第二次台湾海峡危機から65年

砲撃が降りそそぐ“最前線”から中台の結節点に:金門島がたどった変遷

国際・海外 政治・外交 歴史

1949年の人民解放軍侵攻から40年以上に渡り、金門・馬祖は中台対立の最前線として「戦時体制」下にあった。58年の第二次台湾海峡危機を中心に、その数奇な歴史を振り返る。

華僑を多く輩出した地が中台対立の前線に

金門島はかつて浯洲(ごしゅう)、浯江(ごこう)などと呼ばれていた、大金門島、烈嶼(小金門島)、大胆島、二胆島で構成された列島だ。歴史的に「固若金湯、雄鎮海門(金城湯池のように守りが固く、海防の門を雄々しく守る)」と評されてきた。17世紀半ばからアモイ湾周辺海域だけでなく、台湾海峡防衛に関しても重要な戦略的拠点であった。

1860年代以降、多くの金門出身者が東アジアの港町、そして日本の長崎や神戸に華僑として定住した。しかし1949年以降は、金門は国共対立と冷戦の最前線へと変わった。「戦地政務」と呼ばれる政策(※1)が56年から92年まで続いた。金門の政治、経済、社会と街並みは高度に軍事化し、冷戦期には第一列島線の最前線となった。

金門島の水頭集落
金門島の水頭集落

49年10月24日深夜。中国共産党の人民解放軍が海を渡って金門島に侵攻した。激戦区となった古寧頭一帯では3日間の攻防の末、ここでは中華民国軍が国共内戦以来の数少ない勝利を収めた。蒋介石はこの戦いを「大陸の中華民国が、台湾に来て立てた礎石である」とし、蒋経国も「死を覚悟したからこその反撃」「敗北を勝利に変えた、反撃と祖国奪還への『ターニングポイント』」と評価した。

50年6月に朝鮮戦争が勃発し、中国共産党が「抗美援朝(米国と戦い、朝鮮を助ける)」を標榜すると、米国は見捨てていた蒋介石への態度を一変させ、中華民国を支持するようになった。7月、中国共産党は大胆島での戦いに敗北。以後、二十数年間は上陸作戦を行わず、砲撃が攻撃の中心となった。54年9月には人民解放軍が金門島を砲撃し、いわゆる「第一次台湾海峡危機(台湾での呼称は「九三砲戦」)」が勃発した。同危機は、55年4月のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)で周恩来が台湾海峡の緊張解消のために米国と交渉するという意思を表明するまで続いた。54年12月に米国は中華民国と米華相互防衛条約を締結し、軍事同盟関係を確立した。

金門島の海岸に残る、敵の上陸を防ぐための「軌条砦」
金門島の海岸に残る、敵の上陸を防ぐための「軌条砦」

40万発以上の砲撃

同条約の有効性を試すかのように、中国共産党は金門への砲撃のほか、当時、国民党政府が支配していた中国大陸の沿岸諸島への砲撃を行った。1955年1月18日、浙江省沿岸の大陳列島・一江山島への侵攻だ。大陳島は人民解放軍の大砲の射程内に入り、さらに空軍による爆撃が続いていた。2月、中華民国政府は米第七艦隊の協力のもと大陳島の軍と民間人を台湾へと引き揚げさせた。こうして中国共産党は浙江省沿岸の島々を全て占領し、中華民国の支配地は台湾のほかは福建省沿岸の金門島と馬祖島を残すのみになった。このほか、米議会で55年1月に「台湾決議(フォルモサ決議案 / Formosa Resolution)が通過。この決議は大統領に台湾及びその固有の領土である島々を保護するための軍派遣権限を与え、金門島と馬祖島も防衛の対象とした。

58年夏、中国共産党は福建省の沿岸地区で一連の軍事作戦を開始した。陸海空から金門島への攻撃及び、中華民国軍の封鎖を試みた。8月23日18時30分、人民解放軍が金門島への砲撃を開始した。同日20時20分までに3300発の砲弾が発射されたと見られている。当時、米太平洋司令部と米軍の軍事援助顧問団が出した結論は、「Kinmen out(金門は終わった)」だった。後の研究と統計によると、人民解放軍は340門の大砲を金門の対岸に設置し、2時間で5万7533発の砲弾を発射したと見られている。10月6日、人民解放軍が1週間の停戦を宣言するまでに、合計47万4910発が打ち込まれた。これが第二次台湾海峡危機だ。(台湾での呼称は「八二三砲戦」)

古寧頭三角砦に展示された戦車
古寧頭三角砦に展示された戦車

第二次台湾海峡危機で、中国共産党は米国の反応を見ていた。米海軍作戦部長は、砲撃から24時間以内に第七艦隊に対し台湾海峡に入り台湾を援護するよう命令した。10月5日、中国の国防部長・彭徳懐は金門への軍事作戦に関し7日間の停戦を発表。彭は翌6日に「台湾同胞への書簡」で「1日砲撃、2日停戦」を宣言し、段階的に停戦するに至った。こうして台湾海峡危機は新たな局面に入った。この危機は一種の象徴的な戦争として、1979年に中華人民共和国が米国と国交を樹立するまで続いた。

54年と58年の二度の台湾海峡危機で、金門島は台湾における中華民国の存続問題についての当事者としてだけではなく、共産圏拡大を阻止するための要衝とみなされていた。これはダレス米国務長官が58年に「金門と馬祖を含む沿海の島々は中華民国にとって極めて重大な意義を持つ。それは西側にとってのベルリンの重要性と変わらない」と語ったことからも見て取れる。

今も残る戦時体制の「遺産」

冷戦中、金門は内政的には軍事政権の正当性を主張するための「三民主義の模範県」とされ、外政的には中国共産党支配下の中国と一線を画す「自由世界の旗印」となった。

戦地政務では「管、教、養、衛」(※2)の実践が提唱された。これは、政府が政治、教育、経済、軍事の四大レベルで全面的に軍事動員、社会統制、経済開発、イデオロギー教育を行い、外政的には中国共産党の軍事脅威へ対抗し、内政的には反対の声を抑え込み、政治上の障害を減らして戦場の主導権を握ろうとするものだ。

住宅の壁に貼られた軍事スローガン
住宅の壁に貼られた軍事スローガン

多数の舞台が駐屯することで島の男女の人口バランスは崩れ、かつては「特約茶室」(もしくは「軍中楽園」)と呼ばれた慰安婦制度も存在した。道路のシステム、軍の指導者の名を冠した学校、金門コーリャン酒産業など、このようなかつての戦場遺産は、現在は島外の人間が金門を歴史を知る観光資源となっている。

台湾では1987年に戒厳令が解除された。金門島と馬祖の戦地政務が解除されたのは、その5年後の92年だ。事実上、台湾の戒厳令解除と民主化の歴史は世界の冷戦と地政学の再編に呼応していた。しかし、金門と馬祖が真の意味で解放されたのは95年だ。金門では「金門国家公園」が、馬祖には「馬祖国家風景区」が整備され、戦場の資源を保全し、観光業を発展させることで地域経済の活性化が図られた。

両岸往来の結節点に

2001年から、台湾政府は「小三通」と呼ばれる金門とアモイ、泉州間の定期便を開通させ、金門の地域社会に大きな影響を与えている。台湾の国内線と海峡フェリーを組み合わせたこのルートは台湾のビジネスマンや旅行客にとって両岸を往来するための新たな選択肢となった。(それまでは香港やマカオを経由した空路しかなかった)

小三通は開通以来、便数も利用客も顕著な伸びを見せている。新型コロナウイルス流行前の18年、小三通経由の入境者は延べ98万3537人。そのうち55万216人が台湾人、41万237人が中国人、2万3084人がその他外国籍の人だ。このような状況下で、金門の運輸業、小売業、民宿及び関連サービス業は大きく成長した。

金門県の登録人口は22年に14万人を突破し、澎湖県を超えるに至った。18年には福建省晋江からの給水が始まった。水の購入契約は30年だ。当面、島民は生活用水と工業用水の不足に悩むことはなくなる。金門は両岸往来の結節点なのだ。改めて金門の歴史的、地理的な中間性(In-Betweenity)が浮き彫りになった。

大金門と烈嶼(小金門)をつなぐ金門大橋
大金門と烈嶼(小金門)をつなぐ金門大橋

元々、金門は福建省南方の閩南地域に属する。しかし49年以降、東西対立という政治的現実によって歴史的、地理的な系譜から切り離され、台湾海峡の東約200海里先にある台湾の管轄地となった。

金門列島は戦争によって傷つけられてきた。現在、島のあちこちに掲げられている「戦争無情、和平無價(戦争は無情、平和は尊い)」というスローガンがそれを物語る。金門はいかにして平和と和解(peace and reconciliation)の中間の島になり、異なる価値観での相互理解、紛争解決、十分な対話の担い手になったのか。これは台湾、東アジア、そして全世界に対する大切な教えである。

東アジアの平和は、安倍晋三元首相が指摘したように「台湾有事は日本有事、すなわち日米同盟有事」と連動している。過去2回の台湾海峡危機の歴史を振り返ると、「金門有事は台湾有事、台湾有事はすなわち東アジア有事、そして世界有事」という事実が浮かび上がってくる。金門は中国大陸に最も近い自由世界だ。その過去の軍事的役割と未来の平和的役割は、まさにこの瞬間に再評価され、重んじられるべきである。

烈嶼(小金門島)から見る廈門の夜景
烈嶼(小金門島)から見る廈門の夜景

原文は中国語(繁体字)。バナー写真:金門島の新頭ビーチ近くにある「八二三戦役」(第二次台湾海峡危機の金門島砲撃戦)を記録する戦史館(バナー写真、文中写真は全て筆者提供)

(※1) ^ 1956年から中華民国政府が金門と馬祖に対し実施した政策。現地での軍と政務を一元化し、住民に対し戦時動員が行われた。

(※2) ^ 最前線の住民が一丸となって防衛、また共産思想の排除のために実践すべきとされた4つの項目。それぞれ「管」=社会の秩序の管理、「教」=教育、「養」=生産(自給自足の促進)、「衛」=自衛を表す。

歴史 台湾 軍事 台湾有事 中台関係