日中の高度な翻訳力の強化を

社会

日中の相互理解を深めるために「言語面のインフラ整備」が急務だ。中国の言文一致運動の影響を受け、ビジネス向けなど高度な翻訳のクオリティーが大きな問題となっている。中国側も協力して問題解決を図る必要性を認めている。

日中間の相互理解を深めるための重要ツールである言語面のインフラ整備が急務になっている。通訳面はまだいい。他の言語と同様に中国語についてもサイマルのような質の高い同時通訳者養成機関が存在し、相応の人材を供給している。問題は翻訳で、戦後長い間高度な翻訳を担った東亜同文書院(※1)卒業生などバイリンガルに近い先人が姿を消した後は、優秀な後継者がほとんど育っていない。それには理由がある。

中国は1911年の辛亥革命後、欧米先進国に追い付こうと言文一致運動を進めた。49年の新中国成立後は中国語の発音をアルファベットで表す「ピンイン表記」を導入して識字教育を推進、90年代以降の9年制義務教育の普及につれて識字率が飛躍的に向上した。しかし、中国人は韻律を尊ぶ。口語化を進める言文一致という前提と、漢詩のように韻律に優れた格調の高い文章を求める漢民族の内在的欲求の相克が消えるはずはなかった。

中華人民共和国成立後70年近くを経た現在、論文や雑誌・新聞など格調を重んじるメディアの書き言葉として用いられる書面語とその表現様式である「論説体」は、文法構造・語彙(ごい)・修辞など各面で従前の書面語的要素の復活あるいは新たな追加によって独自の発展を遂げている。しかし、話し言葉である「口語体」を用いて文章を書く「言文一致」の原則に触れるため、論説体の研究はこれまで日中両国で意図的に無視され、カリキュラム上で新聞講読等の授業はあっても、両者の用法の違いを理論的に説明する研究や授業は行われなかった。

その後中国では90年代からこの問題が論じられ、2000年以降、現代の書面語を新しく捉え直そうとする先駆的な学者・馮勝利を中心に研究書が続々と発表されたが、日本ではいまだタブーに縛られたままになっている。

裁判所での日本企業トラブル、1割は誤訳が原因

従って、日本では今日なお「論説体」に関する学術論文は影も形もない。このため一般の文法書では、最も基本的な語彙である話し言葉の「是(英語のbe動詞に相当)」に当たる書き言葉「为(日本語の漢字「為」)」の説明すらまずない。

結果として高度な翻訳人材の枯渇が深刻さを増しており、政府機関でも企業でも誤訳によるトラブルは少なくない。中国のある裁判所の集計では、日本企業に関するトラブルの10%は日本側の誤訳が原因だという。また、中国政府から日本側に翻訳の精度を高めるよう要請があったとも聞く。

以下の表に挙げたように、最も基本的な語彙や頻出する統計・ビジネス用語を知らなかったり、書面語では省略される用法を知らないために意味の切れ目を間違えたり、極めて基本的な知識・訓練不足による誤訳は枚挙に暇がない。

誤訳につながる書面語表現の代表例

語彙
中国語 正しい訳 誤訳例
増加到两倍 2倍になった 2倍増えた
増加了两倍 3倍になった 2倍に増えた
翻了两番 4倍になった 2倍になった
同比 前年同期比 同じく比べると
环比 前期比 前年比
前期工作 準備作業 前期の活動
文法
ルール 状況 結果
所有を表す「~的」を適宜省略する 原則を知らない 「的」が無いため文の切れ目を間違える
「是(である)」は「为」となることがある 原則を知らない) 「为」を「~のために」と取り違え混乱する

実務的かつ高度な中国語運用能力の習得が組織的・大規模に図られていた東亜同文書院の時代と異なり、現在の日本の学校では「会話優先。読解力養成は後回し」、企業では、基礎会話力の教育後に口語体と論説体の違いの理論的な説明もなしに本格的な文書翻訳に入るため、多くの学習者が挫折しているのが現実だ。これが優秀な翻訳者の不足につながっている。結果としてインターネットなどからの情報収集も適切にできないこととなり、企業戦略に支障を来している。

近年は岩手県の不来方高校や埼玉県の伊那学園総合高校、福井県の足羽高校など、高校から中国語を教える学校も徐々に出てきているが、まだまだ少数派だし、会話力の養成が精いっぱいの状況である。多くの学生は大学に入ってから第2語学として初めて中国語を学習し始める。中国語専攻の学生でさえ、卒業時に新聞などを満足行くクオリティーで翻訳できる学生はほとんどいないと言ってよい。これでは社会のニーズにマッチしない。

遅れる日本の高レベル翻訳者育成

大学では、中国に関連した分野を研究する学者に十分な書面語読解力がないため、大学院に中国人留学生を低いハードルで入学させ、研究資料を翻訳させる一方で、修論・博論を教員が代筆するケースさえ生じている。

しかし、中国人留学生の翻訳に頼ることにも落とし穴がある。中国の高等教育機関で日本語を習得した優秀な学生でも、翻訳トレーニングは口頭通訳に偏っており、筆記翻訳は多くが川端康成や村上春樹といった文学系が中心だ。そもそも社会科学・科学技術系のトレーニングが根本的に不足している。書面語を日本語訳するための理論的な学習がほぼ欠落しているのである。従って彼らにもまた資料の誤訳・誤解が生じる可能性は無視できない。ましてや、来日後に日本語を学習した中国人の場合は、会話は上手でも、筆記翻訳のトレーニングは二の次になっているので、余計、リスクが大きい。

中国の大学では全国506校に日本語教育課程があり、学生数は70万人とも言われるが、ハイレベルな学校であるほど同時通訳者養成に注力しているので、通訳内容に関する高度な知識はあっても、情報収集や分析に基づく高度な翻訳力を身に付けた人材は決定的に不足している。

こうした危機的な状況の中で筆者は近年、独自に開発したレベル教育システム「論説体読解力養成プログラム」を用いて人材を養成し、特定非営利活動法人日中翻訳活動推進協会(通称「而立会」)を結成。プロの翻訳者を輩出し、少しでも日中間のコミュニケーション円滑化に資するべく奮闘してきた。

いま、最大の問題は大学などで中国語を教える教員自体が論説体と口語体の違いを理論的・実践的に把握できていないことだ。まず教員の養成が急務である。事は外交・防衛といった国の安全保障、また特許・税務といった経済活動の心臓に関わる。

皮肉なことに、中国側の方がこの必要性を政府レベルで認識し始めており、既に筆者は中国政府文化部主宰の「夏季全国翻訳者集中訓練」にここ2年連続して招かれ、江蘇省でも、2018年に全省の専門翻訳者60人余りを集めて集中訓練を行った。

また、大学レベルでは北京外国語大学の日本語大学院で筆者のレベル教育システムに基づく講義が単位認定され、同大は18年9月、日本語から中国語という逆方向の論説体翻訳レベルシステムの開発をスタートした。さらに、上海財経大学にある国務院商務漢語基地は同システムの専門家として筆者に講義を依頼し、教材を共同開発している。

中国も日中協力の必要性認識

しかし、日本ではこのような動きはまだ始まったばかりで、一部官庁で初歩的に導入したり、その付属教育機関でテキストを採用したりするか、あるいは一部企業の知的財産権本部などで人材育成向けに導入し始めたにすぎない。以上述べてきたほとんど全ての面において、日本では公的機関あるいは民間からの資金的サポートは皆無に等しい。

中国側もコミュニケーション円滑化のための高度な翻訳能力向上という面では日中協力の必要性を痛感している。

日本側も国や経済界が先頭に立って資金を投入し、教育研究体制を整え、人材育成を進めることが切に望まれる。

バナー写真:司法の透明性アピールのため外国報道陣に公開された開廷前の地方裁判所=2002年07月25日、中国・北京(時事)

(※1) ^ 東亜同文書院=1901年、上海に設立された主に日本人を対象とした民間の高等教育機関。中心は商務科で、公的支援も受け日中の実務人材を輩出した。後に大学に昇格したが、終戦に伴い施設を中国に接収され閉校。学籍簿等は46年設立の愛知大学に引き継がれた。

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