関東大震災から100年

関東大震災における中国人「虐殺」事件―国際労働力移動の観点から

歴史 社会

関東大震災(1923年)の混乱の中、朝鮮半島の出身者とともに、中国からの出稼ぎ労働者らも「虐殺」事件の犠牲となった。当時は第一次世界大戦後の不況で、中国人労働者の処遇をめぐって日本社会に大きな軋轢(あつれき)が生じていた。

関東大震災と中国人「虐殺」事件

1923年9月1日、関東大震災が発生した。この未曾有の大災害は国際関係にも影響を与えることになった。日中関係では、もともと中国での旅順大連(関東州)返還運動(旅大回収運動)などの排日運動が盛んであったが、同年7月には比較的低調になっていたこともあり、震災に際して日本支援の声が少なからず上がった。しかし、震災に際して発生した中国人労働者虐殺事件や僑日共済会の王希天殺害事件のことが、上海に帰国した僑日共済会の王兆澄らによって中国に伝えられると、日本批判が強まることになって、中国政府も調査団を日本に派遣して日本政府との交渉を行うことにもなった。

日本政府もこのような事態が生じていたことは把握していた。ただ、日本政府としては震災当時の「異常事態」の中で生じた「流言飛語」などに由来する「事故」だと位置付けようとしていた。特に朝鮮半島出身者に対する殺害事件と、中国人に対するそれの関連性を指摘する指摘が多くなされていたことがその背景にあろう。王希天殺害については別途調査が行われていた。1923年末には中国(北京政府)から調査団が派遣され、およそ被害については判明していたものの、その原因と責任については日本側との間で交渉が継続されることになったのだった。このことは拙稿「関東大震災と中国外交-北京政府外交部の対応を中心に」(『中国現代史研究』4号、1999年)で述べた通りだ。

中国人の犠牲者が最も多かったのは東京の大島(現在の江東区大島町とその一帯)であり、そのほとんどが浙江省温州の近郊農村からきた出稼ぎ労働者であった。また、この犠牲者について調査していた僑日共済会の王希天が殺害されたことも広く知られていた。虐殺事件の背景には、民族差別であるとか、「流言飛語」などによる震災時の集団パニックであるとか、さまざまな説明がなされてきたが、本稿では多くの犠牲者が「出稼ぎ労働者」であったことに注目し、国際労働力移動の問題について考察するものである。このことは、今井清一監修・仁木ふみ子編『史料集 関東大震災下の中国人虐殺事件』(明石書店、2008年)も注目しているところだが、昨今の近代日本の外国人労働者をめぐる研究を踏まえ、また新聞資料などを用いて、考察を加えてみたい。

近代日本と外国人労働者

近代日本における外国人労働者をめぐる問題は、治外法権撤廃に伴う内地雑居容認とともに顕在化した。1896年の勅令352号では、「第一条 外国人ハ条約若ハ慣行ニ依リ居住ノ自由ヲ有セサル者ト雖従前ノ居留地以外に於テ居住、移転、営業其ノ他行為ヲ為スコトヲ得但シ労働者ハ特ニ行政官庁ノ許可ヲ受クルニ非サレハ従前ノ居留地及雑居地以外ニ於テ居住シ又ハ其業務ヲ行フコトヲ得ス労働者ノ種類及本令施行ニ関スル細則ハ内務大臣之ヲ定ム」とされた。外国人労働者が居留地、あるいは居留地以外に住むには「行政官庁ノ許可」が必要とされた。これについて内務省の省令42号は、「1.明治三二年勅令第三百五十二号第一条ノ行政庁ハ庁府県長官トスル事」として、庁府県の長官にその許可権限があるとした。また、その労働者の重視する業務内容としては、「労働者ハ農業漁業鉱業土木建築製造運搬挽車仲仕業其ノ他雑役ニ関スル労働ニ従事スル者ヲ云フ事但家事ニ使用セラレ又ハ炊爨若クハ給仕ニ従事スル者ハ此限ニ在ラス」とした。つまり、特定の業務に従事する者が対象となった。このうち、特に土木、建築、製造、運搬などの単純労働に中国人労働者が多く従事することになった。そして、「3.労働者ニ与ヘタル許可ハ庁府県長官ニ於テ公益上必要アリト認ムルトキハ之ヲ取消スコトヲ得ル事」というように、庁府県長官に認可とともに取消の権限が与えられていた。

このように、治外法権撤廃に伴って、居留地制度が改められて、外国人の内地雑居が認められたのにも関わらず、外国人労働者の居住に制限が加えられたのだが、その背景には、外国人労働者、とりわけ中国人労働者に対する警戒があった。

中国人労働者への警戒と需要−1899年体制―

中国人労働者への警戒心は、主に内務省が示したものであった。内務省は、清朝で日本人居住が制限されていること、中国人労働者は低賃金であり日本人労働者が競争に負けること、中国人労働者が犯罪、アヘン吸引などを行う可能性があり危険であること、いったん雑居を認めれば挽回できないこと、などを挙げていた。外務省は労働者の雑居をも容認しようとしたが、半ば内務省の意見が通ったということになる。

この結果、中国人労働者はその時々の状況に応じて、地方長官の判断によって入国の許認可が与えられる存在となった。単純に言えば、日本国内で労働者が不足した時には必要とされ、充足すれば不要とされる存在になったのである。また、こののち、1910年に韓国併合がなされたことに鑑みれば、朝鮮半島からの労働者は国内移動となり、外国人に含まれなくなったのである。そのため、山脇啓造『近代日本と外国人労働者』(明石書店、1994年)は、1899年に形成された外国人労働者受け入れに関する体制を「1899年体制」と呼び、次のように定義する。それは、「近代日本の外国人労働者政策としての1899年体制とは、近代日本にとって外国人労働者として使用が可能であった中国人労働者と朝鮮人労働者のうち、中国人労働者を排除し、朝鮮人労働者を許容する体制」だということであった。

景気に即してやや単純に言えば、景気が極めていい時には日本人労働者の賃金が上昇するために外国人労働者への需要が高まり、ややいい時には日本人労働者の供給と需要が接近して外国人労働者の需要は減少し、景気がやや悪い時にも同様に日本人労働者の供給が多くなって外国人労働者は歓迎されず、景気が極めて悪くなると雇用者側の都合で賃金が低廉な労働力が求められるために外国人労働者が歓迎されるという状況にあったのである。

第一次世界大戦後の状況

第一次世界大戦期、日本経済は活況を呈し、戦後には経済が悪化していったことが知られている。外務省保存記録の「支那人労働制限解除ノ件」(1917年4月、外務省外交史料館、B-3-7-2-1_002_001)にあるように、経済活況期には日本での中国人労働者受け入れが進んだ。しかし、第一次世界大戦が終わる1918年ごろから状況が変わり、中国人労働者に対する需要も減少し、その入国には制限が加えられるようになっていった。だが、1918年から日中間の移動に際してはパスポートが不要になったことや、すべての庁府県が一斉に同じ条件で制限を加えたわけではないこと、さらに中国側でも経済が不景気になったり、自然災害があったりして、中国人労働者の日本への移動は一定程度継続した。

こうした労働者の移動に際しては、上海や温州などに日本渡航者向けの斡旋業者がおり、渡航費の安さ、行商での利益などが強調されて人が集められた。鄭楽静による温州からの商人・労働者の移動に関する研究(「戦前期の温州人出稼ぎ労働者−在日温州人の「前史」として」『文明構造論』、2010年)からも明らかなように、日本における取り締まりを意識した募集がなされていた。また阿部康久の研究(「1920年代の東京府における中国人労働者の就業構造と居住文化」『人文地理』51号、1999年)でも明らかなように、来日した後、同郷のあっせん業者(人夫頭)とのコネクションを持つ人々が、そのあっせん業者からその日の仕事を分配されていた。

中国人労働者の居住地と「争議」の発生

中国人労働者たちは日本全国で雇用されたが、東京地域では上大島町などのある深川区や豊島郡、神奈川県では横浜市、橘樹郡、足柄下郡などの業者が請負業者となっていた。1920年代に入り、日本経済が不景気になると、仕事を求める日本人労働者が増え、中国人労働者の取り締まりを強化する庁府県が見られ始めたが、東京府は府内に需要があったこともあり、取り締まりへの動きが相対的に鈍かった。それもあって、東京府に中国人労働者が多く流入することになった。

前述の通り、経済が極めて悪化すると、建設業者などは労賃の安い中国人労働者を必要とすることになったが、当然それが仕事を求める日本人労働者との間の争議の原因にもなった。1922年8月には、東京の南千住署が80数名の中国人労働者を検挙し、帰国を命ずるという事件が発生した。「風紀衛生を乱す」というのが理由であった。ただ、この際にも決まりで許されている商業活動などの「正業」に就くのならばそのまま滞在を認めるということであった(「支那労働者に帰国を命ず」『朝日新聞』1922年8月12日)。これに対しては、中国人留学生たちが情状酌量を求めて陳情運動を起こし、また外交ルートを通じた要請もあったようである。その結果、帰国旅費のない労働者はそのまま残留できるようになった。

1922年9月14日の『朝日新聞』の社説「支那労働者入国問題」は、人種平等問題や朝鮮半島、台湾への中国人労働者の流入なども考慮して、一定の条件下で中国人労働者の入国を認めていくべきだと提言する。だが、「入込んだ支那人に押される日本労働者 : 遂に日本人側から抗議 : 其一方支那人側からも法規上の抗議を持出して方々に運動開始」(『中外商業新報 / 日本産業経済新聞』1922年12月11日)という記事が示すように、事態は深刻になっていった。それによれば、企業の側が「不景気になると寧ろ朝鮮人や支那人の方を歓迎」して、その結果として日本人の労働者に仕事が回らなくなったため、「本所と深川の人足の親方3人」が内務省社会局に「何とかして貰いたい」と陳情に及んだのである。だが、内務省は「そう云う問題は府と市の職業紹介所の方に話して貰いたい」とした。そして、彼らが職業紹介所に行ったが、それでもらちが明かなかったという。またこの記事は、東京以外の地域で放逐された中国人労働者が東京に集まっているとも指摘、さらに「鮮人と支那人の労働者の為に日本人失業者が非常な打撃を受ける、然し鮮人には手の下しようがないから先ず支那人逐放という問題が起った」とし、中国人労働者の置かれている地位の弱さを指摘している。

興味深いのは、この記事が震災に際して殺害されることになる王希天の活動も紹介していることだ。「中華基督教青年会の幹事であった王希天氏の如きは此問題は日支問題の国交にも累する大問題だとして各方面に向って運動を開始し率先して支那人労働者を会員とし、会員の相互救済は勿論会員に衛生状態の向上と賭博厳禁を主要眼目とした中華民国僑日共済会なる者を組織し自ら其会長となった」。

関東大震災発生の一年前には、中国人労働者の問題は社会問題の一つとなり、日本人の人夫頭らの陳情、そして中国人留学生、そして王希天らの陳情とがせめぎ合う状態になっていた。内務省、そして府市が対応に苦慮する中で、問題は拡大、深刻化していった。重要なのは、こうしたことが新聞報道などを通じて社会に広く周知されていたことである。

関東大震災直前の状況

1923年7月、東日本職業紹介所長会議が開催され、そこでは中国人労働者のことが議論された。『朝日新聞』の「内地労働者の新しい脅威」(1923年7月24日)という記事は、「支那の労働者は今東京の隅田川筋を中心として埼玉、千葉その他の各県に約三千人を数へて居る」などと事態の深刻さを伝えているが、結局この会議も有効な対策を講じ得なかったという。『讀賣新聞』の「朝鮮支那の労働者問題」(1923年7月25日)は、この問題が「近時著しく世間の注目」を集めていること、またこの問題が「国内の社会問題」、「国際の外交問題」、「人種民族複雑困難な関係にも絡ま」ったものだとする。この記事も本来は労働者の受け入れを自由化すべきものだが、自由化すると問題が生じると問題の難しさを指摘するとともに、「支那労働者に関する限り、在東京の中華民国基督教青年会が主動者となり、彼らの為に共済会なるものを設け、献身的に共済其他の事業に活動して居る」と王希天らの活動を紹介している。

このように、関東大震災以前に中国人労働者をめぐる問題が生じており、結果として大島などで中国人労働者が殺害され、またそれを調査していた王希天も殺害されたことから、事件の背景に中国人労働者をめぐる争議があったことがあったと言えるであろう。中国人労働者の多くが短期の出稼ぎ労働者であったために、日本に在住していた華僑などと異なって言葉も通じないことが多かったことが想定される。賃金などをめぐる日本人労働者との競争関係だけでなく、こうしたコミュニケーション上の問題もあったことが想定される。

他方、こうしたことが背景にあったとはいえ、中国人労働者が多くいたところの全てで中国人労働者の殺害事件が起きていたわけではない、ということも考えねばならない。だとすれば、大島町や足柄において、事件発生の原因、きっかけになることが争議以外にもあったことも想定される。この点で先行研究が多く指摘している流言、社会的パニック、人種(民族)差別などを含めて総合的に考察することが必要となろう。

バナー写真:王希天の遺影などを手に、記念写真に納まる中国人犠牲者の遺族ら=2023年9月3日、東京都江東区(共同)

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