【Photos】巌窟(がんくつ)ホテル高壮館:21年間、ノミとツルハシで岩壁を掘り続けた男の執念

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「巌窟ホテル高壮館」は、農家の高橋峯吉が掘り始めた人工洞窟。1日で掘れるのは約30センチ。切り立った岩肌を亡くなるまでノミとツルハシで掘り続けた。細部に至まで丁寧に作り込みが施され、「建築」というより「彫刻」と呼ぶ方がふさわしい。崩壊が進み、約40年前に撮影された写真でしか、その全貌を知ることはできない。

「巌窟ホテル(埼玉県比企郡吉見町)」と通称されるこの建築は、ホテルとしての機能を備えているわけではない。作者の高橋峯吉(たかはし・みねきち)もホテルを造ろうとしたわけではなく、彼自身は「高壮館」と名付けていた。あくまで通称で、峯吉が無心に作業する姿を見た近隣の人々が「巌窟掘ってる」と言ったのがなまり、「巌窟ホテル」と呼ばれるようになったと言われている。

巌窟ホテル高壮館の外観。1978年撮影(以下同じ)
巌窟ホテル高壮館の外観。1978年撮影(以下同じ)

1階入り口を入ってすぐの中央玄関
1階入り口を入ってすぐの中央玄関

中央玄関を抜けると、中央大広間アーチ部分の装飾が見える
中央玄関を抜けると、中央大広間アーチ部分の装飾が見える

中央大広間の天井
中央大広間の天井

中央階段から見た中央玄関
中央階段から見た中央玄関

1日に30センチ掘り進む作業を毎日、21年間継続

丘陵の斜面を掘って洞窟建築を作るという着想を彼はどこから得たのだろうか。高橋家からの取材や、わずかに残された資料から2つの可能性を考えることができる。

1つは、「巌窟ホテル高壮館」から数百メートルの場所に古墳時代後期の遺跡「吉見百穴」があること。これは現在では横穴墳墓跡ということになっているが、以前はオーストリアの外交官・考古学者であるヘンリー・シーボルトなどにより原始住居跡ではないかと言われていた。そんな影響から丘陵の斜面に穴を掘り、そこを住居にしようと考えたのではないか、という説。

もう1つは彼の少年時代の経験から、年間を通じて気温の安定している岩穴の中は、物の保存などに適した快適な場所である、と考えるに至ったという説。しかし、これらは契機になることはあっても、峯吉が3代150年をかけて造るのだと語った壮大な構想の動機としては不十分なのではないか。もっと彼自身を内部から突き動かした何かがあるに違いない。

峯吉は1858(安政5)年、安政の大獄の年に生まれ、江戸から明治へという激動の時代に幼・少年期を過ごす。一方、エジソンによる白熱電灯の発明(1879年)や、フィラデルフィア万国博(1876年)に出品された電話機など西欧の進んだ文明にも触発され、進取の気風に富んだ彼は新しい時代の到来を予感していたとも考えられる。峯吉についての資料の1つ、高壮館発行の「巌窟ホテルのしおり」によれば、<教育は、寺子屋で初歩の漢字を習ったにすぎなかったが、建築学や物理学に、あるいは鉱物学に哲学に談論風発たるものがありました>と記されている。高壮館は建設時から公開されて話題になり、明治から大正、昭和にかけて観光名所となり、多くの見物人が訪れた。

高橋峯吉(左)と息子の泰次
高橋峯吉(左)と息子の泰次

1904(明治37)年6月に峯吉は起工式を行い、同年9月25日から掘削を始めた。46歳からのスタートである。諸説あるが、当初、彼が語ったとされる「巌窟ホテル高壮館」の計画は、間口30間(約54.6メートル)、3階建てで、竣工(しゅんこう)までに3代150年を要するという壮大なものだった。この計画をもとに、畳1枚の面積(約1.65平方メートル)を30センチ掘り進むのに1日かかるという作業が21年間、彼が死を迎える1925(大正14)年まで続いた。

その後は高橋家に養子として迎えられた2代目泰次(たいじ)が、この作業を引き継ぎ掘り進めた。第2次世界大戦で作業は中断したが、戦後に再開。1965年以後は保守・管理が中心となり、これに多大な時間を費やしたが、彼もまた1987年1月に他界した。

設計図通りの掘削を不可能にした岩質や湧き水

峯吉の手によるファサード(建築を正面から見た外観)のオリジナルスケッチから推定すると、間口12間(約21.8メートル)の3階建て(約13.5メートル)となっている。偶然なのか意図的なのか、建築の幅と高さのバランスが黄金比に近い。しかし、岩肌に描かれていたファサードは間口が11間(約20メートル)の2階建てであり、3階部分はほとんど手付かずの状態で一部の窓だけが外部から刻まれた痕跡をとどめている。

オリジナルスケッチによるとファサードは、シンメトリー(左右対称)、3層構成といった西洋様式建築の基本にのっとっている。そのようなファサードの構成から想像すると、内部も中央大広間を中心にシンメトリーの空間を構想していたのではないか。中央大広間の左側に科学実験室が配されたのであれば、右側にもそれに対応する空間が構想されていても不思議ではない。

峯吉によるオリジナルスケッチ(ファサード)
峯吉によるオリジナルスケッチ(ファサード)

しかし内部空間を実測してみると、シンメトリーに近い構造にはなっていない。その理由は、掘り進んだのが硬軟部の入り交じる凝灰岩(堆積岩の一種)であり、ノミやツルハシを使った人力の作業では計画通りに掘り進むのが難しかったためだ。また湧き水などもあって、今日見られるような不整形なものにならざるを得なかったのだろう。

作業に使った道具類
作業に使った道具類

「巌窟ホテル高壮館」の特徴は、何と言っても岩を掘り抜いて造られたところにある。全てが掘り抜かれ、刻み込まれている。1階の外部に面した建具と2階バルコニーの手すり以外、後から付け加えたものは一切ない。部屋の床・壁・天井や家具、調度品なども全て凝灰岩でできている。

中央大広間
中央大広間

奥から中央大広間を見る
奥から中央大広間を見る

科学実験室
科学実験室

科学実験室奥から入り口を見る
科学実験室奥から入り口を見る

科学実験室の内部
科学実験室の内部

実験台
実験台

科学実験室内の研究台と棚
科学実験室内の研究台と棚

新しい時代の科学精神を具現化

建築が「用の美」をもって他の芸術と異なるのをその特徴とするならば、移動できず、材質的にも使用に適さない実験台や花瓶、棚や研究台、上の階を支えている訳ではない柱や梁(はり)などは、どのように理解できるのだろうか。この建築の謎を解くカギは、このあたりにあるような気がする。また幾つかの資料から、峯吉は「人工名所」とすべく「巌窟ホテル高壮館」を構想し、当初から見せるモノとして計画していたことも明らかである。

想像でしかないのだが、峯吉の目的は彼の憧れる「新時代の精神や生活の様式」を表現することだったのではないか。理想としての西洋、新しい時代を開くと思われる科学、美や正義や合理性を、西洋建築風の3層構成のファサード、シンメトリーな構成、黄金比、厳密なスケール、ヴォールト天井(アーチを平行に押し出した形状の天井様式)を持つ中央大広間、科学実験室や電話室などといった新時代の室内空間を、知り得た建築的言語(建築的要素)をちりばめて目の前に現出させ、当時の人々に見てもらうこと。それが峯吉の生涯を通じての夢だったとは言えないか。

1階の奥の通路
1階の奥の通路

1階への階段
1階への階段

2階への階段
2階への階段

2階通路から窓を見る
2階通路から窓を見る

1階・階段脇の通路
1階・階段脇の通路

2階通路からバルコニーを見る
2階通路からバルコニーを見る

崩壊しつつある夢の建築

「巌窟ホテル高壮館」と同様、建築を専門としない1人の男が構想し自らの手で創出した建築は、いまだ世に知られていないものを含め世界各地に数多くあると思われる。フェルディナン・シュヴァル(1836〜1924)が南仏リヨン近くの小村オートリーヴに建設した「シュヴァルの理想宮」は、2018年に映画化、日本でも公開された。またサイモン・ロディア(1879〜1965)による、ロサンゼルスの「ワッツタワー」は現在ではワッツ地区の観光名所の1つとなっている。これらは国指定の歴史的建造物に認定され、多くの人々の知るところとなった。一方、日本に目を向ければ、三宅栄(1897〜?)が千葉県安房郡三芳村(現・南房総市)に建てた「三宅栄 発明研究所」が有名だが、1987年9月に惜しくも解体された。

「巌窟ホテル高壮館」は、完成を待たずに崩壊しようとしている。1982年の台風で崖の一部が崩れ落ち、1985年6月にはファサードのほとんどが岩の剥離により削り取られてしまった。その後も、内外壁面の侵食が進み、現在では峯吉の意図した「高壮館」は、1978年に新井英範が撮影した写真でしかその全貌を知ることはできない。

鉄の扉で固く閉ざされた「巌窟ホテル高壮館」は時の流れによって徐々に崩落しつつあり、峯吉の夢は岩の中に封じ込められたまま消えうせようとしている。

草木に覆われた現在の巌窟ホテル高壮館。2022年撮影
草木に覆われた現在の巌窟ホテル高壮館。2022年撮影

写真=新井 英範
文=唐崎 哲志
バナー写真=巌窟ホテル高壮館の中央玄関

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