」、「八辻原」などと呼ばれていた。交通の要所で、他の火除け地と比べて大変広かったために名所であったのだろう。

江戸城外堀には一定間隔で、橋と櫓(やぐら)を備えた城門が置かれた。神田川を外堀として利用したために、八ツ小路には筋違御門(ごもん)という城門があり、筋違橋(万世橋の前身)が架かっていた。画題の「筋違内」とは、この見附門の城側という意味である。

広重は筋違御門側、八ツ小路の南東から北西に向けて、鳥の目線「鳥瞰(ちょうかん)」で描いている。川沿いの土手、白壁の武家屋敷、大名家の行列、葦簀(よしず)掛けの仮設の茶屋で、広場を取り巻いたような構図である。筋違御門は茶屋の右上辺りで、画面には入っていない。中央の辻番所の上、土手が途切れた場所に昌平橋が架かっているが、濃い春がすみによって神田川の水面とともに隠されている。対岸のかすむ外神田の町家を高台から見下ろすのは、神田明神の堂々たる本殿だ。

広重作『絵本江戸土産』の5編にある「筋違八ツ小路」(国会図書館所蔵)。名所江戸百景と同じ場所を反対側から眺めている。左上に筋違御門の櫓、奥には町家が軒を並べているのがよくわかる。葦簀掛けの茶屋の位置も確認でき、両方の絵を見ることで八つ小路の全体像がつかめる
広重作『絵本江戸土産』の5編にある「筋違八ツ小路」(国会図書館所蔵)。名所江戸百景と同じ場所を反対側から眺めている。左上に筋違御門の櫓、奥には町家が軒を並べているのがよくわかる。葦簀掛けの茶屋の位置も確認でき、両方の絵を見ることで八つ小路の全体像がつかめる

余白を生かした鳥瞰ではあるが、広重にしては面白みがない構図だと感じる人もいるだろう。しかし、実に多様な人々を描いている点は興味深い。手前に見える行列は、腰元や女中らに、赤屋根の立派なかごが続いているので、大名の奥方であろう。昌平橋辺りに目を移すと、親子連れ、中元を伴った武士、駕籠舁(かごかき)、てんびん棒を担いだ魚屋、大きな風呂敷包みを背負った商人、かさをかぶった旅人などが見受けられる。

第47回「外桜田弁慶堀糀町」で江戸の町割りについて触れたが、この場所は、ちょうど武家屋敷街と町家の境目で、左に見える白壁の屋敷から左奥には旗本・御家人が住む屋敷が連なり、絵の右手、見えない筋違御門側には町家が広がる。また、五街道の起点・日本橋の真北にある八ツ小路は、板橋宿へ向かう中山(なかせん)道や、将軍家が上野の寛永寺へ向かう際の御成道(おなりみち)が通る。広重は、多彩な身分の人々が行き交うこの火除け地で、生き生きとした江戸の姿を描きたかったのではないだろうか。

現在、八ツ小路のあった場所にはビルが立ち並んでいるが、西寄りの「マーチエキュート神田万世橋」前に小さな広場がある。中央線の高架下に残る、旧駅舎を利用したれんが造りの商業施設には、かつての土手の面影が感じられる。2019年の桜咲く春の休日、人出の少ない午前中を狙って撮影に出掛けた。中央本線の特急列車「かいじ」のモダンな車両が来たので、シャッターを押して作品とした。

関連情報

旧万世橋駅、JR中央線

筋違御門は明治5(1872)年に取り壊され、その石材を使って旧筋違橋を石橋に架け替えた。当時の東京府知事は「万世橋(よろずよばし)」と名付けたが、庶民は「まんせいばし」と呼ぶようになったそうだ。明治36(1903)年、少し下流の現在の位置に新しい万世橋が造られ、かつての御門・見附の面影は消えたが、外堀の土手はその後の鉄道建設に利用された。JR中央線に乗っていると、四ツ谷駅から神田駅の手前まで、かつての外堀沿いを走っていることがよく分かる。

中央線は甲武鉄道会社の路線として、明治22(1889)年に新宿−立川駅間の運行を開始した。次第に東へと延伸し、明治45(1912)年には万世橋駅まで開通する。豪華なれんが造りの駅舎は筋違御門があった辺りに建ち、かつての八ツ小路が駅前広場となり、後に路面電車も乗り入れた。中央線の起終点のターミナル駅として、再び交通の要所となったのだ。

しかし大正8(1919)年、中央線は東京駅まで延伸して、万世橋駅との間には神田駅も開業。6年後には神田川を渡ってすぐに秋葉原駅が誕生し、御茶ノ水駅を含めて半径500メートル内に駅が集中した。関東大震災で駅舎が焼失した後、市電の路線変更もあり、万世橋駅の利用者は減少する。昭和11(1936)年には、鉄道博物館が移転してきたことで駅舎が縮小され、その7年後には駅の営業は休止(事実上の廃止)となった。

戦後、鉄道博物館は交通博物館と改称し、鉄道のみならず、自動車や航空機なども展示した。秋葉原電気街の発展もあって、高度成長期には多くの子どもや家族連れが訪れた。老朽化などで平成18(2006)年に閉館となり、翌年、その役目を引き継ぐ施設「鉄道博物館」が埼玉県さいたま市にオープンする。

交通博物館跡地には、平成25(2013)年にJR神田万世橋ビルが完成し、万世橋駅の遺構部分はマーチエキュート神田万世橋に生まれ変わった。旧ホームを再利用したカフェは、中央線が両側を行き交う「世界で一番鉄道に近いカフェ」として知られる。ガラス張りの展望デッキ席は鉄道ファンのみならずとも、その迫力に驚くはずだ。

1859年刊の『安政改正御江戸大絵図』(国会図書館蔵)を八ツ小路を中心に切り取り、現在の駅や万世橋などを追加
1859年刊の『安政改正御江戸大絵図』(国会図書館蔵)を八ツ小路を中心に切り取り、現在の駅や万世橋などを追加

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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