『日暮里諏訪の台』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第109回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』の目録では第15景となる「日暮里諏訪の台(にっぽりすわのだい)」。桜咲く崖の上から、田園風景の奥に筑波山と日光連山を望む春の1枚である。

ひぐらしの里から、北東に広がる田園風景を望む

本作は前回の『日暮里寺院の林泉』と同じ、現在のJR「日暮里」駅と「西日暮里」駅間の西側に続く、尾根状の台地が舞台である。広重が2つの絵を描いた場所は、ほんの150メートルしか離れていない。今ではピンとくる人も少ないだろうが、江戸時代の日暮里は、2枚連続で『名所江戸百景』に登場するほど人気の高い行楽地だった。

『日暮里寺院の林泉』は、日暮里の字の由来となった「ひぐらしの里」が舞台で、台地の西斜面の下から、「花見寺」と総称された3つの寺の庭園を描いた。本作は台地の上の平地「諏訪の台」から、北東方向を俯瞰で見下ろしている。遠景の右に筑波山、左に日光連山が望める絶好のビューポイントだ。

『弘化改正御江戸大絵図』(1847年刊、国会図書館蔵)より。左は上野不忍池から田端駅付近までを切り抜いた。赤い破線が高台で、緑の四角はJR山手線の駅。右図ピンクの点線は諏訪の台と呼ばれた場所。「スワ明神 浄光ジ」の左の道が現在の「諏訪の台通り」
『弘化改正御江戸大絵図』(1847年刊、国会図書館蔵)より。左は上野不忍池から田端駅付近までを切り抜いた。赤い破線が高台で、緑の四角はJR山手線の駅。右図ピンクの点線は諏訪の台と呼ばれた場所。「スワ明神 浄光ジ」の左の道が現在の「諏訪台通り」

諏訪の台という名は、1205(元久2)年創建の「諏訪明神社」(現・諏方神社、西日暮里3丁目)に由来する。鎌倉殿の御家人として武蔵国豊島郡を治めた豊島(としま)氏が、信州(長野県)の諏訪大社から勧請したと伝わっている。尾根状の台地は天然の要害なので、当時「関より東(関東)の軍神」とたたえられていた諏訪明神を祀(まつ)ったのだろう。

15世紀半ばには、江戸城を築いた太田道灌も諏訪明神社に社地を寄進し、台地に出城を築いた。道灌に仕えた新堀玄蕃が、後に日暮里となる「新堀村(にいほりむら、にっぽりむら)」の由来という説があるので、諏訪の台の地名の方がより古いとも考えられる。

天下泰平の江戸時代になると、高台の軍事的な必要性は薄れていく。明暦の大火(1657年)後に多くの寺院が移転してきたことで、風流人が好む自然豊かな土地となった。18世紀半ばからは桜の木が数多く移植され、花見の名所として江戸っ子の人気を博した。

広重は諏訪明神社を管理する南隣の別当寺・浄光寺付近から、北東方向を望む。花見客が登ってくる切り通しの道は、今も残る地蔵坂で、崖下には「下日暮里」と呼ばれた新堀村の農家と満開の桜が並んでいる。その向こうには、三河島から尾久にかけての田園地帯が横たわり、地平線には筑波山と日光連山のシルエットが浮かぶ。

『江戸名所図会』4巻「日暮里惣図」(1836年刊、国会図書館蔵)は7ページにわたる大パノラマ。4〜5ページの上部に諏訪明神社の境内が広がる。諏訪明神社の短冊部分を紫色、浄光寺を水色で塗った。緑の「六地蔵」の左上に、地蔵坂がある
『江戸名所図会』4巻「日暮里惣図」(1836年刊、国会図書館蔵)は7ページにわたる大パノラマ。諏訪明神社(紫色)と浄光寺(水色)の境内を中心に切り抜いた。緑の「六地蔵」の左上に、地蔵坂がある

大谷石の擁壁に変わっているが、往時の面影を残す地蔵坂。現在は、登り切ったところに鳥居と、イチョウの御神木が立つ
大谷石の擁壁に変わっているが、往時の面影を残す地蔵坂。現在は、登り切ったところに鳥居と、イチョウの御神木が立つ

明神境内の茶屋が、崖の近くに床几(しょうぎ)を出しているので、眺望が売りだったことがよく分かる。春の陽気に誘われて集まった花見客は、会話を楽しんだり、景色を眺めたりして楽しげで、まさに天下泰平を感じさせる秀作だ。中央にそびえ立つ2本の杉も、絵全体を引き締めている。

諏訪明神社は「諏方神社」と名を改めたが、地蔵坂と共に今も同じ場所に残っている。ただ、境内の雰囲気はだいぶ違う。地蔵坂にカメラを向けると、桜も杉もフレームに入らない。作品にするのは難しいと思い、近くを散策すると、西日暮里公園に咲く立派な桜に出会った。「道灌山公園」とも呼ばれるこの公園には、展望デッキが設置してある。このデッキを茶屋の床几に見立て、桜をファインダーに収めると、遠くの山は望めないものの、柔らかい日差しの中に広重の絵の雰囲気が浮かび上がって来た。

関連情報

諏方神社、浄光寺、西日暮里公園と道灌山

日暮里の台地は、東側が海、西側が川によって侵食され、現在の地形になったという。

江戸時代、諏訪の台の北には道灌山が続いていたが、今回の写真を撮影した西日暮里公園は、その手前にあった青雲寺内の境内だった。青雲寺は花見寺の一つで、庭園の最も高い場所には銘木として知られた「道灌船繋松(どうかんふなつなぎのまつ)」が枝を広げていた。そのため、後に西日暮里公園も、道灌山と呼ばれるようになったのだろう。

道灌船繋松と聞いて、江戸っ子も「こんな高台に船をつなぐ?」と首をかしげたかもしれない。海が崖下まで入り込んでいた時代、船の荷おろし場が設けられており、そこへ向かう際、船頭がこの松を目印にしたのが由来という。

諏訪明神社を管理していた浄光寺は、「東都六地蔵」(「始めの六地蔵」とも呼ぶ)の一つ「銅造地蔵菩薩立像」があることで知られた。今回の絵に登場する地蔵坂は、浄光寺の地蔵堂へ参詣するのに利用したのが由来だ。江戸名所図会には、崖上の書院からの眺望は、眼下に田園風景が広がって素晴らしいとの記載がある。特に雪景色が優れていたため、風流人らは「雪見寺」と呼んだそうだ。

浄光寺地蔵堂に納められていた、高さ1丈(約3m)の「銅造地蔵菩薩立像」。1691(元禄4)年に開眼された東都六地蔵の3番にあたるが、現在の像は1813(文化10)年に改鋳したものだという
浄光寺地蔵堂に納められていた、高さ1丈(約3m)の「銅造地蔵菩薩立像」。1691(元禄4)年に開眼された東都六地蔵の3番にあたるが、現在の像は1813(文化10)年に改鋳したものだという

諏訪明神社は明治の神仏分離政策により独立し、「諏訪」ではなく「諏方神社」となった。信州・諏訪大社も古くは「諏方」と書いたと伝わり、神社所有の元禄時代の掛け軸にも「諏方」とあることから、字を改めたという。

現在、高台の東側には船が浮かぶのではなく、JR山手線や京浜東北線、新幹線などが走っている。田園地帯や筑波山を眺めることはできないが、鉄道ファンにとっては絶好のビューポイントになっているそうだ。桜が咲いたら足を運び、線路を見下ろしながら、昔は船が行き交っていたと想像してみるのも一興だろう。

現在の諏方神社境内にも、立派な杉や桜の木が残る
諏方神社境内には、現在も立派な桜の木が残る

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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