『日本橋雪晴』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第80回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第1景となる「日本橋雪晴(にほんばしゆきばれ)」。シリーズの最初を飾ったのは、江戸経済の中心地・日本橋のにぎわいを描いた一枚である。

江戸城と富士山が登場する日本橋を代表的する景色

今回の絵は『名所江戸百景』目録の第1景である。江戸時代の初めに幕府は、幹線道として東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の「五街道」を整備した。その全ての起点を日本橋と定めたので、まさに最初の1枚に相応しい場所だ。広重が自身の人気を不動のものとした『東海道五十三次(保永堂版)』(1833-34年)、渓斎英泉との合作シリーズ『木曽街道六十九次』(35-42年)もこの地からスタートする。

旧暦の正月、雪がやんだ後の晴天の朝に、日本橋北詰東寄りの河岸から西の方を、お得意の鳥の視線「鳥瞰(ちょうかん)」で望んでいる。天下を治める将軍が暮らす江戸城、日本一の山・富士を画内に収めることで、正月らしい縁起の良さを演出しつつ、日本橋が全国の中心地であることを見事に表現した。

橋の上や道に人が多いのは今の日本橋と同様だが、川面にたくさんの船が浮かんでいるのが江戸時代ならではだ。橋の奥、南詰の西側には商家の蔵が密集し、水路においても要所だったことが分かる。

絵の下側、沢山の舟が接岸し、雪化粧した店の屋根が並ぶのは「日本橋魚河岸」だ。店の前を棒手振(ぼてふり)と呼ばれる魚や青物の行商人たちが行き交う。名所江戸百景では夏の景の1枚目「日本橋江戸ばし」でも、棒手振の桶に乗った初鰹を描いている。当時の日本橋は「朝千両」とも言われ、朝だけ開く魚河岸なのに1000両もの売り上げがあったという。現在の豊洲市場が「日本の台所」ならば、当時の日本橋は「江戸っ子の台所」で、「魚=日本橋」だったのだ。

2018年1月、東京で久々の大雪が降った翌朝に日本橋へ出掛けた。最初は、川沿いの道路を挟んで俯瞰でカメラを構えようとしたが、車道はすでに除雪され、黒いアスファルトがむき出しとなり、全く絵にならない。やむなく日本橋に近づき、まだ雪が残る歩道がフレームに収まるよう、西向きにシャッターを切った。首都高速道路が上を覆って橋も川もよく見えず、ビルに囲まれて富士も皇居も全く望めないが、雪晴れの雰囲気は出せた。足早に出勤するビジネスマンたちに、早朝から商売にいそしんだ棒手振を重ね合わせて作品とした。

●関連情報

日本橋、魚市場

日本橋は1603(慶長8)年、徳川家康が江戸幕府を開いた年に誕生した。その後、火事や地震、老朽化によって何度も架け替えられ、現在の橋は19代目とも20代目とも言われている。

幕府は五街道整備にあたり、1里(4キロ)ごとに「一里塚」を築き、およそ2里おきに宿場を設けて伝馬制を敷いた。その起点となった日本橋は、全国から陸運で届く荷の終着点でもある。日本橋周辺の街道沿いに、流通を請け負う商人や物資を加工する職人を住まわせることで、幕府は広範囲の町屋をつくり上げていった。今でも道路の起終点「道路元標」は日本橋に置かれている。

広重作『絵本江戸土産』の5編にある「日本橋」(国会図書館所蔵)でも、名所江戸百景と同じ方向を描いている。「この橋を以って江都の中央となし、諸方への道法、ここを本とす。毎朝、魚市ありて橋の南北群集夥(おびただ)し。誠に江都第一の繁華なり」とある
広重作『絵本江戸土産』の5編にある「日本橋」(国会図書館所蔵)でも、名所江戸百景と同じ方向を描いている。「この橋を以って江都の中央となし、諸方への道法、ここを本とす。毎朝、魚市ありて橋の南北群集夥(おびただ)し。誠に江都第一の繁華なり」とある

広重の絵で川沿いに蔵が並ぶように、水運においても日本橋周辺が終着地点だったようだ。全国から江戸へと運ばれる船荷は江戸湊で小舟に乗せ換えられ、日本橋川を経由して江戸城や市中に運び込まれた。行徳の塩や利根川水運ルートの東北の物資も、最後はこの川を利用する。

日本橋の魚河岸は、家康が摂津国から江戸に呼び寄せた、佃島(中央区)の漁師たちによって開かれた。彼らは佃島の土地を与えられるまでの間、日本橋周辺の大名屋敷に分宿し、魚を捕りながら江戸湾の海上偵察もして、毎日宿舎の幕閣に報告していたという。幕府へ納入した後に余った魚を、近くの河岸で売りさばいたことから、日本橋魚河岸へと発展したという。その後、漁師たちは、江戸湾での漁業特権と佃島の土地を与えられて移住したが、日本橋魚河岸は以降300年も続く日本一の魚市場となったのである。

二代広重作『絵本江戸土産』の10編にある「日本橋の朝市」(国会図書館所蔵)。「日に三箱 鼻の上下 臍(へそ)の下」という川柳について、「芝居、吉原、日本橋では毎日三千両ずつ金が落ちる」と解説している
二代広重作『絵本江戸土産』の10編にある「日本橋の朝市」(国会図書館所蔵)。「日に三箱 鼻の上下 臍(へそ)の下」という川柳について、「芝居、吉原、日本橋では毎日三千両ずつ金が落ちる」と解説している

江戸城のお膝元で、水運と陸運の終着点だった日本橋周辺は、明治以後も日本経済の中心地として繁栄する。1871(明治4)年に近代郵便発祥の地である郵便役所(現・日本橋郵便局)、2年後には渋沢栄一が創業した日本最初の銀行・第一銀行(現・みずほ銀行)、1878年には現在の東京証券取引所に繋がる東京株式取引所が設立された。日本橋といえば「デパート」を思い浮かべる人も少なくない。呉服の大店だった越後屋(後の三越)、白木屋(後に東急百貨店と合併)が、20世紀初頭に百貨店へと姿を変え、京都の木綿呉服商だった高島屋も東京店を開設。日本橋エリアは後の百貨店業界をリードした。

魚河岸は関東大震災(1923年)で壊滅し、築地へと移るが、日本橋にはかつお節や海苔、包丁など、魚河岸由来の老舗が今も残る。1960年代には首都高速道路が通り、日本橋の上を塞いでしまったが、2040年には高速道路の地下化によって青空が戻るという。雪晴れの日に、再び出向いて撮影し、今の姿と比べてみたい。

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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