『する賀てふ』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第100回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第8景となる「する賀てふ(するがちょう)」。シリーズ中、最も大きく富士を描いた華やかな1枚である。

日本一の呉服店越しに眺める日本一の山

「する賀てふ=駿河町」は、現在の日本橋三越本店(中央区日本橋室町1丁目)と、三井グループ系の銀行が入る三井本館(中央区日本橋室町2丁目)の間を通る「江戸桜通り」沿いにあった町。その名は、通りの西方向が駿河(静岡県中部)にそびえる富士山へと真っすぐ伸びていることに由来する。

広重は絵の上部に富士山を大きく描き、下部には買い物客や商人たちでにぎわう道の両側に、「丸に井桁三」の暖簾(のれん)をずらりと並べている。言わずと知れた三井グループや三越の前身「三井越後屋」だ。その繁盛ぶりは、江戸三座の芝居小屋や日本橋の魚河岸とともに、「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と1日千両もの売り上げがあるとうたわれたそうだ。

尾張屋版『江戸切絵図』(1850年刊、国会図書館蔵)の「神田浜町日本橋北之図」より、駿河町を中心に北を上にして切り抜いた。ピンク色の線が2005(平成17)年に愛称が付けられた「江戸桜通り」。三井越後屋は北西の本町一丁目で操業し、後に駿河町に移転した
尾張屋版『江戸切絵図』(1850年刊、国会図書館蔵)の「神田浜町日本橋北之図」より、駿河町を中心に北を上にして切り抜いた。ピンク色の線が2005(平成17)年に愛称が付けられた「江戸桜通り」

三井越後屋は1673(延宝元)年、伊勢(三重県東部)松阪の商人・三井高利が、江戸で商売修行をしていた息子らに小さな呉服店を開業させたのが始まり。伊勢の店なのに、なぜ「越後(新潟県)」なのかと思う人もいるだろうが、戦国時代まで三井家は近江(滋賀県北東部)・六角氏に仕えた武士で、高利の祖父は三井越後守高安という。六角氏は織田信長に滅ぼされ、追われた高安が松阪で没した後、三井家は商いを始める。そして高利の代に、祖父の官職名を屋号に用いるようになったという。

当初は駿河町の1本北側の通りで、呉服店が集まる本町(ほんちょう)一丁目に出店。「現金掛け値なし」「店前(たなさき)売り」という新商法を取り入れ、瞬く間に人気店へと成長した。従来の呉服店は、まずは客の注文を聞き、仕立て上げた着物を家まで届け、年に数回集金に行く「掛け売り」が常識であった。その期間の金利「掛け値」を上乗せし、高値で販売していたのだ。店頭の現金払いで商品を渡すのは画期的で、一反単位ではなく必要な分だけ販売する「切り売り」や、すぐに仕立てて渡す「仕立て売り」も始めたことで、せっかちな江戸っ子に大ウケした。

しきたりを壊された同業者からのやっかみもあり、開業10年で駿河町に移転。西隣(絵では奥)は「両替町」で、幕府の命で小判を造る金座もあった。それが影響したかは定かではないが、越後屋は店舗を広げて両替商も始める。当時、上方は銀建ての匁(もんめ)で、江戸は金建ての両と、相場が違う通貨を使用していたため、東西の取引には両替が必要だった。反物を京で仕入れて江戸で売る越後屋にとって、両替商は自らにも有益な上に、現金をわざわざ輸送していた幕府に対しても三井の為替を売り込んだ。その結果、為替御用方として幕府の金融業務を請け負うようになり、ますます繁盛したのだった。

広重作『絵本江戸土産』の5編にある「駿河町」(1854頃刊 国会図書館所蔵)。街並み、富士の位置や大きさなどが、写実的に描かれている。看板を見ると、この時代の越後屋は、右が呉服物品(絹織物)、左が糸物物品(木綿、麻など)と分かれていたようだ
広重作『絵本江戸土産』の5編にある「駿河町」(1854頃刊 国会図書館所蔵)。街並み、富士の位置や大きさなどが、写実的に描かれている。看板を見ると、この時代の越後屋は、右が呉服物品(絹織物)、左が糸物物品(木綿、麻など)と分かれていたようだ

北斎の富嶽(ふがく)三十六景、江戸名所図会でも描かれた駿河町の風景を、広重の時代の江戸っ子で知らぬものはいなかっただろう。『名所江戸百景』と題したからには外せない場所だが、越後屋から宣伝費が出ていたと考える方が自然だろう。

広重も『冨士三十六景』や『東都名所 駿河町之図(佐野喜版)』、『絵本江戸土産 第5篇 駿河町』などでも駿河町を描いているが、いずれも通行人の目線で越後屋の軒を見上げる写実的な構図で、富士の大きさも控えめだ。それが、大胆な構図を売りにする『名所江戸百景』では、駿河町の通りを俯瞰(ふかん)で眺め、上半分を巨大な富士が占めている。日本一の山がドーンとあるため、文字がなくても「日本一の呉服店・三井越後屋」と訴えかけ、広告ポスターとしては秀逸といえる。

江戸桜通りの左右には、三井越後屋の流れをくむ建物が残るが、いずれも関東大震災後に竣工した重厚なビルで、富士山も全く望めない。少しでも俯瞰に撮ろうと、脚立の上で長い一脚を使い、信号機ほどの高さにカメラを構えた。風景の奥に東京スカイツリーで撮った富士山を大きめに置いて、作品に仕上げた。

●関連情報

三井越後屋と三越、江戸桜通り 

現在の三井グループの企業は、銀行に加えて不動産や生命保険、金属、石油化学工業など多岐にわたるが、社章には「丸に井桁三」を引き継いでいる(商社の三井物産などは、丸なしの「井桁三」)。しかし、呉服店・三井越後屋の正統な後継者と思われる三越では、「丸越」の商標を使用する。そのため、現在の江戸桜通りの南側には、江戸時代と違う紋が掲げられているのだ。

江戸時代後期には、幕府による倹約令や不況の影響で、高額な絹織物があまり売れなくなっていた。白木屋や大丸屋、松坂屋といったライバル呉服店でも「現金掛け値なし」を取り入れたため、越後屋の一人勝ちは長くは続かず、「日本一の呉服店」を支えていたのは金融業だったのだ。

ところが、今回の絵が描かれた5年ほど後に、三井越後屋は幕府から多額の御用金を拠出させられたことで、肝心の金融業も傾いてしまう。その時、勘定奉行に減額交渉し、窮状から救ったのが三野村利左衛門である。小さな両替店を営んでいた利左衛門は、三井に入ると大番頭に抜てきされ、明治維新後は新政府との関係を深めた。大蔵省・渋沢栄一の呼び掛けに応えて、日本初の銀行・第一国立銀行に出資した後、三井財閥の中枢となる三井銀行を設立している。

その際に政府からの提案もあり、業績悪化が続いていた呉服業を三井家から切り離し、新たに興した三越家に譲渡。駿河町の北側は三井組の主力である金融業、南側は三越家経営の呉服店へと棲み分け、三越家の店標は「丸越」紋に改めたのだ。洋装への変換期に三越の経営はさらに傾き、一時は三井家の事業に戻ったが、明治後半に持ち直して百貨店化を進める。1914(大正3)年には、現在の日本橋三越本店へとつながる鉄筋5階建てで、エレベーターと暖房を完備する三越呉服店の本店が誕生した。

現在の江戸桜通りは、中央通りを挟んだ反対側に三井不動産グループが運営する「コレド室町」の高層ビルが3棟連なり、飲食店も並ぶ人気エリア。広重の絵や三井越後屋の歴史を思い浮かべながら散策すれば、違った風景に見えてくるだろう。

3月のコレド室町側の江戸桜通りは、桜色の飾り付けが施されていた
3月のコレド室町側の江戸桜通りは、桜色の飾り付けが施されていた

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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