アジアにおける権威主義体制の強靭性と民主主義への遠い道

「ポスト・リー・ファミリー」時代のシンガポール:民主政治の拡大に向けた展望

国際・海外

権威主義的な統治体制が残るアジアの経済立国シンガポール。だが時代の変化と、リー・シェンロン首相の引退が近づく中、「第四世代」の指導者らは漸進的な民主化、自由化を迫られている。

リー・クアンユーの統治・発展モデルという呪縛

1965年にマレーシア連邦から分離・独立を迫られたシンガポールは、19世紀の英領時代から表裏一体のマレー半島という後背地を失った小都市国家となった。この厳しい状況下、「建国の父」リー・クアンユー元首相は、権威主義・エリート主義・功利主義・現実主義を特徴とする統治・発展モデルを構築していった。

政治制度は、表面上は三権分立の法治国家を模したが、実際は人民行動党(PAP)が国会で圧倒的優位を確保し、実質的な独裁政治を敷いた。そして強固な言論統制や社会的自由の制約を駆使し、反対勢力を露骨に封じ込めた。こうした統治体制の下、社会面では実力・優生・効率を過度に重視し、ヒューマニティの欠如した人口・教育・言語・人材・都市設計の諸政策が採用された。経済は、計画・統制・傾斜的な「国家資本主義」で、経済成長と雇用確保の必要から誘致した外資を除き、基幹分野は政府資金を背景とした公営企業群が掌握している。一方で国民への再分配は、2010年代以前は必要最低限に抑えられてきた。

この統治・発展モデルにより、シンガポールは弾力的な行政運営、長期的な経済成長と健全財政の確立、効率的な社会整備、国民への一定の社会保障など、近代国家が本来実現すべき項目を着々と達成した。そして政権は1990年にゴー・チョクトン、2004年にリー・クアンユーの長男リー・シェンロンに受け継がれたが、リー・クアンユーは隠然とした影響力を持ち、従来型モデルをベースに国家発展を追求する政策が踏襲された。

シンガポールのリー・クアンユー元首相=2007年5月撮影(時事)
シンガポールのリー・クアンユー元首相=2007年5月撮影(時事)

シンガポール共和国の歴代首相

リー・クアンユー(1965~90)
ゴー・チョクトン(1990~2004) リー前首相は顧問格の上級相に
リー・シェンロン(2004~) ゴー前首相は上級相、父親のリー元首相は顧問相に(いずれも11年に辞任)

敬称略

21世紀初頭の社会変容と矛盾拡大

しかし、21世紀に入ると、従来型の統治・発展モデルと社会実勢との乖(かい)離が深刻化した。例えば、建国初期の優生学的政策の結果、人口・労働力が減少し、これを補うため導入した移民労働者は1980年の13万人から2010年には130万人に急増し、総人口の約25%を占めた。このため国民生活との競合から、雇用・住宅・物価・社会不和などの問題が連鎖発生し、国民の不満は高まった。一方、2010年前後に1人当りGDPは4万米ドルを越えたが、国民への再分配は低水準に止まり、人々は国家発展の恩恵を実感できずにいた。

一方、従来の統治を支えた情報統制には、インターネットとSNSの登場で変革が起こり、国民、特に若年層は官製メディアに縛られずに情報を得て、自らの考えを形成・発信していった。もはや価値観の多様化は不可逆で、この総体の「民意」という従来にない政治要素が出現した。リー・クアンユーは依然、これをアメとムチで操れると考えており、その認識が技術革新で無効となったことを理解できなかった。

もっとも仮に、政権側に急速な社会変化の現実を認識できる者がいたとしても、統治モデルの根本的修正は、リー・クアンユーの築き上げてきた世界観を否定することであった。このため、リー・クアンユーが隠然とした影響力を持つ中では、リー首相ですら軌道修正は不可能であった。

2011年国会選挙という転換点

皮肉にも変化をもたらした契機は、形式上墨守されてきた議会制民主主義であった。2011年実施の国会選挙では国民の不満が表面化して、PAPの得票率は史上最低の60.1%に落ち、一方で野党は一挙に6議席を得た。建国以来、与党有利の選挙制度や野党弾圧で、野党に最大2議席しか許さなかった「常識」からすれば、これは政権の実質的敗北であった。同年大統領選挙でも、1993年選挙以外は単独候補の無投票当選という慣例を破って4人が出馬し、与党のトニー・タン元副首相は当選したものの、2位との得票率差0.34%の辛勝となった。

一連の結果は政権側に衝撃を与え、従来モデルの墨守がもはや統治上のリスクになることを認識させた。ここに至り、シンガポール政治の重要な行動原理、「現実主義」と「功利主義」が発揮され、リー首相主導の根本的な軌道修正が始まる。国会選挙後にリー首相は演説し、社会と国民に合わせて政府も変化すべきで、政治システムは多様な意見に適応し、開かれる必要があると述べた。続いて、閣内に残っていたリー・クアンユー顧問相とゴー・チョクトン上級相も辞任し、その4年後の2015年3月、リー・クアンユーは「古いシンガポール」の終焉を象徴するように世を去った。

漸進的な自由化

2011年以降、政権は統治モデルの大幅な修正を開始した。例えば、一方的な国勢拡大の追求を見直し、外国人労働力・雇用・住宅・インフラ・物価などの諸問題で、国民に配慮した政策を打ち出した。また、国民への再分配を積極的に実施し、社会福祉や公的補助を急拡大させた。それらは新たな副作用も引き起こしたが、リー首相は「従来われわれを導いた道筋とは違っても、もはや後戻りはない」(13年8月)と強調した。

ただし、統制的な社会管理は継続し、全面的自由化に至っていない。例えば、世論形成に影響力を持ち始めたオンラインニュースサイトには、19年導入のPOFMA(Protection from Online Falsehoods and Manipulation Act=オンライン虚偽情報・情報操作防止法)などの規制や、運営者への公式・非公式な圧力で統制を強めた。また17年の大統領選挙では、11年のような番狂わせを避けるため出馬条件を事前に制限し、与党候補の無投票当選が図られた。この他、リー・クアンユー時代ほどではないが、野党や活動家への圧力、集会や表現の自由への制約も続いている。

もっとも、国民の意識や価値観が変化する中、政権側もその変化に配慮する必要性があり、まして権力濫用に近い政策は、もはや受け容れられないことを理解している。この一例に、同性愛への社会的受容と政権側の変化がある。同国では、リー・クアンユーが同性愛を強く忌避する思想であったため、19世紀植民地時代の男性間性行為への刑事罰(刑法377A)が存在し続け、2010年代も同性愛者集会「ピンク・ドット」への圧力が続いていた。しかし22年8月、リー首相は社会の価値観変化を理由に、同法撤廃を表明している。

「ポスト・リー・ファミリー」時代への世代交代

統治姿勢の変化と並行して、リー首相は自身と政権の後継をめぐる準備を加速し、次世代指導層「第四世代」の育成・登用を進めた。そして、彼が父のリー・クアンユーとは異なり、世襲的・家父長的継承を脱した後継体制を志向した点は、高く評価されるべきである。だが建国以来、「リー」という存在を好むと好まざるとにかかわらず公然の前提にしてきたエリートから庶民、あるいは体制側から反体制側に至る各層が、この転換に追い付けなかったのも事実である。

特に、「リー」というカリスマを前提としない政権継承の成否は、次期首相が「第四世代」のチーム全体を調和させうる人物であるかにかかっている。このため数年の時間をかけ、2018年11月に「第四世代」最年長のヘン・スイーキア財務相(現副首相)が後継者に内定した。しかし、この選定は過去と同様、少数の最上層エリート内で決められ、新たな政治要素である「民意」の視座が欠落していた。

このためリー父子の安定感に慣れた国民には、ヘン氏の可も不可もない印象と相まって、同氏の人気は高まらなかった。結果、後継体制への実質的信任投票となる20年7月国会選挙で、野党は過去最大の10議席を得た一方、PAPの得票率は過去3番目に低い61.2%にとどまった。しかも、苦戦予想の選挙区にあえて地盤替えで挑んだヘン副首相は、野党との得票率差6.78%の辛勝となった。このため21年4月、ヘン副首相は後継者辞退という異例の表明を行い、迷走の末、22年4月にローレンス・ウォン財務相が次期首相に内定した。

未来への希望

現在49歳のウォン氏は文官出身で、政策スタンスはあくまでも実務的であり、現実のバランスを読み、柔軟に適応するタイプである。これは筆者の見るところ、①リー・ファミリーの世襲を脱し、②国軍を政治要素にしないため軍エリート出身者ではなく、③慣例的に最低10年以上の長期政権を担える年齢で、④現実的で柔軟なバランス感を持ち、⑤同僚たちをまとめる力量を持つ、という要件を満たしている。同氏は22年6月に副首相に昇格し、次期首相としてのコンセンサスも内外で急速に固まりつつある。

この「第四世代」次期政権は、国民の意識変化や多様化への希求、野党の存在拡大が着実に進む中、従来以上に民意への配慮が必要となる。一方で国民の多くも、現体制の急速な変容は負の影響が大きいことを理解している。すなわち、双方には現実主義的なコンセンサスやバランスがあり、それが中短期的に変化しない以上、PAPが多数優位を占める体制の変化、すなわち政権交代は、現状のシンガポールではまず起こり得ない。ただ、かつてのような体制側の絶対支配に戻ることも不可能で、この10年で進行しているように、実情・バランス・速度に配慮しつつ、「開かれた社会」へ移行する流れは不可逆である。

こうした動きは、東南アジア周辺国で大衆扇動や縁故金権の根強い土壌から健全な民主制の発展に至らず、むしろ権威主義の強靭性や復権が顕在化する中、相対的にシンガポールが、成熟した民主主義やリベラルな社会へと漸進的だが移行しつつあり、その信頼性・進歩性が目立ち始めているという点で、非常に興味深い。無論、「開かれた社会」の完成には「第五世代」、あるいはその先までの長い時間と道のりが必要であろう。しかし、それが実現したとき、シンガポールは自らの成功物語を真に証明することになる。

バナー写真:米ホワイトハウスでハリス米副大統領と会談後、報道陣に対応するシンガポールのリー・シェンロン首相=2022年3月29日(AFP=時事)

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