日本語を学ぶ

私の日本語の学び方:アンガス・ロッキャー(ロンドン大学准教授)

社会 文化

アンガス・ロッキャーさんが日本にやって来たきっかけは、大学のキャリア・オフィスで見つけた「日本で英語を教えよう」と呼びかけるパンフレットだった。20年以上を経て、今ではロンドン大学で日本の歴史を講義する英国人学者が、日本語習得のうえで「居酒屋」が重要な役割を果たしたという体験談を披露する。

“たまたま”だった来日

私が日本に初めてやって来たのは、「たまたま」だった。大学では西洋史を専攻していたが、卒業間近になって、そろそろ進路を決めなくてはと思い、大学のキャリア・オフィスに足を運んだ。そこでたまたま、「日本で英語を教えよう」と書かれたパンフレットが目に付いた。やってみてもいいかなと思った—新しいことを経験するチャンスだし、進路を決定するまでしばらく猶予期間ができる。 

とにかく応募して、なんとか面接までこぎつけ、数カ月後にはJETプログラム(※1)参加者として山口県岩国市にある商業高校で英語を教えていた。

実に楽しい2年間だった。とはいうものの、来日当初、日本語はほとんど一言も話せなかった。日本語の教科書を1,2冊は用意して飛行機に乗り込んだものの、いざとなると日常生活に必要な読み書きがまるでできなかったし、ろくに口もきけなかった。教室では大して困らなかった。素晴らしい同僚たちが生徒たちとの仲介役を務めてくれたし、私がひどい間違いをしないように、気をつけていてくれた。ただし毎日学校が終わると、自分で何とかしなければならない。やむを得ず日本語を勉強するしかなかった。

岩国商業高等学校での授業風景(1988年)<左>と、およそ20年を経て、ロンドンの街角で(2007年)<右>。当時、東京大学大学院で客員教授を務めていた東洋アフリカ研究学院の同僚ニコル・ルーマニエールさん(写真右端)と、その教え子たちと一緒に。

ただし、問題があった。もともと語学の勉強はあまり得意ではなかったのだ。人生で忍耐力を要するものは数多いが、中でも語学の習得は一番と言っていい。あいにく私は忍耐力とはあまり縁がなかった。しかも、初めてのアジアでの生活は、面白いことばかりで、私の日本語の教科書が促すように、美容院への行き方を日本語で説明してみようと努力する気にはならなかった。その代わりに、いろいろなクラブに参加して生徒たちとスポーツを楽しみ、他の町に住む友人を訪ね、瀬戸内海の島々に足を延ばした。もちろん、おいしい料理とお酒に舌鼓(したつづみ)をうつ機会も積極的に作った。

夜の居酒屋が一番の学びの場

結局、こうした飲み食いの場が、私の日本語学習で一番の効果を発揮した。語学を習得したいなら、どっぷりとその言語環境に浸る「イマージョン」が、苦労はしても効果的だ。私は毎朝8時から夕方5時まで、日本語を話す教師と生徒たちに囲まれていた。そのうち、一方が状況によってそれぞれ特定の音の組み合わせを発することで、相手から一定の反応を引き出すことに気が付いた。それからは、物まねが特技だった父に倣って、わたしも同じ音の組み合わせを真似して使い始め、期待したような反応を相手から引き出せていると手応えを感じた。

それでも、教室では少し身構えていた。バスケットボールや柔道を練習しているときは、比較的楽だったが、周囲に対する身構えがすっかり消え去るのは夜になってからだった。例えば料理と飲み物を注文するとき、カウンターの後ろに立つ人たちとおしゃべりをしたいとき、そして自分の住む街について知りたければ、日本語を話さなければならなかった。だから、実行した。わずかな語いで、支離滅裂な文法にもめげずに。もっとも、何杯かビールをお代わりするうちに、そんなことは気にならなくなった。少なくとも(と私は思った)、私の発音はマシなはずだ。たとえ意味不明だろうと(と酒をすすりながら考えていた)、日本語のようには聞こえるだろう。

2枚とも2008年、京都の居酒屋で。おいしい魚料理やありとあらゆる日本酒、焼酎を満喫した。この頃は国立民族学博物館の外国人研究員だった。

「習うより慣れよ」で実践重視

2年後に岩国を去る時も、結局、日本語の教科書は手つかずのままだった。ただ、日本についてもっと勉強したいと思うようになり、そのためにはもっと日本語の能力を向上しなければと実感した。そこで、ついに東京で日本語学校に通い始め、シアトルでも日本語のクラスを受講したが、出来のいい生徒とはいえなかった。かつて口にしていた音の組み合わせが、大体思ったような意味だったということはわかった。

ただし、私はよく「山口女子高弁」(山口県の女子高生たちが使っていた方言)を使っていたようだ。とにかく、文法と単語をひたすら暗記するのは、やっぱりつまらなかった。以前より辛抱はしたものの、忍耐力のなさは相変わらずだった。

最終的には、岩国での経験と同様に、実践することによって、なんとか日本語を習得した。シアトルでは、村上春樹の短編を読み、経済学者の村上泰亮(※2)の著作を訳したりした。カリフォルニアのスタンフォード大学にいたときは、戦後日本の主要な新聞の記事から明治時代(1868~1912)初期の奇妙な漢文訓読体、鎌倉幕府(1185~1333)の候文に至るまで、必死になって歴史的資料を調べた。

2011年9月、JETプログラムは25周年の記念シンポジウムを東京で開いた。どういうわけか、私も招待されて体験談を話すことになったが、そのおかげで山口県を再訪し、旧友たちに再会して感謝の念を伝えることができた。実は、いまだにきちんとした日本語を話す自信がない。シンポジウムでは、友人に翻訳してもらった日本語の原稿を読み上げた。一方、居酒屋に足を踏み入れれば、私は水を得た魚のようになる。ただ、シンポジウムでも居酒屋でも、私はちゃんと日本語を発していたと思う。多分、言いたいことが伝わってさえいたかもしれない。

タイトル写真=川崎市岡本太郎美術館で。大阪万博と岡本太郎も筆者の研究テーマだった。

(2013年5月10日 記/原文英語)

(※1) ^ The Japan Exchange and Teaching Program。文科省などの関係省庁と招致国政府の協力により1987年に開始された。2012年7月現在で40カ国4360名の参加者に達している。

(※2) ^ 昭和後期〜平成時代の経済学者(1931-1993)。東京大学教授、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター所長などを務めた。

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