沖縄返還から50年

沖縄の本土復帰50年とこれから:アジア太平洋の安定、繁栄に向けた長期構想を

政治・外交 歴史

長い歴史の中で、沖縄は度々国際政治の動向に振り回されてきた。沖縄返還から5月15日でちょうど半世紀。これまでの歩みを振り返るとともに、筆者は「地域の平和と繁栄の中にある沖縄」実現に向けた政治と外交の取り組みが必要だと指摘する。

沖縄の歩みと日本

沖縄の歩みは日本、中国、アメリカと、諸勢力の動向に影響を受けてきたが、歴史を振り返れば、とりわけ日本が対内的に統一され、その力が外に向かって膨張するときに大きく左右されることになった。その端緒となったのが薩摩による琉球侵攻(1609年)だ。豊臣秀吉は国内で天下統一を果たすと、明国征服も視野に入れて二度にわたって朝鮮出兵を行い、それに前後して琉球王国は薩摩の軍事侵攻を受け、以後、その支配下に組み込まれることになった。

時代を下って明治維新になると、日本国内では幕藩体制が解体されて中央集権化され、朝鮮半島に向けて勢力圏を構築していくが、その過程で琉球王国は解体されて沖縄県となる。

そして太平洋戦争ではその末期に「本土決戦」と「一億玉砕」が呼号される中、米軍は本土侵攻の足掛かりとして1945年3月末、沖縄への上陸を開始し、住民を巻き込んだ熾烈な地上戦によって県民の4人に1人が命を落とした。総力戦が行き着く先の惨劇であった。

本土復帰後の沖縄

戦後においては日本が主権を回復した後も、沖縄は極東における軍事拠点としてアメリカの統治下に留め置かれ、1972年になって日本への施政権返還が実現した。今年はそれから50年目の節目となる。

沖縄には「復帰っ子」という言葉がある。本土復帰の1972年に生まれた子供たちという意味だが、「復帰っ子」ももう50歳になる。ちなみに筆者は68年生まれなので、「復帰っ子」よりも少し上で、両親は沖縄出身だが、私自身は東京で生まれた。父は復帰前の沖縄から本土に進学して、そのまま中央官庁に就職し、私が小学生の時に沖縄に転勤となった。 

当時の沖縄でよく覚えているのは「730」の標語やポスターが街中にあふれていたことだ。「730」とは7月30日のことで、復帰から6年後の78年、7月30日をもって自動車の走る方向がそれまでのアメリカ統治時代の「右側通行」から日本本土と同じ「左側通行」へと切り替えられた。逆走が生じることになったら一大事だ。さまざまな手段で大々的な周知キャンペーンが行われたわけである。

転校する前の東京の小学校では、「沖縄に行くなら毎日、海で泳げるね」と盛んに言われたが、実際には学校にプールがないこともあって泳げる子は少なく、そもそも住んでいた浦添市の海沿いは米軍基地で占められていた。小学校6年の時に新しくプールができたが、側溝からハブが出てきて騒ぎになり、捕獲作業を恐る恐る遠巻きにして皆で見つめた。

当時は本土復帰に伴う、「730」のような移行措置がまだ進行中で、その一方で、米軍統治下で立ち遅れたインフラ整備が「本土並み」を目指して進められていた時代だったのだろう。

復帰20年と復元された首里城

その後、東京に再度転校した私は、大学を卒業後、記者としてNHKに採用された。初任地は沖縄放送局で、1992年、ちょうど復帰20年目の節目だった。NHKでは大河ドラマで薩摩の琉球侵攻を背景とした『琉球の風』が放映されたが、そこには、復帰後に入ってきた受信料制度に未だ十分には馴染みがなく、「本土のもの」と見られがちなNHKを身近に感じてもらいたいという意図もあったようだ。

復帰20年事業の目玉は沖縄戦で灰燼に帰した首里城の復元だった。一年目の記者だった私は「首里城担当」を割り当てられて首里城に関する「町ネタ」を探して歩いた。首里城の跡地には米軍統治時代に琉球大学が建設されていた。同大学はアメリカ各地で建設された大学のモデルを踏襲し、開学後はミシガン州立大学の支援も受けたが、そこには沖縄の人々の心を引き付けるためのアメリカの冷戦戦略という意図もあったという。

その琉球大学が移転した後に首里城は復元されたのだが、初期には米冷戦戦略の所産という色合いもあった琉球大学の跡地に、今度は琉球王国のシンボルであった首里城が日本政府の事業として復元される(首里城公園は国営公園として整備が進められた)。さまざまなものが折り重なって沖縄の歩みが形成されてきたことが、首里の丘にも如実に投影されていた。

復帰20年を機に復元され、記念式典に合わせて公開された首里城正殿=1992年5月15日、沖縄那覇市・首里城公園(時事)
復帰20年を機に復元され、記念式典に合わせて公開された首里城正殿=1992年5月15日、沖縄那覇市・首里城公園(時事)

転機となった1995年

ここまで復帰後の沖縄について、思い出話のようなことを綴ったのは、1995年とそれ以前で、沖縄をめぐる状況や空気が大きく変化したことを痛感するからだ。95年秋、米軍関係者3人が買い物帰りの少女を拉致して暴行を加えた事件は、沖縄の人々の激憤を引き起こした。

復帰前にも同様の事件が繰り返されたが、軍事優先の米軍統治の下では沖縄の人々が泣き寝入りを強いられることも多かった。「日米両政府は今回の事件を『一部の不心得な米兵が起こした不幸な事件』ととらえたが、沖縄県民は『戦後50年繰り返され、米軍基地ある限り続く悲劇の一つ』ととらえた。そこに『温度差』と『認識のズレ』がある」(『琉球新報』1995年9月29日)と、事件の衝撃度をめぐる沖縄と日本政府との落差も大きかった。

10月21日に開かれた事件に抗議する県民大会には、主催者が5万人の参加を見込んだところ、8万5000人(主催者発表)と、県民の15人に一人が参加する復帰以来、最大の抗議集会となった。

米兵の少女暴行事件に抗議して開かれた「沖縄県民総決起大会」=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園(時事)
米兵の少女暴行事件に抗議して開かれた「沖縄県民総決起大会」=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園(時事)

「基地固定化」への危惧

この少女暴行事件を契機として、沖縄の基地問題は一気に国政の重要課題となった。上記の事件に加えて、米ソ冷戦の終結後も広大な沖縄の米軍基地が固定化されることを危惧していた沖縄県の大田昌秀知事が、代理署名拒否に踏み込んだことも大きかった。

沖縄では民有地を接収して建設された基地が多く、地主が提供を拒否した場合には、知事が代理署名をすることによって基地としての強制使用を可能する(その後、法改正によってこの知事の権限はなくなった)。知事が代理署名をしないままだと、契約が切れて米軍基地が不法占拠状態となる可能性が出てくる。

日米両政府は喫緊の対応を迫られるが、その背後には、沖縄の本土復帰が実現したことで沖縄をめぐる問題への関心が薄れ、米軍基地の整理縮小、地元の負担軽減に十分な努力がなされなかったことがある。そのツケがここで一気にまわって来た形だった。

普天間基地の返還合意から政府との対立へ

この事態に、当時の橋本龍太郎首相は1996年4月、米軍普天間基地の返還で米側と合意したことを電撃的に発表した。それまで返還の対象となっていなかった同基地の返還合意は沖縄でも驚きをもって受け止められ、いよいよ日米両政府が沖縄の基地縮小に向けて本腰を入れるかにも見えた。

しかし、この日米合意は代替施設について具体的な見通しを欠いたもので、当初、沖縄の既存の基地内での「ヘリポート」とされたものは、撤去可能な海上基地、そして沖縄本島北部の辺野古沿岸に大規模で恒久的な新基地を建設する計画へと変貌していった。

普天間基地の「返還」が、県内での大規模な新基地建設に転じたことに対する沖縄での反発は、当然強かった。2009年に政権交代を果たした民主党の鳩山由紀夫首相は、この計画を覆して代替施設の「最低でも県外」への移設を掲げたが、政権内の意思統一を図ることもできずにこれを撤回。第二次安倍晋三政権になると、沖縄での強い反発を押し切って埋め立てを開始し、政府に歯向かうばかりの沖縄は「反日的」だといった誹謗中傷まで見られるようになった。

アジア太平洋を映し出す「鏡」として

冷戦後という時代を振り返ると、日本を取り巻く国際環境は次第に不安定化の度合いを強め、北朝鮮核危機に加え、中国との尖閣諸島をめぐる緊張や、近年では台湾有事の可能性もささやかれる。
日本がそれらに対応した態勢を構築するのはある程度は当然だろう。しかし、「台湾有事は日本の有事だ」といった勇ましい声ばかりが政界で発せられ、緊張緩和や対話の努力など、政治本来の役割であるはずの外交を語る声がいかにも少ないのが気にかかる。

仮に日本が「安全保障の論理」一辺倒で覆われ、その旗の下で一致団結を求められる状況になったとしたら、そのひずみを最も強く受けるのは間違いなく沖縄だろう。現実の「有事」が起きるとしたら、その現場は政策決定者のいる東京ではなく、中台に近接し、米軍基地が集中する沖縄だということになりかねない。

北東アジアでは相互信頼関係の不十分さが緊張と軍拡競争を引き起こしかねない情勢だが、その一方でこの地域は今後、急速な高齢化と生産人口の減少に見舞われ、成長の中心は東南アジアや南アジアなど、「若いアジア」へ移っていくと見られる。国力の伸び盛りを相互対立と軍拡に費やした…将来の歴史家にそのように書かれる東アジアであってほしくない。

沖縄はアジア太平洋の地域秩序を映し出す鏡でもある。大国間の対立や戦争で惨禍に見舞われた過去を持つが、平和と繁栄の時代にあっては、その風土や文化の魅力が多くの人を引き付ける。復帰50年から21世紀中葉のこれからに向けて、沖縄の個性と特性が輝くような地域の未来を構想し、展望したいものである。沖縄が「鏡」だとすれば、そのような未来はアジア太平洋全域の安定と繁栄を意味しているはずだ。

バナー写真:米空軍嘉手納基地(沖縄県)を展望デッキから眺める人=2021年10月24日(ロイター)

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