シク教徒活動家「暗殺」疑惑:インドの「猛反撃」 が国際社会に広げた波紋とは
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二国間関係の悪化と正常化の模索
2023年9月18日、カナダ連邦議会でトルドー首相から飛び出した爆弾発言が世界を揺るがせた。3カ月前の6月18日、バンクーバー郊外のグルドワラ(シク寺院)駐車場でハーディープ・シン・ニジャールというカナダ国籍のシク教徒活動家が何者かに射殺された事件に、「インド政府のエージェント」が関与した「信憑性の高い主張」があると暴露したのである。カナダ外務省は同日、インド諜報機関RAW出身の外交官の国外退去処分も発表した(※1)。
この問題については、1週間前のG20ニューデリー・サミットの際の個別会談でも取り上げられていたが、モディ首相が関与を完全否定したという。それにもかかわらず、一方的にインドの関与を公言したことにモディ政権は猛反発する。インド外務省はただちに「馬鹿げており、政治的動機に基づいたもの」という声明を発出し、トルドー発言を一蹴した(※2)。数日後にはインドはカナダ人向けの査証発給を全面停止したほか、以前から要請していたインド駐在のカナダ人外交団の規模縮小について、41人を期限までに退去させなければ、外交特権を剥奪すると通告した。カナダは不満と抗議を表明しつつも、結局インドの圧力に屈し、大幅な人員削減に応じた(※3)。
カナダがさらなる対抗措置をとらず、外相をはじめ両国の外交当局が、エスカレーションを避けるべく協議を続けたことで、これ以降、二国間関係は徐々に正常化に向かい始めた。カナダが外交団削減要求に応じた数日後、インド側は、観光・eビザ以外の査証発給を再開した(※4)。インドにとってカナダは貿易・投資額ではけっして大きな存在というわけではない(※5)。しかし、同国には150万人以上のインド系(うち半数がシク教徒)移民が暮らしており、留学生など在住インド国民も18万人近くに及び、先進国の在外インド人数では米英に次ぐ(※6)。それにカナダは、近年のインドが最も重視する戦略的パートナー、米国の同盟国でもある。関係の悪化はどちらにとっても望ましい話ではない。
インドは殺害に関与したのか?
先に述べたように、インドは関与を否定している。国連総会演説のために訪米中だったジャイシャンカル外相も、米外交問題評議会で(CFR)で、他国での暗殺行為は「インド政府の政策ではない」と明言した。そして、もしカナダが何らかの情報を持っているのであれば、「それを見る用意がある」と、証拠の提示を求めた(※7)。カナダは米英とオーストラリア、ニュージーランドと構成する「ファイブ・アイズ」と情報共有をしており、各国ともトルドー発言を全面的に支持しているわけではないが、それなりの妥当性があるとみているようだ(※8)。米国はじめ各国とも、インドに対し、カナダの捜査に協力するよう促している。
インドはニジャールを本当に暗殺したのか?「ファイブ・アイズ」の反応、また米国が最初にカナダに情報提供したとされることを踏まえると、その可能性は高いと考えたくなるかもしれない。また、2023年に入り、反インド活動を行ってきた複数のイスラーム過激派の指導者が、隣国パキスタン国内で何者かに相次いで殺されているという事実からも(※9)、やはりインドが関与したのではないかと推論する向きもあろう。
しかし、少なくとも現時点では──そしておそらくは永遠に──真相ははっきりしない。そもそも、インドにとってのニジャールが、きわめてリスクの高い標的型殺害を行うほどの危険人物だったのか、という疑問がある。パンジャーブ州のシク教徒独立運動、「カーリスタン」建国をめぐる問題は、1980年代に深刻化した。過激派の立てこもったシク教徒の総本山、黄金寺院に陸軍の戦車まで投入して掃討作戦を命じた当時のインディラ・ガンディー首相がシク教徒の警護兵に暗殺され、その報復としてデリーなどでもヒンドゥー教徒がシク教徒を襲撃する事態に至った。しかし、徹底した掃討作戦を通じて90年代末以降は、パンジャーブ州情勢は平穏を取り戻した。今日のインドではもはやカーリスタン運動は終わった話と認識されている(※10)。
ところが、カーリスタン建国を叫ぶ声は、海外では完全には収まらなかった。インドから世界に渡ったシク教徒の一部は、過激な主張を続けた。「遠隔地ナショナリズム」の典型である(※11)。最近では、米英、カナダなどの国の大使館や領事館の一部で、インド国旗が引きずりおろされたりするといった襲撃事件も起きていた。ニジャールもそうした活動家の一人で、世界中のシク教徒を対象に、カーリスタン建国の是非を問う投票運動に関わっていた。こうした運動にインドがいら立っていたことは確かである。
そうだとしても、インド国内の治安の観点からは、殺害しなければならないほどだったのか、またなぜニジャールだったのかはやはり判然としない。ニジャールはカナダではそれなりに知られていたとはいえ、最も指導的な、影響力のある人物というわけではない。その点では、米国籍で弁護士資格を持つ「正義を求めるシク(Sikhs for Justice)」創設者のグルパトワント・シン・パヌーンのほうがはるかに大きな脅威のはずである。パヌーンはニジャール殺害事件の後も、ヒンドゥー教徒にカナダから出国するよう脅し、エア・インディア機の爆破予告まで行った(※12)。
ニジャールの死は、インド側からもほのめかされているように、シク教徒間の派閥抗争であったかもしれない。実際のところ、トルドー発言後の両国関係悪化のさなかに、やはりカナダで別のシク教徒の殺害事件が起きたが、これはギャング間の派閥抗争とみられている(※13)。もちろん、そのような派閥争いにRAWの関与がなかったとは言い切れない。
インドの「反撃」は悪手
いずれにせよ、明確な証拠が公表されていない(できない)のであるから、インドとしてはただ無実を主張し続ければよいのだが、同時に余計なメッセージを発信してしまっているように思える。自らの関与を否定するだけでなく、カナダがテロリストの無法地帯であることをしきりに強調している点だ。ジャイシャンカル外相も、先述した外交問題評議会のイベントでカナダが「分離主義勢力に関する組織犯罪」に甘いとして強烈な不満を表明している。
これは2つの意味で悪手と言わねばなるまい。第1に、「それならやはりインドが手を下したのではないか」という印象を国際社会に与えかねない。そして第2により懸念されるのは、「たとえトルドー首相が言うようにインドが関与したのだとしても、そのどこが悪いのか」といった論調がインド国内に醸成されつつあることである。
その背景には、まもなく「世界第3位の経済大国(※14)」となることが確実視されるインドの自信、大国ナショナリズムの台頭がある。そんな中で、インドが以前から抱いてきた西側中心の国際秩序に対する反発心が噴出し始めている。そしてそれは、ヒンドゥー・ナショナリズムを掲げる与党インド人民党に限らない。野党国民会議派の有力政治家で、国連職員も務めるなど国際経験も豊かなシャシ・タルールでさえ、インドがロシアやイラン、サウジアラビアのような暗殺を平気で行う国の仲間入りをしかねないというBBCの報道に、「過去25年間、治外法権による暗殺を最も多く行ってきたのはイスラエルと米国だ!」と猛反発した(※15)。元外交官からも西側のダブルスタンダードへの反発が出ているという(※16)。SNS上には、「インドも米国と同じことをする権利があるはずだ」といった声が上がる。
しかし、米国含め、どの西側の国も、同盟国や他の西側の国で、自らの好ましからず人物を暗殺したことはないだろう。カナダは自由民主主義国であり、インドとの間では犯罪人引渡し条約もある。にもかかわらず、インドの指定する「テロリスト」の引渡しに、相手側がなかなか応じないからといって、他国の主権を侵害して他国民を一方的に殺害できる、という主張をするならば、西側には受け入れがたい(※17)。
英国やオーストラリアのような他の多文化社会にとっても他人ごとではない。米国のデーヴィッド・コーエン駐カナダ大使は、インドの関与が事実であれば、米国の推進する「ルールに基づく国際秩序」に反すると警鐘を鳴らした(※18)。
さらに、外交特権剥奪をちらつかせながら、外交官の削減を強要するような高圧的、強権的な手法にも、カナダのみならず国際社会から「外交関係に関するウィーン条約」に反するとして懸念や批判の声が上がった。米国務省は、カナダ人外交団の特権を含めインドに対して条約の順守を求め、インドの一方的措置に「懸念」を表明した(※19)。英外務省も、インドの決定は「同意できない」として、ウィーン条約に反するという報道官談話を出した(※20)。これに対し、インド側は現地でのインドの外交官が危険にさらされているとして、カナダや英国のほうこそ、ウィーン条約を順守すべきだと反論している(※21)。
インドの強硬な態度は、根拠の不明確な「言いがかり」を公然とつけられたことへの憤りの強さを示すものであり、一定の理解はできる。西側への反発心と大国意識を抱く国民世論の声に応えるものでもあろう。けれども、「ルールに基づく国際秩序」を蹂躙(じゅうりん)する国とみなされるような言動が、中長期的にインドの国益に資するとは思えない。
追記:本稿脱稿後の11月22日、英フィナンシャルタイムズ紙がパヌーンも殺害対象とされていたが、米当局が事前に察知し印側に警告していたと報じた。ホワイトハウスもこの報道を認めた。印外務省も米側とこの件について協議し、調査中であると発表した。
バナー写真:インドのニューデリーで、トルドー・カナダ首相に抗議して街頭デモを繰り広げるヒンドゥー教徒の活動家=2023年9月24日(AFP=時事)
(※1) ^ John Paul Tasker, “Trudeau accuses India’s government of involvement in killing of Canadian Sikh leader,” CBC News, Sep 18, 2023.
(※2) ^ Ministry of External Affairs, “India rejects allegations by Canada,” September 19, 2023.
(※3) ^ Government of Canada, “Statement on expulsion of Canadian diplomats by the Government of India,” October 19, 2023.
(※4) ^ High Commission of India, Ottawa, Canada, “Resumption of Visa services with effect from 26th October, 2023,” October 25, 2023.
(※5) ^ 貿易額では世界の35番目(2022年度)、対印直接投資額では21番目(2000-21年)にとどまる。https://tradestat.commerce.gov.in/eidb/Default.asp; https://dpiit.gov.in/sites/default/files/Chapter%20-%203.2.pdf
(※6) ^ Ministry of External Affairs, “Population of Overseas Indians,” Accessed, November 7, 2023.
(※7) ^ Sriram Lakshman, “India Told Canada It Is Not Government Policy to Engage in Such Acts: Jaishankar on Nijjar Killing,” The Hindu, September 27,2023.
(※8) ^ この点でオーストラリアの諜報機関トップの発言はやや突出している。米ABCテレビのインタビューに、カナダ側の主張には「異論をはさむ余地はない」と発言した。“ASIO chief says there’s ‘no reason to dispute’ Canada’s claims of Indian involvement in murder of Hardeep Singh Nijjar,” ABC News, October 19, 2023.
(※9) ^ Arvind Ojha, “From Nijjar to Shahid Latif: India’s enemies fall one after other on foreign soil,” India Today, October 11, 2023.
(※10) ^ Kusum Arora, “India-Canada Standoff: Khalistan Not an Issue in Today’s Punjab,” The Wire, September 21, 2023.
(※11) ^ Benedict Anderson, “Long-distance Nationalism,” in B. Anderson, The Spectre of Comparisons: Nationalism, Southeast Asia, and the World, Verso. 1998, pp.58-76.
(※12) ^ “Sikh separatist Gurpatwant Pannun threatens to blow up Air India flight on Nov 19,” ANI News, November 5, 2023.
(※13) ^ Josh Crabb, “Killing of alleged gang member in Winnipeg ‘a wake-up call’: Sikh youth organization leader,” CBC News, October 2, 2023.
(※14) ^ 国際通貨基金(IMF)は2027年にインドの名目GDPが世界第3位になると予測しており、モディ首相は2022年の独立記念日演説において、独立100年となる47年までの先進国入りという目標を掲げた。Prime Minister’s Office, “The Prime Minister, Shri Narendra Modi addressed the nation from the ramparts of the Red Fort on the 76th Independence Day,” August 15, 2022.
(※15) ^ タルールのXのポスト。2023年9月21日。
(※16) ^ Suhasini Haidar, “Why have India, Canada tensions worsened?” The Hindu, September 24, 2023.
(※17) ^ Gideon Rachman, “Why the west cannot turn a blind eye to a murder in Canada,” Financial Times, October 2, 2023.
(※18) ^ Rachel Aiello, “'Shared Intelligence’ from Five Eyes Informed Trudeau’s India Allegation: U.S. Ambassador,” CTV News, September 23, 2023.
(※19) ^ U.S. Department of State,” Departure of Canadian Diplomats from India,” October 20, 2023.
(※20) ^ Gov. UK, “Departure of Canadian diplomats from India: FCDO response,” October 20, 2023.
(※21) ^ Ministry of External Affairs, “Transcript of Weekly Media Briefing by the Official Spokesperson,” November 16, 2023.