「人権外交」と日本の対応

日本外交と人権:戦後76年、問われ続けたアジア諸国への対応

政治・外交

インドネシアや韓国の独裁・専制体制、日韓関係を揺さぶった金大中事件、1989年の中国・天安門事件…。戦後アジア諸国で起きた人権問題をめぐり、日本外交はどのように向き合ってきたかを振り返る。

戦後初期の「人権」

戦後日本において人権という言葉は、どのように用いられてきたのだろうか。新聞データベースに目を通すと、終戦当日の1945年8月15日、ポツダム宣言受諾を報じる記事で、降伏受諾後の日本について、「宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」と同宣言の内容に触れているのが最初となる(『朝日新聞』45年8月15日)。その後は「血に彩られた“特高”の足跡 文化も人権も蹂躙、言語に絶する拷問」(同10月7日)など、戦前、戦時中の人権弾圧を指弾する記事がつづき、「嫁の人権」と題して「わが国はどこでも民主主義化を急いでいますが、家庭における封建思想について何の批判もされていないのはどういうわけでしょうか」(『毎日新聞』45年11月14日)といった投稿にも戦後初期の息吹を感じる。

国際的に見れば、48年12月には第3回の国連総会で「世界人権宣言」が採択されている。その後、同宣言に法的拘束力をもたせるものとして国際人権規約が定められ、日本も79年に「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約(社会権規約)」と、「市民的および政治的権利に関する国際規約(自由権規約)を、公務員のストライキ権など一部を留保しつつも批准した。

「開発体制」のアジアと日本

一方で戦後日本外交を人権という観点から見ると、冷戦下におけるアジア諸国との関係で対応が問われることになった。代表的なものとして、インドネシアと韓国への対応を挙げることができよう。インドネシアは1960年代半ばのスハルト政権発足時、そして韓国は70年代の朴正煕政権下の局面だが、スハルトと朴は反共産主義と「上からの」経済開発をセットにした、冷戦期アジアにおける「開発体制」の代表格であった。

まずインドネシアだが、45年に独立宣言を読み上げ「建国の父」となったスカルノ大統領は1960年代半ばには急進化し、中国と連携する「北京=ジャカルタ枢軸」を唱え、既存の大国に牛耳られているとして国連も脱退した。日本は戦争賠償を契機にスカルノと深い関係を築き、日本出身のスカルノの第三夫人、デヴィの存在もパイプとしてスカルノを穏健な路線に引き戻そうと注力する。

しかし65年秋のクーデター未遂、9.30事件によってスカルノ体制は崩壊に向かい、クーデターを鎮圧したスハルト中将が実権を掌握する。その過程で起きたのが党員300万人、同調者850万人と非共産圏最大規模を誇ったインドネシア共産党関係者への虐殺であった。農地解放などをめぐってかねてから共産党と対立していた保守層による共産主義勢力への攻撃を軍が後押しし、軍側の推計でも犠牲者60万人という「20世紀最悪の大量虐殺のひとつ」(米CIAの報告書)となった。

日本外務省の内部文書にも「(反共勢力が)包囲攻撃し軍の銃撃に始まり民衆による放火殺人行われ同村は殆ど全滅状態で死傷者7千人と伝えられる」(外務省外交記録)といった生々しい報告が記録されている。

しかし日本政府は虐殺に表立った反応を示すことはなく、米国とも連携し、タイミングを見計らってスハルト率いる陸軍への援助を開始する。スハルトはスカルノの路線を翻して日米に接近し、1967年にはASEAN(東南アジア諸国連合)も発足する。

結局のところ日本にとって、共産主義勢力を一掃する大虐殺は容認し得る悲劇であったということなのだろう。ポルポト派によるカンボジアの大虐殺は広く知られる一方で、開発体制発足時のインドネシア大虐殺は今日の日本で言及されることも稀である。

金大中事件と日韓関係

もう一方の韓国だが、軍事クーデターで発足した朴政権下の人権抑圧には日本でも厳しい目が向けられていた。その中で起きた起きた金大中事件(1973年8月)は、大統領選挙で朴に迫る得票を得た野党の有力指導者、金大中を韓国の情報機関が白昼、東京都心のホテルから拉致するという荒々しい行為であった。日本政府は主権侵害だとして強く抗議したものの、主権侵害については不問に付す政治決着となった。

事件発生時の自民党内の様子について、党副総裁などを歴任した山崎拓氏に話を聞いたことがある。自民党内の右派系議員が結成した青嵐会で、ある議員は「金大中は今、日本海を漁船に乗せられて運ばれている。間もなく錘(おもり)をつけられて海に投げ込まれて鱶(ふか)に食われる。共産主義者の金大中は我々自由主義者の敵だ。鱶に食われるのは当然だ」と断言した。これに対して山崎氏は手を挙げて「共産主義者だろうと街頭で演説している時に暴漢に襲われそうになったら、命懸けで守るのが自由民主主義者の真価だ。共産主義者を鱶に食わせろというのは暴言だ」と反論して青嵐会を辞めたという(「動乱期に求められる総理の器」『中央公論』2019年2月)。

反共産主義の徹底という「冷戦の論理」を重視するのか、それとも人権尊重という原則を重んじるのか。日本政府の判断はほとんど場合、前者であったが、それは反共産主義というだけで人権抑圧の軍事独裁政権を世界各地で支えた米国の冷戦政策にも通じるものであった。

アジアの興隆と「アジア的価値観」

その後、「東アジアの奇跡」と言われた急成長を経て、1980年代後半には東アジア一円は世界的な経済成長センターと目されるようになる。この自信を背景に唱えられたのが「アジア的価値観」で、その論客であったマレーシアのマハティール首相は、アジアが発展したのは個人の権利ばかりを主張する欧米と異なり、家庭や企業など共同体の調和を重んじる「アジア的価値観」があるからだと説いた。

日本でもこれに共鳴する動きがあったが、その背景には当時の日本が、貿易摩擦で米国からの熾烈な市場開放圧力や「日本異質論」にさらされていたことへの「疲れ」もあっただろう。「異質論」とは、対外閉鎖的で政権交代もない日本は資本主義、民主主義の顔をしているが、異質な存在だという議論である。

89年に中国で天安門事件が起きた際には、欧米で人権抑圧だという糾弾の声があがったのに対して、日本の政界や世論には、戦争の過去を持つ日本がどこまで声高に人権抑圧を批判できるのか、また中国の安定を重視すべきといった論調も根強かった。

天安門事件の2日後、天安門広場の北側を東西に走る長安街で警戒に当たる中国軍戦車部隊。軍の鎮圧作戦で数百人、あるいは数千人のデモ参加者が殺害されたと言われる=1989年6月6日、中国・北京(AFP=時事)
天安門事件の2日後、天安門広場の北側を東西に走る長安街で警戒に当たる中国軍戦車部隊。軍の鎮圧作戦で数百人、あるいは数千人のデモ参加者が殺害されたと言われる=1989年6月6日、中国・北京(AFP=時事)

「国連中心主義」と「自由主義陣営の一員」、そして「アジアの一員」が57年、初の『外交青書』刊行に際して掲げられた日本の「外交三原則」であった。世界人権宣言といった国連を基盤とする普遍的な規範、自由主義陣営が意味する冷戦という現実、そして戦争や植民地支配の過去を持つアジアとどう向き合うのか。戦後日本外交はそれらの間の矛盾に何とか折り合いをつけながら、人権が関わる局面に対応を試みてきたと言えよう。

「価値外交」という転機

このような戦後日本外交の流れからすると、第一次安倍晋三政権(2006-2007年)で打ち出された「価値外交」は斬新なものであった。日本は欧米先進国と人権や民主主義といった「価値」を共有しており、それをアジアに広げ、「自由と繁栄の弧」を作り上げていくという発想には、戦後日本が内包した迷いは皆無である。

対外的に人権や民主主義を強調する安倍首相が、国内では「戦後レジーム」の脱却を掲げたのは矛盾とも見えるが、安倍氏の出発点にあるのは北朝鮮による日本人拉致の問題である。「アベック失踪事件」として一部では北朝鮮の関与もささやかれていたものの、政府も主要メディアも拉致被害者家族の訴えに向き合うことはなかった。

そのような中でいち早くこの問題に関心を寄せたのが国会議員当選後の安倍氏であり、日本の過去を謝罪するばかりで日本人の人権が十分に尊重されていないという不信感が「戦後民主主義」への否定にもつながったのであろう。

2012年に発足した第二次安倍政権は7年8カ月に及び、当初は欧米の一部から歴史修正主義者とも見られた安倍氏は、トランプ米大統領の登場などで国際政治が不安定化する中、自由主義的国際秩序の担い手と評される一幕もあった。

そしてポスト安倍の今日である。日本が人権や民主主義を重んじ、その重要性を対外的にも説くことには、もちろん意義がある。それらが欧米にとどまらない普遍的なものであることを裏打ちする上でも日本の役割は重要である。一方で、人権を含めた「価値」の問題が中国への対抗という文脈でばかり語られる近年の風潮には注意が必要だろう。中国以外にも世界各地に人権抑圧の現実はあり、「対中国」が強調されるあまり、それらが軽く扱われることがあってはなるまい。

また、中国を人権抑圧的な権威主義、日本などをそれに対置される民主主義と位置付けることで、日本は人権尊重や民主主義で万全であるかのような自己満足的な錯覚に陥ることがあってはならない。日本が自らの足元で人権や民主主義の尊重を真摯に深める不断の努力をすることが、人権をめぐる日本の対外的発信に説得力を持たせることになるだろう。

バナー写真:佐藤栄作首相私邸の茶会でお茶を楽しむインドネシアのスハルト大統領夫妻(中央)。右端は佐藤首相、左端は寛子夫人=1968年3月31日、東京都世田谷区(時事)

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