『佃しま住吉の祭』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第92回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第55景となる「佃しま住吉の祭」(つくだじま すみよしのまつり)」。江戸湾に浮かぶ漁師町、佃島の盛大な夏祭りを描いた1枚である。

江戸城からも眺めることができた佃祭名物の大幟

ご飯のお供「つくだ煮」の発祥の地として知られる佃島。現在は中央区佃となり、高層マンションが立ち並び、東京のウオーターフロントブームの先駆けともいえる地域だが、1丁目の南側には昭和の香りが漂うレトロな町並みが残っている。江戸時代の佃島はこの一帯だけの小さな島で、江戸湾の隅田川河口の南に浮かんでいた。

隅田川に架かる佃大橋から撮影した中央区佃の風景。タワーマンション群の手前にある低層建物の地域が佃1丁目南部で、江戸時代の佃島全域にあたる
隅田川に架かる佃大橋から撮影した中央区佃の風景。橋の東詰めの北側、タワーマンション群の手前にある低層建物の地域が佃1丁目南部で、江戸時代の佃島全域にあたる

佃島の歴史は、徳川家康が江戸入府の際、以前から縁のあった摂津国佃村(現・大阪市西淀川区佃)の漁師らを招聘(しょうへい)したことから始まる。江戸での食料確保に必要だったのだろう。当初は日本橋周辺の武家屋敷に分宿し、高度な漁業と操舵(そうだ)技術を生かし、江戸城へ納める魚を捕りながら、海上偵察の役目も担ったという。漁獲量が増えると、余った魚を宿舎近くの堀で売りさばくようになり、それが後の日本橋魚河岸につながっていった。

3代将軍・家光が世を治めた寛永年間(1624-44)、武家地と町人地の整備が進むと、漁師らには江戸湾に浮かぶ干潟が与えられる。江戸湊(みなと)を警備する船手頭・石川家が拝領していた島(石川島)の南側で、そこを埋め立てて故郷・佃の名を付けた。

安住の地を得た漁師は、故郷の村の鎮守・住吉神社(現・田蓑神社)から住吉大明神を勧請(かんじょう)し、1646(正保3)年に佃島住吉神社を造営。以降、創建日の旧暦6月29日頃に例祭(通称:佃祭)を開催し、19世紀には江戸の夏の風物詩となっていた。

尾張屋版『江戸切絵図』(1849年刊、国会図書館蔵)の「築地八丁堀日本橋南之図」より、日本橋(左上)から佃島(右下)までを切り抜き、北を上にした。島中央の朱色には「住吉社」、グレーのエリアには「漁師町屋」と記されている。現在は島の東側に佃2丁目、南側に月島の埋め立て地が広がっている
尾張屋版『江戸切絵図』(1849年刊、国会図書館蔵)の「築地八丁堀日本橋南之図」より、日本橋(左上)から佃島(右下)までを切り抜き、北を上にした。島中央の朱色には「住吉社」、グレーのエリアには「漁師町屋」と記されている。現在は島の東側に佃2丁目、南側に月島の埋め立て地が広がっている

にぎわいのきっかけとなったのが、絵の中央に描かれた大幟(のぼり)。広重が生まれた翌年の1798(寛政10)年に、幕府の許可を得て初めて設置したものだ。島の中に高さ6丈(約18メートル)もある幟が6本立ち、かなり遠くからも見ることができたというから、祭り好きの江戸っ子たちが誘われるように集まって来たことだろう。一目見ようと将軍まで、江戸城で最も高い富士見櫓(やぐら)に上ったと伝わっている。神輿(みこし)は関東では珍しい八角形で、1838(天保9)年に製作されたもの。神輿を担いだまま江戸湾に入る佃祭名物「海中渡御」に耐えられるように、漆や金が神輿の内部にまで丁寧に施されているという。

絵の右側には海原が広がり、遠方に陸地が見えるため、佃島の東岸から描いたと推測できる。松の木の右奥にある対岸は深川南部の越中島(現・江東区越中島)辺りで、水平線の向こうに見えるのは下総国の山々だろう。葦(ヨシ)の茂る浅瀬を練り歩く海中渡御(とぎょ)を船から見物する姿もあり、右端にはわずかに祭りちょうちんも見える。

現在、宮神輿を出し、大幟を立てる本祭りは3年に1度、間の2年は御神楽奉納のみの陰祭りとなっている。写真は2018(平成30)年の本祭りの際に撮影した。隅田川の水質汚染などが原因で、海中渡御は1962(昭和37)年から中止となったが、1990年から船渡御が行われている。神輿を運ぶ船と水面、空、緑をフレームに収められる佃大橋へ、場所取りのために朝早くから出掛けた。神輿が船に移った瞬間を望遠レンズで狙い、大幟の写真を合成して作品とした。 

●関連情報

佃祭と大幟

「情けは人のためならず」をテーマとする『佃祭』は、江戸の古典落語の中でも人気演目の一つ。例祭の日、主人公が利用する予定だった渡し船の最終便が、客の乗せすぎで沈没したというエピソードを軸に展開する人情ばなしで、当時の見物客がいかに多かったかが想像できる。

当時は佃島に渡る橋はなく、佃祭は住吉神社の創建当時から知られていたわけではない。11代・家斉の時代、大幟の登場によって注目され、神輿の海中渡御や獅子頭の宮出しなどの勇壮な雰囲気で人気を呼んだのだ。

この幟を立てる柱や台となる抱木(だき)は、驚くべきことに現在も当初のものが使われているらしい。その保管方法はとてもユニークで、次の祭りで使うまでの間は、島の東西を区切る佃堀に沈めておくのだ。木を水面下の土中に埋めてしまうと、腐ってしまうと考える人もいるが、実際には空気が遮断されるので腐敗を防ぐという。埋め立てにも木の板や杭を使う工法があるので、その技術に精通した、佃島の人々ならではの知恵だったのであろう。

佃堀に立てられた大幟と佃小橋。祭りが終わると、佃小橋の北側の水中に保管される
佃堀に立てられた大幟と佃小橋。祭りが終わると、佃小橋の北側の水中に保管される

広重が描いた大幟の幕部分も、じっくり見てほしい。2018年に撮影した写真を見ると、「住吉大神」の文字の右に、小さく「昭和六拾弐(1987)年」とある。つまり幕部分は30年以上使われているものだ。それが絵の方には、「住吉大明神」の右に「安政四(1857)年六月吉日」と書かれている。改め印から安政4年7月に摺(す)られた作品だと分かるので、この年に新調されたばかりということだ。

研究者の間では広重のおふざけだろうという見解が多いが、2年前には安政大地震、前年には江戸台風という大災害があった。特に江戸台風の高波は佃島や隅田川の沿岸に甚大な被害をもたらしたと伝わるので、家屋と一緒に流されてしまった可能性もある。こうした細部からも、いろいろと想像が膨らむため、名所江戸百景は今でも多くのファンを持つのだろう。

石川島の船着場へと向かい、大幟の下を巡幸する八角神輿
石川島の船着場へと向かい、大幟の下を巡幸する八角神輿

現在の佃島住吉神社の例祭は、本祭りが8月上旬の土日を挟んだ4日間、陰祭りは8月6-7日の2日間に開催される。現在も、その華やかさと勇壮さで名高く、全国から祭り好きが集まってくる。2021年は本祭りの予定だったが、残念ながらコロナ禍によって翌年に延期となった。無事開催された際には、氏子衆と一緒に盛り上がりながら、4年ぶりに立つ大幟を眺めつつ、220年の歴史を感じてみてはいかがだろう。

神輿宮出し前の住吉神社。朝5時頃にもかかわらず、多くの見物客が待ち構えていた
神輿宮出し前の住吉神社。朝5時頃にもかかわらず、多くの見物客が待ち構えていた

船着き場近くの斜面を下る八角神輿。無事に運ぼうとする担ぎ手の緊張感が、遠く離れた佃大橋まで伝わってきた
船着き場近くの斜面を下る八角神輿。無事に運ぼうとする担ぎ手の緊張感が、遠く離れた佃大橋まで伝わってきた

斜張橋の中央大橋やスカイツリーを背景にする現代の船渡御も見ものだ
斜張橋の中央大橋やスカイツリーを背景にする現代の船渡御も見応えがある

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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