『川口のわたし善光寺』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第82回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第20景となる「川口のわたし善光寺」。江戸っ子から信奉を集めた川口善光寺と荒川の渡船場付近を描いた一枚である。

林の中にあった江戸近郊の名刹がビル群に囲まれる

柳の木が新芽を吹く、まだ肌寒い早春を描いた今回の絵は、『名所江戸百景』の中で最も北の風景だ。「川口の渡し」は、徳川将軍家が日光東照宮を参詣する際に使用した「日光御成道(おなりみち)」が荒川と交差する地点にあり、現在の東京都北区岩淵と埼玉県川口市舟戸町を結んでいた。

広重は岩淵側から、お得意の鳥の視線「鳥瞰(ちょうかん)」で対岸の川口方面を望んでいる。手前のわらぶき屋根は渡船場近くの茶屋で、岸では旅人が船を待ち構えている。向こう岸の深い林に囲まれた赤い建物が「川口善光寺」。絵の中では静寂感ただよう印象だが、江戸市中から日帰りも可能なため、庶民からは「気軽に行ける善光寺」として人気があった。本尊を拝むことができる「開帳」の際にはあふれんばかりの参詣客で、安政5(1858)年3〜4月の「安政の大開帳」は特に盛況だったという。

今回の絵は大開帳の前年の2月に擦られた作品のため、事前告知の意味合いがあったとも考えられるが、広告にしては華やかさに欠ける暗いトーンである。タイトルでうたうほどの名刹(めいさつ)なのに、その大屋根の半分を題箋(だいせん、題名を記す短冊部分)で隠すというのが広重らしい。少し前に描いた『絵本江戸土産』でも閑散とした風景なので、日頃から多くの参詣者がいたわけではなさそうだ。

広重作『絵本江戸土産』の4編にある「川口の渡 善光寺」(国会図書館所蔵)。名所江戸百景と同じ場所を描き「渡船場の北にある善光寺の阿弥陀三尊の霊験は極めて著しい」と解説している
広重作『絵本江戸土産』の4編にある「川口の渡 善光寺」(国会図書館所蔵)。名所江戸百景と同じ場所を描き「渡船場の北にある善光寺の阿弥陀三尊の霊験は極めて著しい」と解説している

中央を横切る荒川の川面には、ぶつかりそうなほどの筏(いかだ)が列を成す。当時、江戸で使用される木材は、埼玉の秩父産や飯能地域の「西川材」が多く、いずれも荒川を経由して運び込まれた。川面に筏が浮かぶのは、この辺りの日常的風景だったのだろうが、『絵本江戸土産』と比べても、その数はさらに多い。

広重は『名所江戸百景』で、安政江戸地震(1855)から力強く復興する江戸の姿を伝えようとした。翌年にも台風被害があり、この絵が描かれた時期は復興建設ラッシュにより、大量の材木が必要とされていた時期だ。あえて薄暗い色調の中、善光寺詣でのにぎわいも描かないことで、江戸へと向かう筏乗りたちの勇壮な姿を強調したのではないだろうか。そう考えると、静けさの中から「おーい、近づきすぎだぞ、ぶつかるじゃねぇか」「おめぇが、遅いからだろう」といった掛け声が響いてくるように思える。そして、題名にある善光寺の大屋根や渡し船が、双方半分だけしか描いていないのも合点がいく。

川口の渡しがあった付近には、現在「新荒川大橋」が架かる。元絵のような暗いトーンを出したかったので、早春の夕暮れ時に訪れた。橋の上に立つと、水辺の冷たい風が吹きつけて真冬並みの寒さだった。川岸に新芽を吹き始めた柳の木を見つけたので、木々の林ならぬ、林立する高層マンションに囲まれた善光寺とともにフレームに収めた。かじかんだ手でシャッターを切りながら、寒風吹く水面で筏を操り、江戸の復興を支えた男たちに思いをはせた。

●関連情報

荒川、日光御成道、善光寺

江戸時代初期から大正時代に至るまで、荒川の下流部は隅田川で、千住より上流を荒川、下流を隅田川と呼び分けていた。1930(昭和5)年に荒川放水路が完成して現在の流路となり、隅田川も岩淵水門から分岐する荒川の支流として独立する。

岩淵と川口はともに日光御成道の宿場であった。五街道の一つだった日光街道は宇都宮まで奥州街道と同じ道で、日本橋から浅草を通り、千住宿、幸手宿まで至る。それに対して御成道の方は、江戸時代以前の奥州街道であったとも伝わり、中山道の本郷追分(現・文京区本郷の東京大学農学部正門前)を起点に、岩淵宿、川口宿、岩槻宿などを経て、幸手で日光街道に合流する。脇街道ではあるが、3代・家光が敬愛する家康を祀る日光東照宮を詣でる際に整備した立派な道で、各宿場も五街道並みににぎわっていたという。

家光以降、将軍の東照宮参拝の折には日光御成道を使うことが慣例となる。日光街道なら荒川を渡るのに千住大橋が使えるが、こちらには橋がない。御一行は荒川に船を並べ、その上に板を渡して仮橋を架け、将軍は籠に乗ったまま通過したそうだ。

1825(文政8)年作成の『東都近郊図』(国会図書館蔵)より、川口の渡しを中心に切り抜いた。岩淵宿、川口宿共に「馬次」と記載され大きな宿場だったことがうかがえる。善光寺には「正月七月十六日参ケイ多シ」と記載されている
1825(文政8)年作成の『東都近郊図』(国会図書館蔵)より、川口の渡しを中心に切り抜いた。岩淵宿、川口宿ともに「馬次(うまつぎ)」と記載され、大きな宿場だったことがうかがえる。善光寺には「正月七月十六日参ケイ多シ」と記載されている

川口善光寺は、信州の名刹・善光寺(長野県長野市)にある日本最古の仏像とされる「阿弥陀三尊」を模した像を、鎌倉時代初期に安置したのが始まりだという。仏教が宗派に分かれる以前の仏像様式は、鎌倉〜室町時代にかけて全国に伝わり、同時に善光寺信仰も広まったようだ。江戸っ子の間にも信奉者が増えたので、信州善光寺は両国・回向院へ前立本尊(まえだちほんぞん、秘仏である本尊の身代わり)を運び、何度も「出開帳」を催している。幕末頃には、庶民の間で「一生に一度は善光寺参り」とも言われるようになった。

しかし、当時は誰もが信州まで行けるわけではないので、秘仏を模造した本尊を祀る川口善光寺が人気を集めた。開帳ともなると江戸っ子が押し寄せ、茶屋や露店に加えて、軽業などの見世物や芝居の小屋も立ち並び、大いににぎわった。川口善光寺に問い合わせたところ、安政の大開帳以降に開帳が催された記録は残っていないらしい。広重が描いた本堂は、関東大震災や東京大空襲でも被災せずに残っていたが、1968(昭和43)年に起きた火災で焼失してしまった。荒川のスーパー堤防工事が進まないため、再建計画は長い間先送りになっているという。

現在の川口善光寺の仮本堂。広重が描いた本堂は、関東大震災でも東京大空襲でも被災せず残ったが、昭和43年に火事で焼失した
現在の川口善光寺の仮本堂。1日でも早い境内の再興が望まれる

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら

観光 神社仏閣 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」 浮世絵 北区 河川 江戸時代 江戸 川口市