エネルギー政策 日本の岐路

「エネルギー問題の考え方」を考える

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福島第一原発事故を受けたエネルギー政策の見直しでは、脱原発か否かが関心の的だ。しかし、神里達博大阪大学特任准教授は、この重大な歴史的岐路においては、より広い視野でエネルギー問題を考える必要があると指摘し、その「作法」を考察する。

2011年夏、当時の菅直人首相は、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故を重く見て、原子力安全・保安院の経済産業省からの分離など原子力規制行政の改革を進めるとともに、内閣官房にエネルギー・環境会議(議長=国家戦略担当大臣)を設け、国のエネルギー政策を抜本的に見直すことを宣言した。同年7月29日に公表された「『革新的エネルギー・環境戦略』策定に向けた中間的な整理」によれば、政府は、従来の政策を聖域なく検証することで、新しいエネルギー・環境戦略を白紙から構築するという。

そこでは大きく、以下の3つの理念が掲げられている。まず、経済性に配慮しつつも原発依存度を減らす新たなベストミックスを実現すること、また「課題解決先進国」としての国際貢献を目指し、分散型エネルギー・システムを実現すること、そして、それらの政策が国民的合意に基づいたものとなるよう、国民との対話や議論を継続していくこと。これらに基づく新たな戦略を2012年夏には策定する、としている。

これが現実化するならば、これまで経済産業省(資源エネルギー庁)、原子力委員会、環境省などで事実上、別々に作られてきたわが国のエネルギーや環境に関する政策が、官邸主導で一元的に構築されることを意味しており、わが国の歴史において画期的な出来事だろう。

ここで今、特に注目されているのが、上記、新戦略策定の一環として行われている「エネルギー基本計画」の見直し、とりわけいわゆる「エネルギーミックス」の議論である。

1960年代半ばから、日本のエネルギー政策は主として、通商産業大臣(当時)の諮問機関として設置された総合エネルギー調査会(※1)の策定する「長期エネルギー需給見通し」に基づいて進められてきた。しかし、内外の情勢の変化を受けて、2002年に「エネルギー政策基本法」が議員立法によって成立、同法では、政府がエネルギーの需給に関する基本方針であるエネルギー基本計画を策定し、少なくとも3年に1度、見直すことを求めた。最新の基本計画は、2010年に鳩山由紀夫内閣で策定されているが、これも今回、「白紙から」見直すことになった。

エネルギー基本計画の見直しについては、2011年秋から経産省の総合資源エネルギー調査会(※2)で議論が進んでいるところであるが、さまざまな論点の中でも、同調査会の基本問題委員会で議論されている、2030年における原子力発電の割合を全体の何パーセントとするかといった、エネルギーミックスに社会的関心が集まる傾向にある。あれだけ大きな事故が起こり、また実際のところいまだに収束したとはいえない状況にあることを考えれば、原発をいつ、どれだけ廃止するかにつながるアジェンダに注目が集まりやすいのは当然のことかもしれない。だが、われわれが今立っているポイントが、歴史的に見て極めて重大な岐路にあることを考えるならば、もう少し広い視野で事態を捉えてみる必要があるのではないだろうか。

そこで本稿では、これらの議論を少し離れ、エネルギー問題を検討する上での「前提」に注目してみる。そもそもエネルギーとは人間にとってどういうものなのか。その議論においては、どういう点に注意すべきなのか。そしてわれわれは、どのような「作法」でいま、エネルギー問題に向き合うべきなのか―これらについて、若干、考えてみたい。

エネルギー問題の難しさ

極論すれば、エネルギーは文明の盛衰を支配する。例えば古代地中海世界の衰退は、エネルギー源としての森林の過度な伐採が大きな要因であったといわれる。また誰もが歴史の教科書で知っているように、英国に産業革命が興ったのは、もともとブリテン島に存在していた石炭の利用に成功したことが決定的だった。エネルギーが国家にとって本質的な課題であるのは、今も昔も、同じである。

また石油は20世紀前半に本格的に活用されはじめたわけだが、21世紀に入った今も依然として、あらゆる社会システムの、欠くべからざる原動力であり続けている。しばしば現代社会の物質的な繁栄の要因として「科学技術の進歩」が語られるが、しかしもし大規模な油田が発見されなければ、このようなスタイルの文明は存立し得なかっただろう。

そもそも「経済成長」というものは、エネルギーの消費量との相関が強く、議論は分かれるものの、20世紀の経済成長は安価でエネルギー密度の高い石油を自由に消費できた結果であった可能性もある。だからこそ90年代に前景化した温室効果ガスの問題が、グローバルな政治空間において、一気に最重要のアジェンダに格付けされたのだろう。

このように、エネルギーはいわば物質文明としての「モダン」を生きるわれわれの存在を、深いところで規定している、最も本質的な条件の一つである。エネルギーは、社会にとってかけがえのないものと考えられており、それゆえに、あらゆるシーンでそれは(広義の)政治性を帯びやすい。まず、この基本的な事実を確認しておこう。

典型的なのは石油の埋蔵量の議論であろう。石油はいつでも「あと30年後に無くなる」などといわれてきた。まるで手品のようだが、石油が枯渇するとされた時期は先に延び続けてきたのである。これは石油の(可採)埋蔵量の計算の仕方に起因する。埋蔵量はいろいろな理由で変化する。例えば、採掘技術が進歩するか、あるいは原油価格の水準が上がると、新たな油田が見つからなくとも「可採埋蔵量」の数字は自動的に増えることになる。

また埋蔵量を調べること自体、大きなコストがかかるため、誰にでも調査できるわけではない。従って、その数字を一部の者が独占的に支配することも、理屈の上では可能である。実際、埋蔵量データそのものが、国家機密のベールに包まれているケースもある。さらに、そもそも人類は地球の内部構造のうち、そのごく一部を知っているにすぎない。既知のデータから補完し推定している領域も広く、その誤差は無視できないのだ。

その結果、いったい地球上にどれだけの原油が存在しているのか、本当のところはよく分からない。少なくとも、どのような技術的、経済的、あるいは政治的な前提に基づくかによって、その見込みは大きく変化することになる。例えば、リーマン・ショックの前には、ある時点で石油の生産量が頭打ちになるという「ピークオイル」という言葉がよく聞かれたが、最近はどうだろうか。実は、このような「警句」はすでに1940年代から、時折、現れては消える言説であり、そのたびに、さまざまな反論がなされてきた。

石油の埋蔵量だけをとっても、このような曖昧な性格を持っているわけだが、これは供給側の不確実性だけであって、問題を正確に捉えるには、その上に需要に係る不確実性を重ねて考えなければならない。しかし当然ながらそれは、将来の社会像や、消費者のライフスタイル・価値観なども含めた複雑なパラメーターが影響するため、これが極めて難しい問題であることは容易に想像がつく。

科学のグレーゾーン

さらに、エネルギー問題の議論においては、「科学のグレーゾーン」とでもいうべき領域に、知らず知らずのうちに足を踏み入れてしまうことも多い。

まず、近年のエネルギー問題においては、いうまでもなく「温暖化対策」という、新たな条件も考慮しなければならなくなっている。しかし現在でも、一部に「人為的な二酸化炭素放出に起因する気候変動」という現象そのものを疑う、根強い懐疑論者が存在しているし、2009年に英国の大学から流出した気候研究者間の電子メールの内容をめぐって、温暖化データの不正操作が疑われた、いわゆる「クライメートゲート事件」は、懐疑派を大いに勇気づける結果となった。

また、温暖化論争以外にも、エネルギー問題の周辺では、時折、学会の主流派の学説と馴染(なじ)まない、いわば「グレーな言説」が一般の人々に注目されることがある。

1990年頃に一時注目された「常温核融合」は、その典型例だろう。当時は、夢の核融合が簡単な装置で実現するのではと、一般のメディアも飛びついたものだ。だが現在では多くの物理学者がこの現象に懐疑的であり、また研究を続けている少数の支持者も、仮に実在する現象だとしても、エネルギー源としては出力が小さすぎて利用価値がないだろうことを、基本的には認めている。

もう1つ、石油や天然ガスは生物の化石が地質学的な時間の流れの中で変質して生じたものだというのは、一般常識になっているが、一部に、生物とは関係なく生じた、ある種の無機的な鉱物であるという主張をしている人々もいる。この説は、古くは周期律のコンセプトを提示した科学者ドミトリー・メンデレーエフ(Dmitrii Mendeleev)が唱えたものだが、その後、生物由来である証拠が多く見つかり、忘れられていった。しかし近年、「定常宇宙論」で有名な宇宙物理学者のトーマス・ゴールド(Thomas Gold)がこの「石油無機起源説」を強く主張したことで、注目を集めた。もし、これが正しければ、石油の埋蔵量は通常考えられているよりもはるかに多いことになる。この理論に対する支持者も多いわけではないが、必ずしも科学的に否定された説ともいえない。

科学のフロンティアにおいては、それが疑似科学か正当な科学かを判定するのは、一般の人々が思うほどには簡単ではない。科学哲学においてこれは「境界問題」と呼ばれ、重要な論点の1つである。ここでは上記の説の信ぴょう性の評価は控えるが、少なくとも、エネルギーに関する研究には、そのようなグレーゾーンを引き寄せる特異な魅力があるらしいということは、指摘しても良かろう。

では、なぜそのようなことが起こるのだろうか。おそらくは、エネルギーが現代社会にとってあまりにも重要であるがゆえに、普通ならば検討に値しないような可能性についても、挑戦してみようという者が現れるのだろう。やや失礼な言い方になってしまうが、エネルギー関連の研究はある種のギャンブル性を持っており、「当たればでかい」ということかもしれない。そして、もし成功すれば、社会全体がその「配当」を受け取れるがゆえに、熱い視線が集まるのである。かなり冒険的な試みであっても、その「期待値」を考えれば、十分に「経済合理的」なのだ。

トランスサイエンス

さて、冒頭に述べた問題意識に戻ろう。現在、わが国では、将来のエネルギー、とりわけ原子力発電をどうするのか、国論を二分する状況が続いている。これは、福島原発事故以前から存在した根深い対立ではあるが、「脱原発依存」という方向性を菅元首相が示してからも、その現実的な道筋をめぐって、意見集約は困難を極めた。そのような状況において、エネルギー基本計画がまさに策定されようとしているわけだが、われわれはこれにどう向き合うべきなのだろうか。

上述のように、そもそも「エネルギー」は、本質的に極めて政治的な存在であり、科学的、客観的な議論を行うことが容易ではない。問題を切り取るフレーミング、すなわち「光の当て方」をどう設定するかによって、いかようにも問題の立ち現れ方が変容してしまうからだ。冒頭で触れたエネルギー・環境会議の「中間的な整理」には「客観的なデータの検証に基づき戦略を検討する」という文言が見られる。方向性としては間違っていないが、原子力のみならず、ことエネルギー問題に関しては、これはまさに「言うは易く行うは難し」なのである。

実は、このような問題は、現代社会においては他にも多く見られるようになっている。問いそのものは科学的な様式を持っているが、その答えを科学のみに基づいて出すことは困難であるような問題、これをかつて、アメリカの核物理学者のアーヴィン(アルビン)・ワインバーグ(Alvin M. Weinberg)は、「トランスサイエンス(trans-science)」と名付けた。彼は、原子力発電を含め、核を扱う科学技術がそのような領域にある問題であることを1970年代にすでに気付き、新たな問題の捉え方が必要であることを提言したのである。

トランスサイエンス領域とは、図式的に言えば、価値判断を行う「政治」の領域と、事実についての判断を行う「科学」の領域が、相互乗り入れしている重なりの部分を指す。安全基準の設定、生命倫理、環境問題など、多くの現代的な問題は、ここに関わってくる。

例えばエネルギーの未来像も、供給側の技術的見込みのみならず、消費者がいかなる未来の生活を選びたいかに、大きく依存するだろう。一方、選択すべきエネルギーの性格を考える上で考慮すべき要素は、安定供給性、経済性、安全性、環境負荷への配慮など、さまざまな条件があるが、そのどれをどう重視すべきかは、科学的・客観的な議論のみから導くことは不可能であろう。

むろん、そこも含めて「専門家」に判断を委任するという選択肢もあり得るだろう。しかし、今回の原発事故のように、社会的な影響が大きすぎるマターを専門家に丸投げするというのは、専門家にとってもあまりに荷が重いし、社会も納得しないだろう。この点だけを見てもエネルギー問題は、その問いが表面上、科学的な形式を具備していたとしても、本質的にトランスサイエンス的な課題であることが、分かるだろう。

エネルギー問題とつきあう作法とは

そうだとするならば、われわれは公共的な課題としてのエネルギー問題について、どういう手続きに基づいて決定するのが望ましいといえるだろうか。

かつてのわが国では—より正確に言えばおおむね90年代半ばくらいまでは—もっぱら専門家から構成される審議会が、エネルギー政策も含め、意思決定の中心に据えられていた。もっともそこでは、全体をマネージする行政の事務局が、会議が開かれる前の時点ですでに議論の落としどころを想定しており、その着地点に誘導すべく、逆に委員の人選を決める、といったことも行われてきた—と、批判する識者も多いのだが。いずれにせよ、このような行政の権威の調達方法は、冷戦期が終わり、日本社会における価値観が多様化する中で、徐々に説得力を失っていく。

とりわけ今回の原発事故を契機に、そのような審議会において、行政などに権威を付与している(かのように見える)研究者を「御用学者」と呼ぶことが流行した。このような現象は、専門知全体に対する不信感が広がっている兆しでもあり、それ自身、危うさを伴う。しかし、ここで指摘したいのはそういう議論ではなく、上に述べたように、トランスサイエンス的な課題に対しては、いかなる意思決定がなされるべきか、という問題である。

いうまでもなく、専門家なしに高度な専門知を要する課題を処理することは、依然として困難であろう。だが一方で、専門家だけでは決め得ないような、複雑な価値判断を含むような問題—典型的にはこの「エネルギーの未来」—については、われわれは少なくとも、従来型の審議会のみに任せることでは解決し得ないと、覚悟すべきである。そしてそうである以上、トランスサイエンス的な問題の議論に、専門家ではない者が、なんらかのルールに基づいて参加する仕組みを模索しなくてはならないのである(※3)

このような問題意識に基づく新しい試みは、実は20世紀の終わり頃から、先進諸国で広がってきている。「コンセンサス会議」「市民陪審」「参加型予算」など、さまざまな方法が実践されつつあり、ここではその詳細を紹介する余裕はないが、これらは専門的議論への市民参加の手法という言い方もできるし、あるいは代表制民主主義を補完するための討議デモクラシーの実践、と捉えることもできる。

今回、エネルギー基本計画を定めるにあたって、政府は国民的議論を重視するとし、その具体的な方法として、「討論型世論調査(Deliberative Polling (R))」の手法を試みるとしている。討論型世論調査とは、スタンフォード大学の政治学者ジェームズ・フィシュキン(James S. Fishkin)が開発した手法で、一般市民から無作為抽出された300人がグループ討議を行い、そこで生じた疑問を全体会議で専門家にぶつけるというサイクルを何度か繰り返し、その一連のプロセス(普通は2泊3日程度)の前後での、参加者の意見の変化を調査する、というものだ。一般の世論調査とは異なり、熟慮に基づく民意を観察することができるとされる。

通常、討論型世論調査を行うにはかなりの準備期間を要するが、今回、政府が示した実施計画は時間的余裕に乏しく、問題なのではないか、などの指摘もなされたが(※4)、少なくとも、このような新しい手法を政府が試みること自体は、大きな前進であるに違いない。今回の経験を丁寧に検証し、より日本社会に適した手法へと進化させていくことが、望まれるだろう。

われわれは、3月11日の地震・津波と引き続く原発事故によって、あまりに多くを失った。しかしそれを、一人ひとりが自分の問題として考えることで、新しい時代の「議論の作法」を見いだしていくプロセスへと、つないでいくことができたならば、われわれは後世の人々に対して幾ばくかでもその責任を果たしたことになるのではないだろうか。そうなることを期待しつつ、稿を閉じたい。

(2012年7月12日 記)

主な参考文献
小林傳司『トランスサイエンスの時代』(NTT出版/2007年)
萱野稔人・神里達博『没落する文明』(集英社新書/2012年)
篠原一『討議デモクラシーの挑戦』(岩波書店/2012年)

タイトル背景写真=政府のエネルギー・環境会議が提示した「エネルギー・環境の選択肢」に関する討論型世論調査のグループ討論を行う参加者(2012年8月4日、東京都港区、産経新聞社提供)

(※1) ^ 1965年、通商産業省内に設置され、1973年に資源エネルギー庁が通産省の外局として発足した後は、同庁の管轄となった。

(※2) ^ 2000年の省庁再編(通産省から経産省への再編)により、総合エネルギー調査会は総合資源エネルギー調査会に改組された(調査会の改組は2001年1月)。

(※3) ^ それこそが議会の役割ではないか、という意見もあるだろう。しかし代議制においては、個別のイシューについて自らの意見を直接、決定に反映させることができないことが、徐々に「民主主義の足かせ」になってきている。例えば、年金制度、防衛政策、エネルギー政策、教育制度について、それぞれ異なる意見を持つ人々が、政党Aか政党Bのどちらかを選ぶしかないとすると、いずれの人々も、多くの不満を抱えることになるだろう。政党政治の解像度は、現代社会の複雑さに対応していないのだ。これが政治的無関心を呼び、政治の実質を空洞化させてしまう可能性が指摘されている。

(※4) ^ 北海道大学、大阪大学などの研究者を中心に、意見書が提出された。筆者も賛同者に名を連ねている。

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