ニッポンの酒

灘の酒【樽酒編】:江戸っ子を魅了した「下り酒」の味と伝統を守る

近年、祝いの席での鏡開きなどでしか目にしなくなった酒樽。樽は単なる容器ではなく、日本酒に爽やかな香りをまとわせる。江戸で飲まれる酒の約8割を供給した灘五郷で、その歴史や製造方法、特徴について聞いた。

神戸のベイエリアにそびえ立つ「神戸ポートタワー」の展望台は5階層で、真ん中の「展望3階」は床が20分で360度回転する名物フロアだ。

足を踏み入れると、ガラス張りの外周には木製のテーブルといす、内側には木材をふんだんに使用した壁とカウンター。2019年6月に開店した「SAKE TARU LOUNGE」で、「灘五郷の清酒」が味わえるアンテナショップ的存在だ。

神戸のランドマーク「神戸ポートタワー」。鼓型の上部が展望フロアになっている
神戸のランドマーク「神戸ポートタワー」。鼓型の上部が展望フロアになっている

神戸屈指の観光施設内で、灘五郷が体感できるサケタルラウンジ
神戸屈指の観光施設内で、灘五郷が体感できるSAKE TARU LOUNGE

うまい酒が生まれる条件を一望

清酒の生産・販売量で日本一を独走する兵庫県で、そのほとんどを造り出すのが東神戸から西宮市までの海岸沿いの地域「灘五郷」。江戸時代、上方(関西)の灘から江戸の町へと大量の樽酒(たるざけ)を下らせて繁栄し、今でも酒どころ日本一の座を保持している。

SAKE TARU LOUNGEは店名の通り、実際に日本酒が詰められていた「酒樽」の木材をいすや壁に再利用。兵庫県内でしか飲めない酒を含め、灘五郷の全蔵の清酒がそろい、甘酒やつまみも地のものにこだわっている。窓際に腰掛け、約20分間日本酒に酔いしれれば、灘の酒蔵への興味が湧いてくるだろう。360度の景色から、うまい酒を造り、発展してきた理由がうかがい知れるからだ。

灘の酒蔵で作られた甘酒(左上)は500円。日本酒は700円からで、写真右上の菊正宗「百黙(ひゃくもく)」は兵庫県内限定販売の逸品
灘の酒蔵で作られた甘酒(左上)は500円。日本酒は700円からで、写真右上の清酒「百黙(ひゃくもく)」は菊正宗が130年ぶりに出した新ブランド

北側には、酒造りに適したミネラル豊富な「水」と、蒸し米を短時間で冷ましてくれた「風(六甲おろし)」を生み出す六甲山系が見渡せる。その山向こうからは、秋になると「米(山田錦とその祖先)」と共に、古くは丹波(兵庫県東部)の杜氏(とうじ)がやって来た。南側には、江戸へと大量の樽酒を送り出した「海」が広がる。そうした好条件に、灘五郷は恵まれているのだ。

腰掛けるいすのスギ材にも意味がある。酒樽は単なる輸送用の容器ではない。スギには殺菌作用があると同時に、江戸に船で着くまでの約10日間で酒に爽やかな香りも添えたという。

関連記事>灘の酒【歴史・風土編】:日本酒生産量トップを独走する兵庫が誇る酒どころ

SAKE TARU LOUNGEから神戸の海を見下ろす
SAKE TARU LOUNGEから神戸の海を見下ろす

北側には、神戸の市街地の背後に六甲山系が連なる
北側には、神戸の市街地の背後に六甲山系が連なる

SAKE TARU LOUNGE

  • 住所:兵庫県神戸市中央区波止場町5-5 神戸ポートタワー展望3階「回転フロア」
  • 営業時間:月~土曜日=午後1時~午前0時、日曜・祭日=午後1時~9時 ※ラストオーダーは30分前

樽職人の技を守り、下り酒の魅力を伝える

灘五郷の一つ・御影郷(神戸市東灘区)には、樽に特化した展示を行う「菊正宗 樽酒マイスターファクトリー」がある。

樽酒マイスターファクトリーのエントランス
樽酒マイスターファクトリーのエントランス

菊正宗酒造記念館の後藤守館長
菊正宗酒造記念館の後藤守館長

「灘五郷は、江戸への“下り酒”によって発展しました。樽詰めの酒は、江戸へ着くまでの10日から2週間ほどで、スギの爽やかな香りをまといます。その味が、江戸っ子たちに愛されたのです」

菊正宗酒造記念館の後藤守館長は言う。1659年創業の菊正宗は、下り酒で繁栄した灘の酒蔵の代表的存在で、現在も辛口の酒で全国的に知られる清酒メーカー。その歴史や酒造りへのこだわりを伝える菊正宗酒造記念館の目の前に、2017年にオープンしたのが樽酒マイスターファクトリーである。

広々としたファクトリー内部。右奥が、実際に職人らが作業する工房
広々としたファクトリー内部。右奥が、実際に職人らが作業する工房

樽の製作工程が分かりやすく展示される
樽の製作工程が分かりやすく展示される

江戸時代の酒屋は、樽から「通い徳利」に注いで販売していた。明治以降、そのまま消費者に販売できる酒瓶が普及。近年はパック酒も一般的になり、樽の需要は一気に減った。樽酒を目にするのは、祝いの席での鏡開きや神社への奉納などでごくわずかな機会。樽職人も減り、技の伝承が難しくなっている。

「爽やかな香りを持つ樽酒は、灘を発展させた味で、今飲んでも特別なものです。特に脂っぽい料理などに合い、口の中をさっぱりとしてくれます。現在も、菊正宗の『樽酒シリーズ』は人気商品。そのため、職人の技を守り、樽酒の素晴らしさを伝える必要があると考え、樽酒マイスターファクトリーを始めたのです」(後藤館長)

菊正宗の樽酒シリーズ「純米樽酒」。実際に酒樽に貯蔵され、スギの香りをまとう
菊正宗の樽酒シリーズ「純米樽酒」。実際に酒樽に貯蔵され、スギの香りをまとう

くぎを一切使わず、酒樽を組み上げる

マイスターファクトリーの工房内では、日々職人らが働いている。樽酒シリーズは、ここで作られたスギの樽に10日間ほど貯蔵してから瓶詰めする。スギの風味を加えるだけなら、木片でかき混ぜるなど、樽まで作る必要はないように思われるが、香りを添加する工程を増やすと、酒税法によって清酒ではなくリキュール扱いになってしまう。そのため、現在も貯蔵時に酒樽から自然に香りをうつしているのだ。

樽には、酒を変質させる可能性があるくぎや接着剤などは一切使わない。仮枠を使って、短冊状の板「榑(くれ)」と底辺が狭くなっている台形の板「矢」を並べ、円筒状にする。それを固定するため、竹を組んで作った7本の「箍(たが)」をしっかりと巻いてから、凹凸部分を削って整えていく。仕上げに底とふたを取り付けて完成となる。

箍を結う作業はまるで踊っているよう。実演してくれたのは、職人見習の荒井千佳さん。未来のマイスターだ
箍を結う作業はまるで踊っているよう。実演してくれたのは、職人見習の荒井千佳さん。未来のマイスターだ

鏡開きで使われる四斗樽は、一升瓶40本分で72リットルも入る大きさだ。「箍が緩み」「外れる」とバラバラに崩れ、多大な損失を生む。「規律や束縛がはずれ、しまりがない」さまを、「箍が緩んだ」「箍が外れた」というが、語源は酒樽や桶から来ているそうだ。箍が緩むことのない樽を組み上げる一人前の職人になるには、30年近くかかるともいわれる。それだけ貴重な人材なのだ。

左から加工前の底面、ふた、榑、箍
左から加工前の底面、ふた、榑と矢、箍

榑を選んで並べる作業はパズルのようで、素人だと1時間以上かかることも
榑と矢を選んで並べる作業はパズルのようで、素人だと1時間以上かかることも

化粧した樽酒は、輸送時に保護した名残

樽の材料も厳選し、辛口の灘の酒と香りが合う奈良・吉野産のスギの淡い紅色部分を使用する。アクが少ないため酒の色に変化が起きず、節(ふし)も少なく、年輪の幅が狭く均一なので酒が漏れづらい。酒樽での貯蔵期間は、灘から江戸までの海運で掛かったのと同じ10日程度。寝かせれば良い訳ではなく、「あまり長く酒樽に入れておくと、スギのエグミが出てしまう」(後藤館長)そうだ。

そのため、酒樽は使い回しが利かず、1回のみの使用で廃品となってしまう。「高級な吉野産のスギを無駄遣いだ」という声もあるが、建材や家具で好まれるのは木の外側の白い部分で、酒樽に向くのは芯に近い淡紅色の部分。使い分けができていて、ある意味、余材の有効利用になっている。

ファクトリーからは、スギの香を付ける貯蔵中の樽酒を見ることができる
ファクトリーからは、スギの香を付ける貯蔵中の樽酒を見ることができる

鏡開きなどで使用する銘柄商標があしらわれ、綱を結んで飾り付けた酒樽を「菰樽(こもだる)」「本荷樽(ほんにだる)」と呼ぶ。船の揺れでぶつかり合い、樽が割れないようにわらを編んだ「菰」で包んで保護したのが始まりで、次第に化粧が施されるようになったという。

「不思議なことに、樽酒シリーズは関西よりも関東、特に東京で圧倒的に人気が高いのです。下り酒を好んだ江戸っ子のDNAが残っているのでしょうか(笑)」(後藤館長)

菊正宗酒造記念館の門と入り口には、本荷樽が飾られている
菊正宗酒造記念館の門と入り口には、本荷樽が飾られている

樽酒マイスターファクトリー

  • 住所:兵庫県神戸市東灘区魚崎西町1-8 ※見学会の集合は菊正宗酒造記念館(魚崎西町1-9-1)
  • 開催日:菊正宗酒造記念館の休館日(12月30日~1月4日)を除く毎日開催 ※都合により見学会のない日があるため、予約サイトで確認
  • 見学時間:午前10時30分、午後2時、3時からの1日3回。所要時間は30分
  • 料金:無料
  • 参加方法:WEBサイトでの予約制(定員は各回20名の先着順)
  • 予約サイト:https://www4.revn.jp/kikumasamune_reserve/
  • アクセス:阪神「魚崎」駅から徒歩10分。神戸新交通・六甲ライナー「南魚崎」駅から徒歩2分

取材協力=神戸観光局
取材・文・写真=ニッポンドットコム編集部

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