再考:日本の司法制度

限界を迎えた「正義を独占する検察」

社会

「有罪率99%」という日本の刑事司法では、検察の判断イコール司法の判断という構図がまかり通ってきた。だが、元検事で特捜も経験した筆者は「検察は『全知全能の神』ではでない」と指摘し、人質司法の実態を強く批判する。

検察の判断は「常に適切」が前提

日本の検察官は、刑事事件を起訴する権限を独占している。犯罪事実が認められる場合であっても起訴猶予処分とし、起訴しないで済ますこともできる。職権行使の独立性が尊重され、外部からの干渉を受けず、起訴・不起訴の理由について説明責任を負わず、不起訴の理由の根拠となる証拠を開示する義務もない。

そして、検察が起訴した事件について、有罪率は99%を超え、検察の判断がそのまま司法判断になるという意味で、検察は、刑事司法の「正義」を独占していると言える。それが、海外から奇異に感じられ、理解し難いとされる「有罪率99%超」「人質司法」などの背景にもなっている。

有罪率については、「検察官が起訴する事件割合は37%である。有罪率99.3%というのは、起訴した件数を分母にした有罪判決者数の率で、事件を犯した者の総数を分母にしていないので、それは高い数字にならざるを得ない」というのが法務省の説明だ。それは、検察官が刑事処分について、全て「適切な判断」を行うことを前提としている。その検察官の「適切な判断」を担保するため、検察の組織内で上司による何段階もの「決裁」を経て、刑事処分が決定される。

それに対して裁判所の役割は、「常に適切に」行われているはずの検察の判断に「誤り」や「見落とし」がないかどうかをチェックすることにとどまる。検察の判断を否定することになる「無罪判決」を出すことのハードルは高く、それが有罪率99%超という数字につながっている。

検察官が諸般の事情を評価して起訴猶予処分にすることもあり、起訴されても犯罪事実を認めれば、初犯者なら原則として執行猶予になる。検察の判断を全面的に受け入れた被疑者に恩恵が大きいため、日本では先進諸外国と比較して自白率が高い。

逮捕イコール「犯罪者」:無実を訴える被告は長期拘束に

このような日本の刑事司法は国民性・社会風土に適合し、基本的にうまく機能し、良好な治安が維持されてきた。

しかし、検察がもし判断を誤り無実の者が起訴された場合、日本の刑事裁判では、無罪判決による救済は困難を極める。検察が「正義」を独占する日本の刑事司法では、「推定無罪の原則」が著しく軽視されている。

それが端的に表れるのが、起訴された被告人が公訴事実を否認し無罪を主張する場合に、身柄拘束の長期化などの著しい人権侵害が行われ、自白や無罪主張の断念に追い込まれるという「人質司法」である。日本における公正な裁判を妨げる重大な問題だ。

本来、被疑者の身柄拘束は「逃亡のおそれ」「罪証隠滅のおそれ」がある場合に、それを防止するための手段に過ぎない。しかし、日本では、逮捕によって「犯罪者としての烙(らく)印」が押され、検察官の起訴によって烙印は確定的なものとなる。

もともと「自白率」が極めて高い日本では、起訴事実を否認して潔白を訴える者は「犯罪者であるのに反省悔悟もしない人間」と見られる。それを社会に戻せば再犯を行うかもしれないという「社会防衛的な観点」から、被疑者・被告人の身柄拘束の長期化が容認される傾向がある。それが、日本社会において、「人質司法」が一般的に許容されることにつながってきた。

それは、検察の判断が常に適切に行われることへの信頼を前提にしているのであるが、実際には検察官が判断を誤り、冤(えん)罪で逮捕・起訴することもある。その場合、逮捕・起訴された人間にとって、「人質司法」は理不尽極まりない苛酷な人権侵害となる。

そのような一般事件における「人質司法」とは性格が異なるのが、特捜部の事件における「特捜的人質司法」だ。

特捜事件の特殊な構造

日本では、犯人を検挙し、逮捕するのは原則として警察であり、捜査段階での検察官の役割は警察が検挙した事件や犯人の送致を受けて捜査の適法性や証拠を評価し、身柄拘束の要否を判断し、起訴・不起訴を決定することだ。

しかし、例外的に検察官が独自に捜査をして、被疑者の逮捕・捜索から起訴までの手続きを全て行うことがある。それを「検察独自捜査」と呼ぶ。そのための組織として、東京、大阪、名古屋の3地検に特別捜査部(特捜部)が置かれている。検察独自捜査においては、刑事事件として立件するか否かを判断し、自ら裁判所に令状を請求して逮捕・捜索等の強制捜査を行い、取り調べをした上で、その事件の起訴・不起訴を決定する。つまり、捜査から起訴までの全ての判断を検察官だけで行う。

このような特捜部の事件には「被害」「被害者」はない。殺人・強盗・窃盗等の一般的な犯罪であれば、被害が発生したことを把握した時点で警察が捜査に着手するが、特捜部が手掛ける刑事事件は、そのような「被害」とは無関係な贈収賄・政治資金規正法違反・脱税・金融商品取引法違反など、いずれも国家的・社会的法益の侵害を理由に立件される犯罪だ。

「政界・財界等の重要人物」を対象に強制捜査に着手すれば、重大な社会的影響が生じるだけに、上級庁にも報告し組織内で慎重な検討が行われた上で決定されるという「建前」だが、逮捕した後に想定していなかった証拠上や法律上の問題が明らかになることもある。しかし、有罪立証に疑問が生じても、検察が起訴を断念することはまずない。組織として行った逮捕の判断が誤りであったこと認めることになるからである。

そして特捜事件では、起訴した以上、検察は何が何でも有罪判決となるよう組織として全力を尽くすことになる。特捜部の事件で無罪となる可能性は著しく低く、仮に一審で無罪判決となっても、一層検察寄りの上級裁判所が一審判決を覆し、有罪となる場合がほとんどだ。

 「人質司法」の責任の一端は裁判所にも

このような特捜事件において、「人質司法」は有罪判決を得るための検察の「武器」として使われる。検察は被告人が無罪を主張する場合、「保釈されれば立証が困難になる」として強硬に反対し続ける。裁判所も多くの場合、検察官の反対意見に従う。そのため長期の身柄を免れようと思えば、検察官の判断を受け入れて無罪主張を断念せざるを得ないということになる。

過去に特捜部が起訴した事件で、全面否認の被告人が長期にわたって勾留される事例として、あっせん収賄事件等の鈴木宗男氏の437日、外務省支援委員会背任事件での佐藤優氏の512日などがある。最近ではオリンパス粉飾決算事件の共犯として起訴された横尾宣政氏が全面無罪を主張し、950日にわたって勾留された。これらの「人質司法」の事件は、ことごとく有罪判決の確定で決着している。

検察の強硬な反対意見を受けて保釈不許可の判断をするのは裁判所であり、長期勾留の責任は形式上は裁判所にある。そのため勾留が長期化した事件では、裁判所は不当勾留の責任が生じかねない無罪判決を避けようとする。結局、「人質司法」の事件はほとんどが有罪判決で決着するのである。

村木氏の無罪判決:検察は「全知全能」ではない

その唯一の例外が、厚生労働省の村木厚子局長が大阪地検特捜部に逮捕・起訴された事件だった。2010年9月に一審無罪判決が出て、検察が控訴を断念して無罪が確定し、その過程で主任検察官が証拠のフロッピーディスクの改ざんを行っていたことが発覚し、検察は厳しい批判を浴びた。村木氏は起訴事実を全面否認して無罪を主張していたため、164日に長きにわたり勾留され、その後の裁判で「冤罪」が証明された。特捜事件で「人質司法による冤罪」が証明された初めての事件だった。

最近の「人質司法による冤罪」の事例として「青梅談合事件」がある。検察官は、捜査段階から全面否認していた被告人の保釈に強硬に反対した。80日間の勾留による苦痛に耐えかねた被告人は、第1回公判で公訴事実を全面的に認め、検察官請求証拠が全て採用され、保釈された。しかし私が弁護人を受任し、第2回公判で全面無罪を主張。その後の弁護活動の結果、19年9月に一審で無罪判決が出された。しかし、「人質司法による冤罪」を確定させたくない検察が控訴したため、事件は控訴審に係属中だ。

検察が常に「適切な判断」をしているのであれば、検察に権限が集中し、「正義」を独占する日本の刑事司法は極めて合理的な制度ということになる。しかし、検察は「全知全能の神」ではでない。しかも、カルロス・ゴーン氏をめぐる事件などのように経済や企業ガバナンスに関する知識が求められる事件、青梅談合事件のような専門分野の知識を必要とする事件においては、検察組織には適切かつ慎重な判断を行うシステムが不十分で、判断が常識に反するものとなることも多い(※1)

検察が「正義」を独占する日本の刑事司法の構図自体が、もはや限界に来ていると言えよう。

バナー写真:障害者割引郵便制度に絡む偽証明書発行事件で無罪が確定。登庁し、多くの職員に迎えられ笑顔を見せる村木厚子厚生労働省元局長(中央)=2010年9月22日、東京・霞が関の厚労省(時事)

(※1) ^ 拙著『「深層」カルロス・ゴーンとの対話 起訴されれば99%超が有罪となる国で』(小学館、2020年)参照

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