ニッポンの対外発信を考える

「好感度の高い国」ニッポン(下): 口数の少なさ、「八方美人」が生む誤解

政治・外交 文化

いくら世界からの「好感度」が高くとも、黙っているだけでは相手との意思疎通には誤解が生じる。筆者は、日本という国は「必要な情報を英語にする運動神経に欠ける」と指摘する。

日本の対外コミュニケーションズ能力を高める最初の一歩は、当然といえば当然すぎる努力を怠らないこと、すなわち日本語で発表した内容をすぐさま英語にすることだ。残念ながら日本政府はこの能力においていまだに劣る。民間企業もそう誇れたものではない。今回は最初にこの点を眺めておくことにする。

「国運を左右する」安全保障関連の法律が…

安倍政権が実現した平和安全法制によって、米軍の艦船や航空機を、日本の自衛隊はほぼ自動的に守れるようになった。

公海上を行く米海軍艦船が何者かのミサイル攻撃を受けた際、すぐそばを海上自衛隊の船が進んでいたとする。

以前なら、米軍に加勢したくても、事情があまりに煩雑、自衛隊は急場の用をなさなかった。日本側が手を拱(こまぬ)いているうち米軍に大きな犠牲でも出た場合には、日米同盟が事実上終焉するだろうと懸念は深かった。このたび自衛隊法に「第95条の2」が加わったことでそこが変わり、攻撃側は、米軍と自衛隊を一体視せざるを得なくなった。

「第95条の2」についた見出しが、中身を語っている。「合衆国軍隊等の部隊の武器等の防護のための武器の使用」(助詞「の」が6回も出てくることはいま問題としない)を決めた条文だという。 米軍(場合によってはオーストラリア軍など)を守るためなら自衛隊は武器を使えるという権限を、事前に授ける規定である。

実際の行使は、諸々の制約下に置かれる。だとしてもこれは従前に比べ本質的な変化で、安倍政権は日米抑止力の相乗的一体化という目的を、この条文に託したことが見てとれる。

それほど重大な意味をもつ条文ともなると、ワシントンで、キャンベラやデリー、ジャカルタで、逆に北京でもモスクワでも、自分の目で第95条の2を確かめたい人は少なくないに違いない。ところが、自衛隊法には英訳がない。もちろんいま話題にしている第95条の2にも、したがって英訳はない。

日本法を英語にするとは、察するに手間暇のかかる仕事だろう。政府を横断し、個々の法律英訳を担うのは誰で、翻訳の順序をどう決めるのか。担当する法務省は2019年3月、専門家パネルから提言を受け取り、改善への機運を見せた。ただし実際にどう改められるのかは今後を見極める必要がある。

事情がどうあれ、いまや国運にとって重要度をいや増した自衛隊根拠法がいまだに英訳されていない事実は、ほかでもない、防衛省の幹部諸氏に焦慮の念をかきたてることだろう。向こう1年くらいで、自衛隊法の定訳が現れることを期待したい。

外国の機関投資家に説明なし

2019年秋、日本がまたぞろ外国投資家排斥に動いたかと、世界の投資家に疑心を呼んだ。

安倍政権はコーポレート・ガバナンスを強化した。機関投資家から企業経営に向く監視の目も強くなるよう、制度を充実させた。企業セクターに、用途のない現預金が大量にある。経営者の背中を押して、これを前向きに使うよう促すところにその大きな目的があった。理にかなっているから、海外投資家の納得を集めた。

外国投資家が、株主利益増大を主眼として経営サイドに注文をつけることは、一連の流れからしてむしろ当然視されるはずだった。

ところが突然、法律(外国為替及び外国貿易法、いわゆる外為法)が変わり、外国投資家が本邦上場企業の株式を買おうとする場合、これまでのように自由にできなくなった。少なくともそう懸念された。

従前の規制は、投資対象企業の発行済み株式全体に対し10%までなら外国投資家に自由な取得を認めた。だが2019年11月22日に国会を可決、成立した新しい外為法では、この割合がわずか1%となった。

1%を超える株式を得ようとする外国投資家は、日本政府に対し事前に届け出なくてはならない。かつ、審査に通らない限り、株を買えない。いかにも劇的変化に見えたから、前述の疑いを生じたのである。

1%以上の株式を既に保有する外国の機関投資家などは、ざらにあった。その場合、新たに取得届けを出すのか、出さなくていいのか。いくつも湧く疑問に対し説明のない状態がしばらく続き、外国投資家にいらだちが高まった。筆者にさえ憤懣(ふんまん)をぶつけてきた者がいた。

本件に関しては、立法趣旨について語った文書と、その英訳がある。

https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/tsusho_boeki/anzen_hosho/pdf/20191008001_01.pdf

https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/tsusho_boeki/anzen_hosho/pdf/20191008001_03.pdf

経産省の抱いた危機意識が、それでわかる。戦略的に重要な企業の所有権がいたずらに外国の手に渡らぬよう、早めに規制をかけようとしたものだ。

つとに欧米各国には同趣旨の規制があった。日本はどうやら、急ぎ追いつこうとしたに過ぎないこともうかがわれる。

ところが外為法とは、経産省と財務省が共管する法律だ。機関投資家との接点は金融庁である。以上で関連省庁の数が3つ。

こういう場合よく起きることは、野球にたとえると、外野フライを右翼、中堅、左翼の誰もが「お見合い」するうち、取り損ねてしまう事態である。説明が遅れた事情は、そんなところだったようだ。

結局のところ財務省がボールを拾い、英語での説明を含め基準の明確化にいそしんだ結果、機関投資家に関していう限り、現状と大差のないことが分かって一時の混乱は収束した。だとしても、避け得た混乱、招くべきでなかった疑いだった。

法律改正を国会にかけるとなると、およそ役所が割くことができるほどの人的資源は、国会対策に全てもっていかれる。外国投資家の視線に立ってその懸念を先取りしたうえ、法案が閣議を通った頃を狙って主要金融市場に事前広報をかけるなど、外国人投資家が日本市場に占める比重に照らすなら、当然してほしかったところだ。

できなかった理由は、その必要を思いつくこと自体なかったか、仮にやりたいと思っても、そのため充当できる人材や予算がなかったか。おそらくそのどちらでもあっただろう。

安全への説明、外国人は門前払い?

民間企業に目を移してみる。例えば東京電力の対外コミュニケーションズ能力に、われわれは果たして裨益してきただろうか。

知りたい向きは、東電のウェブサイトに行き、英語のページで、例えば「tritium」をキーワードとしてサイト内を検索してみるといい。

先頭に出てくるのは、本稿執筆時点で、どうしてだか2013年2月28日付の資料だ。見ると、トリチウムについての説明は詳しいけれど、これが水や大気に出たあと生物や人体に及ぼす影響の有無について明快さに欠ける。

7年近く経ったいまの見解はどうなのか。影響などなきに等しいことをきちんと書いてあるかを確かめたくても、対象期間を区切った検索ができないからすぐにはわからない。そんな時、人は説明を拒まれ、門前払いされたという意識を抱く。

隣国の韓国は先ごろ、日本は福島第1原発事故の影響を免れておらず、その食材は危険で、オリンピック・パラリンピックを開く東京も危ないと言わんばかりのネガティブキャンペーンを繰り出した。

韓国にある原発のうち、排水が含む放射性物質が比較的少ないのは月城原発だという。ところが、その月城原発が日本海に出す放射性物質は、福島第1原発の場合と比べ100倍、いや150倍以上(年間総量、いずれもトリチウム換算)だとの説を最近聞いた。

いずれにせよ海に出る放射性物質の多くがトリチウムだとするなら、生物界に及ぼす影響は無視してよいことを裏書きする話だ。福島を汚染源として東京、ひいては日本中が汚れているかに言われねばならぬ筋合いは、まるでないことになる。

韓国批判の前線に立てと、東京電力に迫る人など多くはあるまい。だとしても、同社英語ホームページからたどれる「処理水ポータルサイト」を見たところで、いま現在、海に放射性物質がいかほど出つつあるのか、一目で諒解できる説明のないのはどうしたものか。韓国はじめ外国のヴューアーを意識して説明する責めを、同社は負わなくていいのか。疑念は残る。

八方美人になりたいという「落とし穴」

とここまで記したところで付記しておくと、筆者自身、日本の対外PRに意を砕くことを自らに課してきた。英BBC放送などに請われるまま、彼らのニュース番組に(最近はもっぱらスカイプ経由で)ライブ出演し、日本の立場を熱弁してきたその頻度においてなら、人後に落ちない。報酬はおろか、誰の承認も期待できない。それでいて、脂汗や冷や汗だけはしこたまかく営為を長年続けてきた。

ゆえに今回記すのは、批評家然として言っているのではない。主張は実務家の端くれとしてなすもので、しばしば懺悔に近い。そこをあらかじめお断りし、指摘したいのは三点だ。

一は、既に指摘を終えた。発想がともすると日本語空間で完結し、必要な情報を英語にする運動神経に欠けることだ。二は、誰からも好かれたいとする性向が日本にあるということ。三は、歴史を引き合いに批判された場合、及び腰になることだ。

人も国も、疎まれるより好まれた方がいい。世界中で8割方に支持され、良い国だと思われていることは、日本にとって貴重な外交資産だ(前回記事参照)。

けれども資産とは、所詮は手段。どう運用し、投資するか。外交の場合、資産を用いてどんな国益をいかに満たすか。それこそが問題となるはずなのに、人気取り自体が目的化する本末転倒に陥りやすい。皆に満遍なく好かれたがるそんな国に、外交という利害の選択を伴うわざは果たして可能なのか。

甲国も乙国も親日国である場合、にもかかわらず日本の国益、国柄からすると甲乙間の優先をはっきりさせねばならない状況は、ままある。そんな時、どちらにも良い顔をしたがるところがわれわれにはある。挙句、きちんとモノを言わなくてはならない場合、論点をぼかす、言を左右にするなど、コミュニケーターとしてあるまじき対応をしてしまうことにもなりかねない。

日本の信じる「価値」の重要性

おのれの信じる価値体系についてそもそも言葉少なだった戦後の長い期間は、それでも大過はなかった。いまの日本は違う。

民主主義は、どの国のそれも完成品というより仕掛品(ワーク・イン・プログレス)であって、日本のものも例に漏れない。だとしても、これを育てた年月は短くない。明治天皇が「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」と言われた明治元年から数えるならはるかに長い間、途中大いなる蹉跌はあったにせよ、制度に堅牢をもたらして今日に至る。思想犯など一人として存在しないのが当たり前だという現代日本の達成は、中国などと尖鋭な対照をなすところだ。

安倍晋三首相の外交は、自由、民主主義、人権、法の支配といった価値にもとづく制度の体系に普遍妥当性を主張し、旗幟を鮮明にした。これは筆者のみるところ、日本がなした新時代の「アイデンティティ・ポリティクス」だ。日本は、身の丈にふさわしい自我意識を、ようやく外交に託せるまでに至った。

ここからは、例えば甲国が押しも押されもせぬ民主主義国、乙国はそうでない場合、両者間に文字通り甲乙つける尺度がはっきりしてくるはずで、そうでなくてはおかしい。いずれも親日国、双方ともに好かれているといって甲乙どちらにもいい顔をすると、自分を偽り、喪失する所業となる。

ここで、留保が二つある。実際の外交で、甲を取って乙を捨てるごときあからさまな挙に出るのは愚策であって、交際態度には工夫があってしかるべきだ。それでも、内なる価値尺度まで融通無碍にし、物事の軽重を見誤るべきではない。

第二に民主主義とは永遠の仕掛品であるのみならず、その閲歴に皮肉な過去があることを弁えておきたい。民主主義は植民地帝国主義と幸福に同居した。人種主義と共存した時期もついこの間まで続いた。実体験としてそれを記憶する人々は、世界にまだ少なからず存在する。そんな相手に民主主義を説きたいなら、当然にも委曲を尽くす必要がある。

「世界からの評価」と、それに伴う責任

安倍首相は二度目の在任7年超の間に、自由で開かれ、法の支配が貫徹する世界秩序の旗手――いまやその数少ない一人とみなされるに至った。よい証拠は2019年9月、ベルギー・ブリュッセルの欧州連合(EU)本部を訪れ、「日EU戦略的パートナーシップ協定」について語った安倍総理の演説だ。

https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2019/0927eforum.html

英文は

https://japan.kantei.go.jp/98_abe/statement/201909/_00003.html

欧州側からの揺るぎない信頼を背にして初めて発することのできた言葉を、そこには読みとることができる。

安倍首相が得た信認は、なるほど安倍晋三という個人の得たものではある。けれども土台には、日本と、日本国民が勝ち得た信頼がある。「自由と民主主義のフロントランナーである」とは、日本がようやくこの手につかんだ評価だ。思えば明治の開国以来一世紀半、悲願成就である。

だとするとそこには代償が伴う。甲乙つけずに済んだところが、そうはいかなくなる。ここで口ごもり、態度を曖昧にし続けるなら、せっかく獲得したアイデンティティに再び混乱をもたらしかねない。コミュニケーションズ能力が大いに問われてくるところだ。

そうでなくても日本は、対日ネガティブキャンペーンをこととする特定の国々を近隣に持つ。ここで三番目の、最後の論点に移ろう。

「対日攻撃」の構造

批判者の狙いとは往々にして、現代日本の像を暗色に塗るところにある。前回総じて良いと断定した日本にまつわるイメージと、日本国民の自画像とは、これとの緊張関係に立つ力学のもとにある。そして歴史を人質に批判をされた場合、われわれの多くは及び腰になった。それが偽らざるところだ。

対日攻撃のレトリックは、戦後75年に及ぶ日本社会の成熟、制度的充実・透明度の向上などに一切注意を払わない。戦争犯罪の法廷が下した「日本=悪辣非道の侵略者」という断定に時効を認めず、これで現代日本のイメージを決定づけようとする。そこに見られる否定的PRの運動は日本を巻き込み、北米やオーストラリアに及んで、多層的に複雑である。

まず批判の論拠はほとんど常に、日本に発した。例えばいわゆる慰安婦について。朝鮮半島のいたいけな少女を日本は力づく、強制連行したとする主張をなしたのは、日本の吉田清治なる人物だった。

同説を広めた朝日新聞は2014年の8月5日、これを虚偽であったと公式に認め謝罪に及んだけれど、遅きに失した。韓国では吉田説をいまだに真説とし、米国やカナダでいわゆる慰安婦像を設けようとする人々も、これに依拠し続けているからである。

中国の場合はというと、毛沢東が、宿敵国民党を叩いたからだとして、日本軍にことさらな遺恨を抱いていなかったことは広く知られる。ところがその後の中国は鄧小平以降、例えば「731部隊」に日本像を代表させ、対日復仇感情を国民の中に育て続けて今日に至る。その論拠を与え、補強材料を提供したのも、本多勝一、平岡正明はじめ日本の文筆家たちだった。

日本発の言説は中国、韓国に浸透し、カナダ、米国、オーストラリアに拡散した。各国に住む韓国系、中国系移民のうち対日非難をこととする人々は、経済力をつけ、市民権を得て地元政治への発言力を身につけた。ソーシャルメディアの隆盛ともあいまって、国境をまたがるネットワークを築いた。つまり日本を悪しざまにいう勢力は、日本内外に入り組み、互いに連携強化しあっている。ひとつ紐を引くとスルスルほどける類のものではない。

日本とアジア諸国を分断させない努力を

これに対抗することを東京からの訓電で命じられた日本の外交官たちは、歴史的知識がそれほど豊富ではないうえに、ゴールが明示されない闘いにひるんだ。据えつけられた慰安婦像を、動かせ、あわよくば撤去させろと、訓令が明文で要求していたかは知らない。そんなことが果たしてできるかと、途方に暮れた者はかなりの数に上ったのではないか。それも手伝ってだろう、アクションが不首尾に終わる場合の理由付けに、いろいろ種類が生まれた。

 ――下手にさわると俗にいう藪蛇(やぶへび)となり、かえって無関心層の興味を惹起しかねない。

 ――男性兵士が若い女性を組み敷く様は、今日の価値観からして想像するさえおぞましく、事実誤認を言い立てようにも多勢に無勢だ。

などと理屈はいろいろに立ったけれど、要はさわらぬ神に祟りなしの態度に帰着した。この性向は、今もなくなったといえない。では、これからどうすればいいのだろうか。

私見によれば、対応はミクロ的なそれ、マクロ的な対処の二段に分かれる。まずミクロの方から。吉田証言に依拠する言説にもとづく慰安婦像が、在米韓国人が多く住む地域で建つかもしれない場合、現地の本邦外交官はいち早くその情報を捕捉しなければならない。それには日頃から地元社会に深い人脈を築いている必要がある。けだし外交官として基本中の基本作業で、それへの献身ぶりが問われる。

像は効果として、日本の企業派遣者とその子どもたち、一般に在米アジア人コミュニティに対し、分断のクサビとなる。許していいのかということを、日頃から諄々と説いておく必要がある。これも日常交わす会話の質と量が一定水準以上に及んで初めてできること、外交官としてその能力の有無が違いとなって表れるところだ。日本の立場を擁護し、代弁してくれる論者が現地にいればなおいい。その割り出しなど、一朝一夕にはできない。ここでも地道な努力が要る。と、そんなふうに考えるなら、外交官諸氏には光が見えるだろう。

虚説にもとづく対日批判の像をつくらせ放題にしていては、日本国民の自尊心を不必要に傷つける。機嫌がよかったはずの日本人は、ためにとげとげしい、余裕の乏しい人間集団にならぬとも限らない。そんな日本にしない一助を自分は担うのだと考えるなら、そこにやりがいを見いだせよう。そのため必要な努力とは、外交官としてなすべき基本に弛まず徹すことだ。すなわち彼らにとっては、初心に帰りさえすればよいことである。

中国との「間合い」がカギ

より高次、マクロの次元で言えるのは、対日攻撃をもっぱらとしがちな中国と韓国に、共同戦線を張らせないことの大切さだ。

ここ2~3年の顕著な傾向として、中国が対日批判を抑えぎみである点が指摘できる。その間に日本は東シナ海、南シナ海に関して譲らなかった。ウイグルの人々に対する処遇、香港の状況について、安倍首相は中国首脳部に懸念を累次、直接伝えた。「一帯一路」構想には、G20の場で債務安定性や透明性確保を促すなど、中国に対し、日本は特段の妥協をこの間何もしていない。

一方で、首相は自衛隊合憲化のための憲法改正案を提起した。政権は海自護衛艦に戦闘機運用能力をもたせ、スタンドオフミサイルの配備に向かうなど、一定のトレンドラインを、むしろ明示してきた。

ところが、これにもかかわらず、あるいはそれゆえに、中国は沈黙を続けた。その理由を考えても、憶測の域を出ることはできない。だが、この中国の沈黙が韓国に影響したということは想像できる。

韓国は、いわゆる慰安婦について日本と結んだ「最終的で不可逆の」合意を反故にした。1965年、日韓国交回復の際、周到にも条約化した紛争解決メカニズムに一顧だにくれない。

ネイバル・エンサイン(海軍旗)として国際的に通用してきた日本の旗を、侵略の象徴と喧伝する。日本が中国やフィリピンで一般市民に犠牲を出した戦いのさなか、韓国は日本の側にいた。そんな事実は、ソウル論壇の俎上に上らないようだ。それでいながら、偶然にか、中国の態度を眺めての上でかはいざ知らず、安倍首相の憲法改正案、日本政府の護衛艦改修案など前述した一連の変化について、韓国は中国と同様にめぼしい言挙げをしていない。

中国と韓国という世界中でこの二国だけといってよい対日ネガティブキャンペーンの実施主体に共同戦線を張らせないためには、中国との間合いをどうもつかがカギになる。汲み取れそうなのは、そんな教訓だ(北朝鮮の国際世論に対する影響力は極めて小さいので、いまは議論の対象としない)。

悲観せず、足りないところを補えばよし

英語の口数が少ない日本。ために誤解を生じがちな国。世界に親日国が多いことは寿ぐべきだとして、誰もに好かれようとすると自分を見失ってしまう、そんな危険をもつ国だと、日本について今回は述べてきた。

歴史を理由に日本の信用を落とそうと図るにおいて熱心な国は、今日の現状では中国と韓国の二国である。その対日批判が明らかな虚説にもとづく場合、看過しては国内に病巣を広げる。米国を主舞台として繰り出される攻勢をよくしのぎ、できれば中和させようとするなら、外交官がその基本に立ち返った地道な努力を営々続けることが必要だとも指摘した。

続けて、中国が対日批判を控える場合、韓国もそれに影響されるらしい事情に照らし、中国との交際において原則を譲らず、日本はもっぱら自力涵養に努めることで、つけいる隙をなるべく先方に与えないことこそ肝要だとの結論を導けよう。

日本に足りない力や技能は枚挙にいとまがない。今回はいくつか具体例を挙げて論じたけれども、最近のPR失敗例として政府、民間企業に材をとるなら、ほかにも挙げるべき例は多い。

といって、悲観論に沈む必要はない。日本はPRにおいてジャイアントの一人である前回見た事実を想い起こすならば、足りないところは、ただ着実に補っていけばよいに過ぎないのだと、われとわが身に言い聞かせることができるわけである。Keep Calm and Carry On. 擱筆しようとして、英国の有名な標語を思い出した。

(注・以上前後2回に分け掲載した本記事における意見や主張は筆者一個のもの。他の機関や個人の見解といかなる関係も持ちません)

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