3.11後の日本

災害・敗戦経済学が導く復興シナリオ

経済・ビジネス

大震災と名付けられた地震被害は過去に2度ある。1923年の関東大震災、1995年の阪神・淡路大震災……いずれも壊滅的な被害を受けながら日本経済は見事に復興を果たしてきた。3度目となる東日本大震災、過去から学べることは何か。

はじめに日本の素晴らしい場所を教えよう。今から約1200年前の平安初期に興った密教は山岳に神性を求めた。だからその寺院は人里離れた深い山の中にある。密教寺院の探訪は、ヨーロッパのロマネスクの教会の探訪と同じように山巡りである。

密教の寺院の中でもっとも美しいのが、奈良から南に大きく下った宇陀山系にある室生寺だ。近鉄大阪線「室生口大野」駅から2時間ほど山道を歩くと、突然視界が開けて全山を境内にした室生寺がはるかに望める。この眺めを目にする感動のためにこんな奥深い山中に寺が造られたのかと思えてくるほどの絶景だ。室生寺には日本の国宝に選ばれた釈迦如来像がある。奈良時代の仏像は漆を重ね合わせて作られていたのだが、この仏像は一本の木を削って作られている。優雅さ、大きさ、威厳、どれをとっても第一級の美術品である。木目の刻みの鮮やかさ、重心がどっしり下に座った重厚感。

奈良県の山中にある室生寺。美しい五重の塔で知られる。1998年、台風により損傷を被ったものの2000年に修復された。
奈良県の山中にある室生寺。美しい五重の塔で知られる。1998年、台風により損傷を被ったものの2000年に修復された。

貞観の大津波

東日本大震災についての文章を書くつもりで、思わずその釈迦如来像を思い浮かべてしまった。その仏像が作られた時代の年号が「貞観」だったと思い出したからだ。「貞観」、大震災発生後、新聞にこの年号が載ることが多くなった。1200年前のこの時代に、今回の東日本大震災の震源地である三陸沖で、少なくともマグニチュード8.3という今回に近い大きな地震が発生し、それが巨大津波を生んだのだ。この事実が発見されたのは1990年のことだった。6月22日の朝日新聞の夕刊は発見の事情と、その発見の影響とを語っていて面白いので引用する。

「『原や野や道はすべて青海原となり……溺死(できし)者は千人……』

日本三代実録にこう記され、今回の津波との関連で注目される貞観津波(869年)の痕跡が、地質学的な調査で初めて確認されたのは1990年のことだ。仙台平野は内陸3~4キロまで浸水、実録の記述もほぼ事実らしいとわかった。論文を発表したのは宮城県女川町にある東北電力女川原子力発電所建設所のチームである。その一人、千釜章(ちがまあきら)企画部副部長によれば、女川原発2号機の設置許可申請のための調査の一環だった。

1970年、同1号機の申請の際は歴史的な文献の調査により、想定される津波の高さは3メートルとした。その後、古地震の調査技術が進んできたので、掘削して貞観津波の痕跡を探すなどの調査や研究を行った、という。その結果、想定される津波の高さは9.1メートルになった。1号機建設の時から3メートルの想定に対し、『総合的な判断』で敷地を14.8メートルの高さに造っておいたことが今年、効果を発揮した。女川原発は今回の地震で地盤が1メートル沈下、そこへ13メートルの津波が来た。80センチの差で、直撃を免れたのだ。」

大津波と同時に東京電力の福島第一原子力発電所で発生した事故は、ついに史上最悪のチェルノブイリ原発事故と肩を並べるほどの惨事に発展したが、上の記事は東京電力の安全設計に何が欠けていたかを語る。東北電力のように、考古学調査まで綿密に行って、地震・津波について最悪のシナリオを想定し、備えをしていたなら、今回の大事故は避けられたかもしれないのだ。

女川原子力発電所は80センチの差で津波の直撃から逃れた。
女川原子力発電所は80センチの差で津波の直撃から逃れた。

「想定」の仕方が問題

今回の震災を機に「想定外」という言葉が流行語になった。事故の責任者がこの言葉を言い訳に頻用したためだが、そもそも「想定」の仕方が問題なのだ。2007年の国のレポートによると、日本の国土は地球の全地表面積の0.25%に過ぎないのに、過去10年間に地球上で起こったマグニチュード6以上の地震の21%が日本で発生している。地震の可能性は誰にも分かる。問題は地震の規模だ。その予想のためには東北電力のように時代を遡った作業が必要だったのである。


3月11日、想定を上回る津波が防波堤を越え、福島第一原子力発電所に近づいてくる。(写真=東京電力)

どれだけ遡るべきなのか。一つの例を挙げよう。今から約64万年前、アメリカの現在のイエローストーン国立公園にあたる場所にあった火山が大噴火を起こした。それで近年最大のセント・ヘレンズ火山噴火の約1000倍の噴煙がまき散らされたという。地質学者は同じような噴火が現在も起こり得ると考えている。そんな噴火が起こった場合、北米大陸の半分は高さ1メートルの瓦礫と火山灰で埋めつくされるというのだ。経済予測の場合、経済構造がどんどん変化するので100年前のデータはあまり役立たない。しかし自然現象の予測の場合には100年どころか、100万年前の情報も貴重だ。

それにしても貞観時代には地震・津波以外にも、疫病の流行があり、富士山の大噴火もあった。まことに災いに満ちた時代だったのだが、この時に密教文化が花を咲かせ、あの崇高なまでに美しい室生寺の釈迦如来像が作られた。日本人とは面白い国民だ。

クローデルが見た関東大震災

「その大災害が起こったのは、正午の数分前であった。その時間を勘違いすることなどあり得ない。なぜなら、振動が始まってから数分が経過し、一体このだんだんに激しくなっていく揺れが、いつになったら止むのだろうかと訝り始めた頃に、正午を知らせる大砲が、周囲で起こっている騒乱に煩わされることもなく、あたかも『最後の審判』のラッパのように轟音を響かせたからである。」

1923年9月1日の関東大震災の発生を、フランスの偉大な劇作家で当時駐日フランス大使であったポール・クローデルは外交書簡にこう書き記している。関東大震災の死者数10万人以上、その9割が火災によるものだった。今回の東日本大震災の死者数が約2万人の5倍に当たるが、死者数がこれほど増えたのは、人口が多い、東京、横浜が被災地となったことと、木造の住宅が密集している当時の街の構造ゆえに、火災による犠牲者が拡大したためだ。当時、横浜にあった外国人の居留地は火災による被害が特にひどかったが、救援に向かった横浜で過ごした一夜の情景をクローデルはこう描写する。

「我々はその夜を線路脇の土手の上で多くの避難民とともに過ごした。一方の側には「最後の審判」を思わせる横浜の惨状が広がり、またもう一方の側には、東京を包んでいる火災が巻き起こす、赤く、巨大な噴煙が盛り上がっていた。その両側に挟まれた海の上に、透き通って、神々しいばかりに静謐な月が浮かんでいる。我々の下にある大地は振動をやめず、ほとんど一時間ごとに激震を起こすので、連結された鉄道車両が線路を外れようとして軋み、とてつもない騒音を響かせた。」

関東大震災は被害者の数が多かったということの他に、もう一つの大きな問題を生んだ。主要銀行は東京に支店や本店を持っており、また横浜には当時の外貨建て取引を一手に管理していた横浜正金銀行がある。そうした銀行が大きな被害を受け、紙幣、株券や貸借の記録が焼尽に帰したのである。当然、期日の迫った手形が落とせなくなったり、債務の支払いができなくなったりといった被害が発生する。

関東大震災直後の銀座。マグニチュード7.9の地震により、被害は神奈川県を中心に茨城県から静岡県まで及び、死者不明者10万5000人余と日本災害史上最大級の被害となった。(写真=時事)
関東大震災直後の銀座。マグニチュード7.9の地震により、被害は神奈川県を中心に茨城県から静岡県まで及び、死者不明者10万5000人余と日本災害史上最大級の被害となった。(写真=時事)

1927年金本位体制復帰の理由


大正・昭和期の財政家、政治家(1869-1932)。1919年に日本銀行総裁に就任。1923年に山本権兵衛内閣の蔵相となり、翌年貴族院議員に勅選。1927年、高橋是清蔵相の下で再び日銀総裁となる。1929年、浜口雄幸内閣の蔵相となり、金解禁を実施。1931年に辞任後、血盟団事件で暗殺された。(写真=国会図書館)

しかし当時の大蔵大臣井上準之助は危機管理の専門家であった。ただちに金融の貸借についてモラトリアムを発令するとともに、その後は信用の怪しい手形だろうと、日銀に思い切った割引をさせ、流動性をまき散らすことで金融危機の発生を未然に防いだのである。この時の井上による「流動性管理政策」については、日銀にあまりに見境のない貸出を実行させたために、本来は破綻すべき企業が生きながらえ、1927年の金融危機の下地を作ったという批判もある。

震災後の金融についてはもう一つ特筆すべきことがある。震災直後は、今回の東日本大震災の場合と同じように、世界各国からの救援金が来て、それで助けられたものの、やがて本格的な復興を図る段階になると、救援金だけでは足らず、ニューヨークやロンドンなど国際的マーケットでの起債が必要になったということである。これをきっかけに日本の対外債務は次第に拡大し、JPモルガン銀行など外国資本家は日本が金本位制に復帰しない限り、さらなる貸出を渋る態度を示した。1930年という大恐慌の最中に、民政党浜口雄幸内閣の大蔵大臣として、井上が無謀とも言える金本位制への復帰を強行したのはこれが原因である。

震災直後の外国からの救援についてクローデルが面白い観察を書き記している。

「新聞によれば、アメリカからの義援金の額はすでに4000万ドルを超えたということである。それだけに、被災地に艦船を到着させたのも、また救援隊を上陸させたのもアメリカ艦船が最初であり、時にそれは日本政府の派遣した救援隊よりも先に現地に到着した。東京湾には、多数のアメリカの駆逐艦や哨戒艇が航行し、首都の道路にはいたるところ「USA」のマークをつけた救急車やトラックが走り回っていた。帝国ホテルは、ワイシャツの袖をまくった陽気な救世主たちで一杯となり、それは、あたかも第1次大戦が終わった1918年から1919年頃のパリの情景を思わせた。」

この22年後の夏に東京において同じような情景が繰り返されるというのは誠に皮肉である。しかも今度は、アメリカ兵は救援者としてではなく、占領者として日本に進出するのだ(今回の東日本震災においても、「友達作戦」による米軍の協力は被災者救援に大きく貢献した)。

1995年、日本の金融システムは1992年に起こった不動産バブルの崩壊によって、ふたたび深刻な状態に置かれていた。その中で起こったのが阪神・淡路大震災である。アメリカの研究者ジョージ・ハーウィッチ(Purdue UniversityのGeorge Horwich)がこの震災について、総括的にうまくポイントを押さえた論文「Economic Lessons of the Kobe Earthquake」を書いている。

早かった阪神・淡路大震災からの復興

まず、この論文は震災が発生した直後に、外国では復興のために要する時間を非常に長く見ていた事実を指摘する。例えば、オックスフォード大学出版会が編集する『世界災害報告(World Disaster Report 1996)』は、復興に要する時間を10年間と予測していた。それだけ神戸の受けた損害は甚大だった。住宅の倒壊が総被害額の半分を占めていたが、産業への打撃も重大だった。特に、震災前の神戸の工業生産の4割を占めていた港湾業が、港湾施設の破壊による痛手を受けた。それを含めて資本ストックの被害が大きかった。(この論文ではそれを、当時の為替レートで測って1140億ドルくらい、約9兆円と見積もっている)

1995年の阪神淡路大震災では、死者6434名のうち8割弱が家屋の倒壊や家具などの転倒により即死状態とされている。この震災を契機に耐震基準など、日本の防災体制は大きく見直された。(写真=Studio Right/PIXTA)
1995年の阪神淡路大震災では、死者6434名のうち8割弱が家屋の倒壊や家具などの転倒により即死状態とされている。この震災を契機に耐震基準など、日本の防災体制は大きく見直された。(写真=Studio Right/PIXTA)

復興までに10年を要するという予測とくらべて、実際の復興は驚くほど早かった。いくつかの事実を挙げてみよう。まず、震災発生から1年後に、港湾施設の復旧はまだ半分だったが、神戸税関の記録する輸入額は震災前の水準に戻り、輸出額も震災前の85%まで戻る。

1996年3月(震災発生から15カ月後):製造業の生産は震災前の98%を回復。

1996年7月(震災発生から18カ月後):100%の百貨店と79%の商店が営業再開。

1996年10月(震災発生から21カ月後):阪神高速再開。

1997年1月(震災発生から2年後):震災による瓦礫の処理完成。

神戸の復興のスピードをこの論文は「経済原理」に照らして説明している。震災によって破壊されたのは資本ストック(資本設備)である。しかるに、資本ストックというのは、それがなかったら生産活動が不可能だというほどの必要不可欠な生産要素ではない。そのような生産要素は他にある。それは人的資本である。つまり働く意欲が強く、高い技能を修得した労働者、それがあって初めて生産が可能なのである。

何カ所も道路が寸断され、壊滅的被害を受けた阪神高速も21カ月後には再開した。(写真=カワグチツトム/PIXTA)
何カ所も道路が寸断され、壊滅的被害を受けた阪神高速も21カ月後には再開した。(写真=カワグチツトム/PIXTA)

破壊されたストックの価値


遊歩道が整備されるなど、神戸の港湾地域は新しく生まれ変わった。

災害によって、いかに資本ストックが破壊されたところで、その地域にこの人的資本が残っていれば、生産活動はやがて再開する。労働者たちは、破壊された工場や機械を修復する。機械が修復されないうちは、より多くの時間働くことによって、生産の遅れを取り戻そうとする。先にも見たように震災が発生してから1年後、神戸の港湾施設はまだ半分しか復旧していなかったが、それでも神戸港での輸入額、輸出額はほぼ震災前の水準を回復した。なぜかといえば港湾労働者の最大労働時間についての取り決めが緩和され、港湾労働者がより長い時間、勤務することによって、破壊された港湾施設のハンディキャップを跳ね返したからである。

ここにも、一つの重要な経済原則が現れているとハーウィッチ教授は言う。それは生産活動というものは、一つの方法が駄目になれば、別の方法に「代替」することが可能ということである。資本設備が破壊されたならば、生産プロセスを資本集約的なもの(資本設備を沢山使ったもの)から、労働集約的なもの(労働者がより多く働くもの)に代替することができる。震災発生後、わずか15ヵ月で、神戸の製造業生産額が震災前の98%にまで取り戻したのには、このような代替プロセスが働いていると彼は評価する。

もう一つの点を確認しておこう。それは震災のような大災害によって破壊されるのは、一国の資本ストックのようなストックの価値であって、直接的には一国の所得(GDP)のようなフローの価値ではないということだ。こんな例を考えてもらいたい。

いま、100ヘクタールの農地を持つ農家がいたと考えよう。その100ヘクタールのうち、土壌汚染などにより5ヘクタールが使用不能となり、95ヘクタールだけが使用可能となったとする。この農家は穀物を生産することで所得を得ているとしよう。ここで問題だ。この農家は、土壌汚染によってかならず所得を減らすと言えるだろうか。その答えは、そうではないということだ。なぜなら農家は残された95ヘクタールにより多くの肥料を投入することによって、あるいはより多くの労働時間を投入することによって、穀物の生産高を上昇させ、より多くの所得を得ることもできるからだ。

つまり、「土地」という生産要素が減少したとしても、「肥料」、「労働」といった生産要素をより多く使用する「生産代替」によって、所得(生産)の上昇を実現するのは可能である。もちろん、たとえ所得の上昇が可能になったとしても、この農家が農地を売った場合に獲得できる金額は、土壌汚染によって傷んだ分の5%だけ減少するだろう。農家は保有資産というストックの面では貧しくなる。そうだとしても、年間所得というフローの面では、かえって豊かになることも可能だということである。

神戸の復興の場合、「代替」という原理はさまざまな側面で働いた。たとえば破壊された資本設備を復旧させる場合、企業は前と同じ資本設備を設置する代わりに、最新の資本設備を設置した。その意味では、震災は生産技術の更新という点で、ポジティブな意味があった。また、神戸の打撃によってサプライ・チェーンの打撃を受けたメーカーは、他の地域に生産を移すことで、サプライ・チェーンを迅速に立て直した。また、一部の生産活動は、震災によって神戸から離れることになった。たとえば、港湾業については、1年後に輸出額、輸入額のほとんどを取り返したという復旧振りを示したにも関わらず、神戸市にとっての港湾業の重要性も、アジア全体の港湾における神戸の位置も、震災前に戻ることはなかった。

阪神・淡路大震災は経済回復に寄与


神戸の湾岸地域には復興住宅が立ち並び、新しい住宅地として注目されている。

それでは、日本経済全体に対し、阪神・淡路大震災はどのような影響を与えたのか。阪神・淡路大震災が起こったのは、1995年1月17日のことだったが、その影響からか、同年第一四半期(1-3月)の日本経済の実質GDP成長率は0.2%(年換算)とマイナス成長ではないが、低い成長率に留まっている。ところが、第二四半期(4-6月)、第三四半期(7-9月)の成長率はいずれも1.3%で、第四四半期(10-12月)にいたっては、2.3%に達している。そのため、1995年全体の成長率は1.4%となり、これは前年の成長率0.6%を大きく上回る結果となった。そればかりではない。1995年は株価バブルが崩壊した1990年以来、成長率から見て日本経済にとっては最良の年となった。この年、日本は1ドル=79円という「超円高」を経験しており、輸出環境は必ずしも良くなかったから、成長率についてのこの年の好成績は驚きに値する。

この結果から見るかぎり、阪神・淡路大震災がその年の日本経済の足を引っ張ったという事実はなさそうであり、むしろ神戸の復興のための需要が、日本経済の回復を牽引したという可能性のほうが強そうである。なぜ、阪神・淡路震災が日本経済の足枷とならなかったかと言う要因を考えて見ると、次のような事情が浮かび上がる。

まず、最初に確認したいことがある。それは1995年1月という段階で、日本経済がバブル崩壊後の停滞期にあったということである。バブルのピークは、株価で見ると、1989年後半、地価で見ると1991年後半ということになっているが、1990年の株価バブルの崩壊、1992年に地価バブルの崩壊といった出来事があった後も、日本のマスコミでは消費ブームが続くという論評が多かった。ところが、ピーク時には「皇居の地価を評価すればカリフォルニア州の地価の2倍ある」と言われたほど盛り上がったバブルが崩壊したことによって、地価の上昇を当てにしていた投資の多くが失敗して、投資に乗り出していた企業が巨額の債務を背負い込み、同時にそれに融資していた銀行が莫大な不良債権を抱え込んだ。このように誰も彼もが借金の山を抱えるという事態は、日本が戦後の歴史で初めて経験するものだった。

今年は景気が戻る、今年は景気が戻る、と言われながら、景気の落ち込みはずるずると1994年まで続いたというわけである。経済が資産価格の下落、債務の膨張、不景気という三重苦を抱えた状態では、金融政策は当然、緩和の方向に向かわなければならない。当時の日銀は「バブルの再発を恐れ、金利の低下を躊躇った」という評価があり、筆者もかつてはそう考えていた。実際、自民党の金丸信副総裁(当時)が1992年にした「日銀総裁の首を取っても公定歩合を下げるべきだ」という発言は有名である。

実際、公定歩合の引き下げ方を見れば、日銀の金融緩和は緩慢なのだが、今日では「政策金利」と呼ばれている「翌日物短期金利」の動きを見ると、日銀の金利引き下げは結構急速である。それにも関わらず、日銀の金融緩和が、金融機関の経営にも、景気全体にもさほどの効果を発揮できなかった理由は、バブル崩壊の直前まで、日銀が「バブル潰し」を狙って、あまりにも高い水準に「翌日物短期金利」を引き上げていたためだと、筆者は今日では考えている。そのため、いくら急速に下げても、投資が刺激されるような低い水準まで、短期金利を誘導することができなかったのだ。

ともかく、阪神・淡路大震災が発生する前の日本経済は低迷しており、その結果、日本全体に遊休した資本設備が存在した。そのことが阪神・淡路大震災以降の経済の動きを見る上で重要である。その理由はこうだ。たとえ、労働をより多く投入するといった「生産代替」が可能であるとしても、大災害によって資本設備が損傷を受けることは、資本設備が順調に稼働しているような通常の経済の場合には、生産能力の低下につながり、その時点の国内総生産(GDP)を引き下げる要因となる。

遊休資本の稼働

しかし、この1995年の初めの時点で、日本経済全体にはかなりの規模の遊休している資本設備が存在した。そうであれば、そうした遊休している資本設備を稼働させることを通じて、神戸で失われた部分の生産力を補うことが、十分に可能だったわけである。話はこれで終わりではない。当時のようなバブル崩壊後の停滞した日本経済において、遊休している資本設備が稼働し始めることには、さらにポジティブな効果が存在するのである。

そもそも遊休している資本設備が存在するという状態は、それ自体が経済の停滞を生む要因となる。なぜなら、一国の経済成長は、活発に投資が行われて初めて可能になるのだが、過剰設備があるような状態では、企業は設備の過剰をさらに拡大することにつながる投資に二の足を踏むからだ。そればかりではない。過剰設備があるような状況で企業は、少しでも設備を稼働させるために、無理やり生産を行って、それを「投げ売り」しようとする。その結果、物価について「デフレ気味」の傾向が生じるが、製品の価格がどんどん下がっていくようなデフレ経済では、投資をしたところで、売り上げによって投資コストを回収できるかが怪しくなるので、企業はますます投資を見送る傾向が生まれる。こうして思いがけない長期の停滞に1995年初めの日本経済は陥っていたのである。

阪神・淡路大震災によって神戸の資本設備が破壊されると同時に、他の地域では資本設備の稼働率が高まってきたという事情は、このような環境を一変させた。この震災を機に、企業は投資に対して積極的になってきたのである。

企業投資が活発になってきた理由としては二つのものを挙げることができる。第一は、破壊された神戸の資本設備を復旧するための投資の活発化である。先ほど述べたように、この際に企業は、以前と同じ資本設備を復旧するのではなく、最新式の資本設備を導入しようとした。そのため生産能力は震災前よりもかえって高まった場合もあった。第二は、日本全体で資本設備の稼働率が高まってきたために、企業は新規投資により前向きになったということである。これは新規投資の最大のボトルネックであった、「過剰設備」という問題が緩和されたための新しい展開であった。

上に挙げた二つの投資の活発化が、阪神・淡路大震災のあった1995年に日本経済が、バブル崩壊後最大の経済成長率を達成した原因であったことは想像に難くない。ハーウィッチ教授の論文は、1992年以降進められてきた日銀の金融緩和の効果が、この時、時間差をとって発揮されてきたのではないかと述べている。

つまり、短期金利を引き下げるために、日銀は市中から証券を買い入れ、資金(現金)が市場に十分に出回っているような状態を作り出すわけだが、たとえそのようにして市場に資金潤沢の状態を作り出したところで、企業の側にその潤沢な資金を活用して、投資を拡大する意欲がなければ、そのような金融緩和政策は、投資の促進を通じて、経済を活性化する効果に乏しい。1995年の初めまでの状況はまさに、大規模な過剰設備を抱えて、企業の側に潤沢な資金を利用しようという意欲の少なかった時期なのである。

ところが阪神・淡路大震災を機に、上記のように企業の投資意欲が盛り上がると、市場に流れている潤沢な資金は、企業の投資資金調達を円滑化する働きをした。このため、企業はより一層積極的に投資をすることができたのである。

原発事故と電力不足は人災

震災という経験は、復興のための投資を刺激する点において、経済にとってはかならずしも大きな痛手とはならないということをこれまで見てきた。はたして、これと同じシナリオで、東日本大震災は日本経済の活性化をもたらすのだろうか。残念ながら、そこまで楽観的な見通しは立てられない。今回の震災の場合、問題は天災による被害(津波)だけではなく、人災による被害(原発事故と電力不足)も複合しているからだ。東京電力によると、管内の電力不足は当初夏のピーク時で25%と発表されたが、15%に収まる見通しだ。2%の経済成長が1%の電力の消費増を産むという過去の統計からすると、このため夏頃の東日本の生産には30%程度の下降圧力が生じる。原発への地元住民の反発が強まったために、今後、原発の停止が続いて、ほかの電力会社の管区にも電力不足は広がりそうである。

そうなってくると、復興投資を盛り上げるためにも、一にも二にも電力供給の拡大が短期的で重要な課題となる。これは日本の敗戦後の最初の課題が石炭供給能力の拡大であったのに類似している。類似していると言えば、実は敗戦後の次の段階の課題もそうである。すなわち次に官民を挙げて総力で目指すべきなのは輸出能力の強化である。今回の事故で原発推進にストップが掛かることは客観的事実として認めざるを得ない。といってクリーンなエネルギーによる代替は容易ではないので、結局、化石燃料への依存が強まる。しかるに現在、中東で進行している民主革命と、福島第一の原発事故によって、化石燃料の価格は今後高騰が予想される。

重要なFTA推進

永年石油の支配権を独占してきた中東の王族や独裁者は、石油で得た富を先進国企業の株式に投資し、石油枯渇後にも豊かさが確保される仕組みを維持してきた。これにより先進国と産油国の間の共存共栄の関係が生まれた。この関係は民主革命によって一時的に変わらざるを得ない。世界第一の産油国サウジアラビアのような国も、今後原油価格を引き上げて、その収入を国民にバラマクことにより、急進的な政治変化を避けようとするだろう。他方で福島第一の原発事故は、先進国の核アレルギーを強める結果を生んだ。その動きは原発7機の起動停止に踏み切ったドイツでもっとも顕著だが、米国でも原発計画の見直しが起こりそうだ。結果的に世界全体の化石燃料への依存度は高まる。

エネルギー価格が高騰しても、日本の輸出能力が高ければ、経済成長を支えるだけの資源輸入が可能だ。しかし、もしそうでなければ、資源を輸入する財力が限られて、電力の供給制限は今後も常態化するだろう。

現在のところ日本政府は、緊急事態への対応と、原発問題で二つに割れた国論の統一で目一杯といった状態だが、長期的な課題として今後何にもまして重要なのは、自由貿易協定(FTA)の締結を進めることなのである。

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