第二次台湾海峡危機から65年

1958年の台湾海峡危機と日本:日米安保改定との関連から高い関心

政治・外交

金門砲撃(第二次台湾海峡危機)は当時、日本でも高い関心を集めた。危機が収束した翌1959年、日米安全保障条約の改定交渉が進む中、中台間の紛争に日本が「巻き込まれるのでは」という懸念からだ。

「台湾有事」がにわかに主要課題になるなど、昨今、台湾海峡に熱い視線が注がれている。かつて、冷戦下の日本でも台湾海峡、そしてそこにある金門島が注目されたことがあった。それは岸信介政権による日米安保改定の交渉過程で生じた、第二次台湾海峡危機を契機としていた。

東アジアの「熱い戦争」と日本

東アジアでは、日本が満州事変を起こした1930年代から少なくともベトナム戦争が終わり、中越戦争が生じた1970年代末まで戦争が継続し、平和の時代が訪れてからようやく全体として経済的に繁栄することになった。東アジアには、「冷戦」というより、まさに「熱い戦争」があったのである。だが1930年代に戦争を発動した日本は、1945年に敗戦すると、それ以後は平和国家だと自認して、戦争には直接関わらないスタンスをとった。

ただ、1951年の旧安保よりもより日本の自立性が高い安全保障条約の締結を求める岸信介政権が、日本の自己負担増、米国との相互性向上などを視野に安全保障条約の改定交渉を進めると、日本国内から強い反対運動が生じることになった。日本社会には、「戦争」そのものへの忌避感と共に、米国との同盟関係が強化されれば、東アジアの「熱い戦争」に日本が「巻き込まれる」のではないかという感覚があったのだろう。

その安保改定交渉の時に生じていた日本周辺の最も深刻な「戦争」は、まさに1958年の第二次台湾海峡危機だった。その「戦争」は、中華民国統治下の金門島が中華人民共和国から砲撃を受け続け、終盤で廈門(アモイ)駅を爆撃するなど中華民国側が一矢報いたものだった。日本のメディアは金門島の戦局を連日報道し、国会でも多く戦況が取り上げられた。日中戦争中は日本が占領してはいたものの、日本社会で従来ほとんど注目されてこなかった金門島が、にわかに脚光を浴びたのである。

金門島と第二次台湾海峡危機

金門島は廈門の目の前にある島で、その周辺の島々と合わせても面積は150平方キロほどに過ぎない。歴史的には科挙官僚を輩出し、また多くの移民を日本や東南アジアに送り出した華僑の故郷、僑郷であった。この島が重要視されたのは、国共内戦当時に敗退を続けて南下を余儀なくされた国民党軍が、1949年10月の金門における古寧頭戦役で共産党軍に対して勝利を収めたことに因る。

金門島は、にわかに連敗中の国民党軍にとっての「勝利の聖地」となり、冷戦期には中国と軍事的に対峙する、まさに軍事最前線となった。国共内戦は、49年10月1日の中華人民共和国の成立を以て終わるのではない。第二次台湾海峡危機の後、軍事対立はやや「儀礼化」するが、それでも軍事緊張が高い状態が続き、79年の台湾からの米軍の台湾からの撤退の後も、公的には91年5月1日の動員戡乱時期臨時条款の廃止によって、中華民国(台湾)が大陸反攻政策を放棄するまで継続していたと言える。大陸反攻を放棄してからは、金門島に対して課せられていた戦時動員体制がようやく解かれ、金門島はむしろ対岸の中国との「交流」の最前線として生まれ変わることになる。

その金門島は、58年8月23日から中国人民解放軍の砲撃にさらされた。その砲弾数は一カ月半で50万発とも言われた。この時期、日本の国会やメディア、論壇でも金門島が取り上げられるようになっていた。岩波書店の『世界』も58年11月号で、「台湾海峡の緊迫と日本」という特集を組んだ。そこでは「中国の本土からわずかに三マイル、台湾からは一〇〇マイル以上も離れた小島金門を守ることが、極東の平和と安全とに必要であるという見解の上に合衆国が対中国軍事行動に出た場合、日米安保条約は、米軍が日本の基地をその行動のために使用することを、いささかでも抑え得ないのである」などとして、旧安保体制に関しても疑義を呈していた。

日米安保改定交渉と金門島

だが、日本で金門島のことがより多く話題になったのは、むしろ第二次台湾海峡危機が収束し、日米安保改定交渉が本格化してからであった。1959年6月27日に『読売新聞』が新安保条約の草案を掲載すると(「新安保条約の草案成る 相互防衛義務を明確化」)、日米間の相互性の向上とともに、「極東の平和と安全」という、いわゆる「極東条項」が旧安保同様に含まれていることが知られることになった。これを受け、国会でも例えば7月3日の衆議院外務委員会で社会党の戸叶里子議員が「極東の平和と安全を守るというその地域は、大体どの程度の範囲」なのかと尋ね、藤山一郎外相が「はっきりしておらぬ」などと回答する一幕があった。

『朝日新聞』もまた、同月26日に、「現行条約と同じように”極東の平和を維持する”という表現が使われようとしているのは、日本が米国とともに広く極東の防衛まで義務づけられる印象を国民に与えるのではないか」(「『極東の平和』に異論 自民外交調査会もむ? 安保改定をめぐって」)などと、極東の範囲についての疑義を呈していた。

10月28日、衆議院の本会議で社会党の浅沼稲次郎は、金門・馬祖での戦闘を事例に挙げながら、「その極東の平和という名において日本が介入させられるような結果を生じやしないかということ」を憂えると述べ、「巻き込まれ」への懸念を強く表明した。11月19日の外務委員会で帆足計も、「日本の基地を利用してアメリカ軍がかりに金門、馬祖の戦いのために福建省なり北京なりを爆撃したといたします。そうすると、従前と違いまして今度ははっきりした相互援助の条約——安保条約が強化されるのでありますから、当然日本の基地は相手国側からの報復爆撃の対象になるわけです。自動的に戦争の中に巻き込まれていくことは必然であります」などと述べて、金門を引き合いに出して「巻き込まれ」の危険性を唱えたのだった。

こうした議論を経て、60年2月26日、政府が統一見解を示し、「極東」とは「大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域であって、韓国及び中華民国の支配下にある地域」だとされた。これは金門島が日米新安保の「極東」に含まれるとしているようなものであった。

その10日ほどの前の2月13日『朝日新聞』(夕刊)に掲載された記事「今日の問題 “極東の不安”」は、「国会の”金門、馬祖”論争に見られる政府の態度ほど、近ごろ不可解なものはない」とし、「一昨年の夏から秋にかけて、台湾海峡の波がはなはだ高かった。事実、中国本土と台湾との戦闘が、その背後にいるソ連とアメリカをまき込むような万一の恐ろしい危険を心配して、日本の世論は現行安保条約の改定交渉を強く支持したのだ」とし、金門周辺などの緊迫した情勢こそが安保条約改定を推し進めたとした。しかし、「日本国民の目には、金門、馬祖は、”極東の平和と安全”どころか、”極東の危険と不安”の象徴として映っている」という。金門・馬祖はもはや「極東の危険と不安」の象徴なのであって、「米華条約でさえ、金門、馬祖両島は含めていない」のに、日米安保がそれを含み、「駐日米軍の出動によって、こうした島々と日本の運命が結び付けられるのは、たまらない。第一何のための改定だったのだと、国民は言いたいのである」として、「極東条項」に強く反発したのだった。

石原裕次郎主演の映画製作も

金門島が「極東の危険と不安」になった、という『朝日新聞』の表現の是非はさておき、日本社会が「金門」を強く意識したことは確かなようだ。1962年11月、日本と台湾(中華民国)の合同映画である『金門島にかける橋(海湾風雲)』(日活、中央電影公司)が公開された。これこそ、日本社会の関心の高さを象徴する映画だろう。

主演は石原裕次郎、華欣だった。石原扮する医師武井一郎と、華欣の演じる楊麗春のラブロマンスだが、台湾本島だけでなく金門島でロケが行われたところが重要だ。武井は、東京で朝鮮戦争の負傷兵の手当てをしていた時に楊に出会っていたが、その武井が現場の医療問題をめぐって病院を追われ、3年後に台湾の高雄で楊と再会、武井が金門島に向かうと楊が追ってくるという物語だ。そのエンディングをめぐって日華(日台)間で色々議論があったことも伝えられているが、いずれにせよ金門が題材となっていることが重要だ。

「金門島にかける橋」というタイトルが、泰緬鉄道を題材とした「戦場にかける橋」をモチーフにしていることは容易に想像がつく。これは、当時の日本社会においても、「金門島=戦場」という認識、すなわち「熱い戦争」の象徴としての金門認識があったものと思われる。

だが、その後、日本社会で金門島が話題に上ることはあまりなくなっていく。2010年代に安保論議が再燃して、「巻き込まれ」論が議論されるが、その時はもう金門島が最前線という認識はなく、むしろ台湾本島を視野に入れた「台湾有事」が念頭に置かれるようになっていたのであった。

バナー写真:金門島の海岸に今も残る、中国人民解放軍の上陸を防ぐための防衛柵。鉄道のレールを鋭い棒状に切って使っている(PIXTA)

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