震災復興の現実

さらば、ふるさと—福島・長泥の失われたコミュニティ

社会

福島県飯館村の長泥区は、最も放射線量が高い「帰還困難区域」だ。故郷への愛着断ちがたい高齢者たちの帰村の夢もついえた。住民たちへの取材を基に英国人社会人類学者が被災地の今後を考察する。

わが家に帰る夢はついえて

ついに長泥集落の未来は断たれた。そう私が実感したのは、福島県飯舘村・長泥で生まれ育った高橋正人と話していたときだ。

この春、県内でも放射線量が高い飯舘村の住民が避難している福島市・松川第2仮設住宅に正人と彼の奥さんを訪ねた。二人がこの窮屈なプレハブ住宅で暮らし始めてからすでに4年の月日が流れた。最近、正人の長男・正弘が、福島市に新居を構えるための土地の売買契約を結んだそうだ。家が建ったら一緒に住みたいかと息子に尋ねられた正人は、そうすると答えた。長男家族の迷惑にならないように自分たち夫婦専用の台所と風呂場を作るための資金を出すつもりでいる。

筆者の肩を揉んでくれている高橋正人氏(右)。筆者は震災後何度も飯館村を訪れてフィールドスタディを行っている。

これまでの4年間、正人は飯舘村の長泥地区にある自宅に絶対に戻ると決めていた。生まれ育ったその地で、生涯を終えるつもりだった。長泥には二度と戻らないと明言した多くの同郷人を尻目に、正人は週に何度か自宅に戻り、飼い猫と池の鯉に餌をやり、帰還に備えて家の掃除もしていた。また、有志と共に、長泥の除染を始めてほしいと村長に要望を出していた。それどころか、公表された放射線レベルを少しでも下げたいという強い思いに駆られ、公設の放射性物質モニタリングポストの近くにある畑に(放射能を吸収する効果があるという説がある)ひまわりの種を撒いたり、草刈りをしたりして自分なりの除染努力を続けた。

でも、それももう終わりだ。「もうわが家に帰る夢は終わったよ」。

避難期日後も踏みとどまった人たち

長泥の前区長である正人は、原発事故が起こった当時75歳だった。福島第1原発の水素爆発で放射性物質は大気中に放出され、北西の風に乗って飯舘村の上に降り注いだ。爆発後数日内に、政府は原発から半径20キロメートル圏内の住民を避難させ、20~30キロメートル圏内を屋内退避区域とした。飯舘村は半径30キロメートル区域より外側だったため、避難指示は出されなかった。しかし、村の一部地域は半径20キロ圏内の多くの場所より放射線量がはるかに高かった。被害が最も大きかったのが、村の最南部に位置する長泥行政区だった。 

立ち入り禁止のバリケード前に立つ高橋正人氏。

長泥では2011年3月17日時点で、毎時95.2マイクロシーベルトの大気中放射線量が記録された。これは政府が安全としていた年間線量限度が1ミリシーベルトに対して、年間834ミリシーベルトに相当する水準である。しかし、飯舘村の20の行政区全域が計画的避難指示区域に指定されたのは、事故から42日間後の4月22日だった。しかも、避難の実施期限はさらに40日後の5月末までとされたことから、政府は緊急を要する事態だとは考えていないという印象を与えてしまった。長泥では、政府の方針に従って5月末に避難した住民は、退去前に約50ミリシーベルトの放射線を浴びたことになる。この避難の遅れがどれほどの健康被害をもたらすのかは、もっと年月を経ないとわからない。

村民の中には政府の避難期日後も長泥に残った人たちもいた。主に牛の繁殖を生業にしている人たちで、子牛が生まれるまで待つつもりだったからだ。

一方、海産物卸業を営む志賀隆光は避難指示からまる1年、愛犬のゴールデンレトリバーのレイとともにたったひとりで長泥にとどまった。彼は放射能に関する本を読み、自宅周囲の線量は健康に深刻な被害をもたらさないと判断した。戸外で長時間作業を要する仕事ではないという認識もあった。だからこそ、乾燥海苔をカットして箱詰めにする作業を長泥で続けていた。だが、政府の避難区域見直しで2012年7月長泥は向こう5年間は居住不可能な「帰還困難区域」に指定され、バリケードで封鎖されて立ち入り禁止となった。見直しが決定的になった時点で隆光はついに諦め、仕事と住まいを福島市に移した。

打ち捨てられた長泥区の中心街。

志賀隆光氏は避難指示区域になった後も1年間長泥に踏みとどまった。

補償金で新天地に家を新築、長泥は過去の記憶

避難した人々の中には、正人のようにプレハブの仮設住宅に入った人もいれば、隆光のように自分で見つけた賃貸住宅に県から補助を受けて住む人もいる。長泥の住民は福島県全域に分散し、それまでの近所づきあいは途絶えた。

福島市・松川第1仮設住宅(左)では、飯舘村出身の夫婦がラーメン屋を営業、その隣には日用品や野菜などの直売所がある(右)。

やがて、福島第1原発を運営する東京電力から補償金が入り始めた。基本支払額は、「精神的損害」への賠償として1人当たり月額10万円だった。これは避難指示が出た全域で同額だった。しかし、長泥のような高度汚染地域の場合は、月額賠償金の5年分と6年分に相当する2回の一括賠償金が支払われた。初回は2012年、2回目は2014年である。さらに、住宅、家具、農業機械、失業に対する賠償金を含む追加賠償も行われている。5人家族であれば補償金は合計で1億円近辺という、長泥ではそれまで誰も見たことのないような金額になっている。

2011年当時、飯館村の菅野典雄村長は、2年で除染を終え、全住民の帰村を実現すると宣言していた。仮設住宅も2年のみということになっていた。しかし、それが3年に延長され、さらに4年となり、5年目に入っても見通しはつかない。一方、年月が過ぎるにつれ、避難先で仕事を見つける人も増えた。以前は補償金を使って家を買う人は数えるほどしかいなかったが、2014年には急増、今では長泥の71世帯のうち、45世帯前後が主に福島市か、近隣の伊達市に家を構えている。子どもたちは落ち着き、新しい友だちもできた。若い世代にとって、長泥での生活はぼんやりした記憶の中に埋もれてしまった。

長泥の展望広場にたたずむ長泥区長の鴫原良友(しぎはら・よしとも)氏。ここから見える山の向こう側で福島第1原子力発電所の事故が起きた。

放射線量低下のペースは減速

かなり早い段階で、子どものいる家庭は長泥に戻らないことがはっきりした。長泥十字路に設置されたモニタリングポストの放射線量は毎時約4~5マイクロシーベルトまで下がったが、それでも年間では35~50ミリシーベルトだ。 

長泥十字路に設置された掲示板に赤いテープで張り付けられたタッパーの中に放射量計測器が入っている。

さらに、今後は放射線量の低下ペースが大幅に減速しそうだ。これは、長泥に降った3つの主な同位元素の半減期が異なるからである。ヨウ素131の半減期は8日、セシウム134は2年、セシウム137は30年である。皮肉なことに、避難実施前の80日間はヨウ素131の10回分の半減期に相当するため、村民は避難する前にすでにヨウ素の悪影響を受けてしまっていたとみられる。事故後2カ月ほどで線量が毎時約90マイクロシーベルトから約20マイクロシーベルトに急減したのは、それが理由だった。また、この4年間でセシウム134が2回の半減期を経て当初水準の4分の1まで減少し、そのために現在の線量は毎時5マイクロシーベルト前後まで低下している。しかし、残留放射線の大半は半減期30年のセシウム137であり、今後の線量の減少ははるかにゆっくりとしたペースになる。

現実の厳しさが次第にはっきりしてきた。子どもたちや若い世代が帰還しなければ、長泥の定住者は激減する。おそらくは事故前の71世帯を大きく下回る10世帯程度にとどまり、しかもほぼ全員が高齢者である。原発事故の前でさえ、長泥は人口減少に直面していた。地区の最後の店が2010年に閉店し、ひとつしかなかったガソリンスタンドも閉店した。バス便はほとんどなく、車がないと長泥では暮らせなかった。

ふるさとを諦める選択肢しかない

4年の歳月は、高橋正人のような高齢者の事情を大きく変えた。現在79歳の彼はさまざまな持病を抱えている。長泥の近くに病院はなく、飯舘村で一番近い医院が再開したとしても、10キロメートル以上離れている。これから何年、車の運転ができるのか? 運転できなくなったとき、誰が病院に連れていってくれるのか?近所に住む世帯はまばらで、年金受給者しかいない過疎の村に住んで、いったいどんな楽しみがあるというのだろう。

正人は状況をよく見極めたうえで、福島市で一緒に暮らそうという息子の申し入れを受け入れたのだ。それは家族をとるか、ふるさとをとるかの選択だった。ふるさとへの愛着は断ちがたくても、最終的には家族が一番大事だ。

正人は幸運なほうだった。長泥の高齢者の誰もが一緒に住もうと言ってくれる子どもや孫をもつわけではない。多くは将来の生活のめどが立たないまま、ひとり暮らしや年老いた配偶者と2人で暮らしている。

飯舘村では大規模な除染作業が進んでいる。ほぼ毎日、1000人以上の作業員が表土を剥ぎ取り、黒い袋に入れて村のあちこちに積み上げている。これらはやがて、福島第1原発の立地である双葉町と大熊町の中間貯蔵施設に送られる。飯舘村の20の行政区のうち、長泥区だけが除染対象になっていない。政府の方針では、放射線量が最も高い地域を最後まで後回しにするとしている。飯舘村の菅野村長は長泥区に除染の早期開始を正式に要請するよう区民に促しているが、区民たちの大半にはその意志がない。現時点ではどの除染計画も放射線量の50%以上削減できていない状況だし、例え半減したとしても、長泥で安心して生活できる環境だとは思えないからだ。

消えゆく長泥の運命が示唆すること

長泥区には、少なくともあと30年は誰も住まないし、原発事故以前の住民が戻ることはないだろう。

飯舘村の他の地区、いや、他の被災地のコミュニティの多くが、長泥と同じ運命をたどるのではないか。再定住の計画は立ち消えになり、コミュニティは失われる。

放射線を浴びたコミュニティに2年程度で戻れていたら、事情は違ったかもしれない。しかし、すでに4年が過ぎた。多くの人々が、避難先で新たな生活を確立し始めている。

農業の問題もある。農地は除染されても、周囲の山や森は除染されていない。雨が降れば放射能が山から谷筋を通って、再び土地を汚染する。すでに複数の地域で「再除染」の必要性が取り沙汰されている。また、農地を使用可能な状態に戻せたとしても(被災地では多くの肥沃な表土が剥ぎ取られ、土壌が深くないことを考えると容易ではないが)、放射能汚染という汚名をきせられた地域の農産物を消費者は歓迎しないはずだ。いわゆる「風評被害」がずっと残るだろう。

避難指示が解除されても、子どもたちは戻らない。戻りたいのは高齢者だけとなり、店舗や医院などのサービスを再開できるほどの定住者は確保できない。結局、年配者も村に戻るのを断念するだろう。

長泥区の運命は他のコミュニティに対する警鐘だ。長泥が見捨てられるなら、原発周辺の多くのコミュニティにも同様の運命が待ち受けているだろう。そんな私の懸念が正しければ、入念な除染計画に対する数千億円の支出は、とんでもない資金の浪費に終わってしまう可能性がある。

(2015年5月18日 記・原文英語)

福島 原発