終戦記念日に考える東京五輪-「幻の1940年大会」と重なる時代の空気

東京2020 社会 歴史 暮らし 文化

今夏は東京が、そして日本中が五輪の熱狂に包まれているはずだった。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で1年延期され、来年の開催さえ保証できない状況にある。戦前には1940年の東京五輪が日中戦争の拡大で開催権を返上。アスリートたちも戦地へ送り出された。8月15日は終戦記念日。歴史をたどりながら、当時と同様、閉塞感が漂う時代の五輪を考えてみたい。

第1次大戦、関東大震災、世界恐慌

1940年の東京五輪は、関東大震災からの復興を世界に示す狙いで招致が進められた。震災から17年後、神武天皇即位からの紀元2600年を祝う記念行事に合わせて五輪が計画された。

だが、世界から祝福されるはずの祭典は「幻」に終わった。大会返上へと至る歴史的事実の数々は、まるで現在を重ねるかのように重苦しい空気に満ちている。

1910年代から30年代にかけての世界は不安定な状況にあった。第1次世界大戦は14年から始まったが、その最中には、「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザが米国から欧州へと広がり、日本でも多くの死者が出た。大戦による兵士の世界的移動がパンデミックをもたらしたともいわれる。流行は18年から3年近くにわたって続いた。

日本では23年9月1日に関東大震災が起きた。日本の中心部を襲った大地震は、木造家屋の多かった関東地方を壊滅的な状況に陥れた。日本経済は大打撃を受け、首都機能の停止で「震災恐慌」と呼ばれる不況に突入した。

一方、20年代の世界経済は、第1次大戦後の復興需要で潤いを取り戻そうとしていた。ところが、過剰な投資で経済は膨張し、ついにバブルは崩壊。29年10月24日、「暗黒の木曜日」と呼ばれるニューヨーク証券取引所での株の大暴落が、世界恐慌の引き金となった。

そのような時代背景の中で、30年に東京市(当時)の市長に就任したのが五輪招致を熱望した永田秀次郎だ。元内務官僚で、関東大震災時に市長を務めていた。震災1年後に市幹部の人事をめぐる問題で辞任したが、再び市長に返り咲き、廃墟から立ち上がった東京の姿を世界にアピールする機会を考えていた。まさに「復興五輪」の構想だった。

分断社会の中で実現しなかった五輪

だが、世界はますます分断化の様相を示していた。恐慌によって主要国は「ブロック経済体制」を進め、保護貿易によって自国の経済を守ろうとした。国際協調は薄れ、第1次大戦の敗戦国ドイツでは国家主義を強く押し出したナチスが台頭。日本も中国への侵略から経済圏を拡大しようとしていた。

東京五輪の開催は、36年ベルリン五輪の際の国際オリンピック委員会(IOC)総会で決まった。しかし、37年には日中戦争が始まり、軍備拡張の国内は五輪準備どころではなくなった。返上が決まったのは翌38年7月。開催まであと2年という段階で、東京市や組織委員会の頭越しに日本政府が決断した。

今の状況を見れば、「歴史は繰り返す」という言葉が何より当てはまる。戦争こそ起きていないが、バブル崩壊、リーマン・ショック、東日本大震災、トランプ米大統領ら自国中心主義の台頭、そして新型コロナウイルスの世界的感染拡大。その流れの中で、今回の東京五輪は開催可否が問われている。

杉本苑子「あすへの祈念」が伝えるもの

第2次世界大戦の敗戦を経て、東京はついに五輪開催を実現した。64年10月10日、開会式を国立競技場で見た作家、杉本苑子が残した有名な文章がある。共同通信から配信された随筆「あすへの祈念」(『文学者の見た世紀の祭典 東京オリンピック』講談社に収容)だ。

「二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。(略)天皇、皇后がご臨席になったロイヤルボックスのあたりには、東条英機首相が立って、敵米英を撃滅せよと、学徒兵たちを激励した。(略)同じ神宮競技場で、世界九十四カ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった」

出陣学徒壮行会の舞台となった明治神宮外苑競技場は、戦後取り壊され、その同じ場所に64年五輪のメーン会場として国立競技場が建設された。2020年五輪に向けて再び建て替えられたが、延期決定後は7月23日の1年前イベントで競泳の池江璃花子がメッセージを発信した以外、まともに使用されていない。

学徒出陣の悲壮な光景と華々しい五輪の開会式。両方を目の前で経験した杉本はこう綴っている。

「きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ」

64年東京五輪閉会式での「平和の映像」

閉会式でNHKのディレクターを務めた片倉道夫は、初めて日本で開かれた五輪のフィナーレをどんな映像で飾ればいいのか、頭を悩ませていた。

相談に行ったのは、関西大学の先輩で日本選手団の団長を務めた大島鎌吉だった。戦前の32年ロサンゼルス五輪の陸上三段跳びの銅メダリストで、その後、毎日新聞のベルリン特派員や運動部記者を務めた人物だ。近代五輪の始祖、ピエール・ド・クーベルタンの思想を日本に紹介し、「跳ぶ哲学者」とも呼ばれた。

「君はオリンピックのテレビ放送をどう考えておるんだ」と大島に聞かれた片倉は「オリンピックは友情と平和の祭典です。単なる世界選手権ではありません」と力説した。大島も「その通りだ」とうなずいた。ただ、片倉には不安も残った。友情の映像は撮れても、平和の映像のイメージが湧かなかったからだ。

1964年東京五輪閉会式、外国選手たちが入り混じり、腕を組んで行進した(時事通信)
1964年東京五輪閉会式、外国選手たちが入り混じり、腕を組んで行進した(時事通信)

当日に向けて、片倉は何枚もの絵コンテを用意し、入念に準備した。式典は各国旗手の入場から始まった。ところが、その直後、予定もしていない光景が目の前に広がった。国に関係なく、選手たちが入り乱れ、日本選手団の旗手を務めた競泳の福井誠が外国の選手にかつがれている。想定外のシナリオだった。

大会が終わった後、大島は「世界平和のためにオリンピックが必要というのは、ああいうことなんだよ」と片倉に言ったという。片倉が撮りたかった「平和の映像」は思わぬ形で成功したのだ。

第2次世界大戦の終結からまだ19年。戦後復興を成し遂げた日本だけでなく、世界中の人々が五輪を通じ、平和の喜びを享受したのは当然のことだった。

五輪はなぜ必要か、原点に戻って考える時

それから半世紀以上がたち、五輪はますます巨大なイベントとなった。テレビ放映権料やスポンサーとの巨額契約に縛られ、酷暑の中、開催時期さえも変更できない。開催国は政治主導で準備を進め、国力を示すかのように、巨額の予算をつぎ込んでいる。

コロナ禍の困難な状況の中で、五輪を取り巻く環境は、「中止が望ましい」「来年は開催できない」という世論が開催を望む人よりも多いという現実に直面している。これほどの逆風は珍しい。

今回の東京五輪は、東日本大震災からの「復興五輪」を唱えたかと思えば、今は「コロナに打ち勝った証しとしての五輪」と言い出している。最初の招致に失敗した16年大会の時は「環境五輪」を掲げていた。コンセプトがころころ変わるのは、五輪の本質に理解がないからではないか。

最近の五輪開催都市(予定地も含め)を見れば、東京との共通項が見られる。12年ロンドンや24年パリ、28年ロサンゼルス。いずれも過去に開催経験はあるが、再び五輪を開く大義はあいまいだ。そうした先進国の首都クラスが、街のリニューアルを求めて開催に乗り出すというのが近年の傾向といえる。

その証拠に、東京は改修するだけで十分だった国立競技場をすべて取り壊して、新たな競技場を建設し、同時に青山地区の再開発を進めている。湾岸地区も整備し、新たに装いを整えて外国からの観光客を迎えようと意気込んだが、青写真通りに事は進んでいない。

そんな今だからこそ、原点に戻って五輪の価値と役割を考える時だ。

グローバル時代の反動として、世界各国は自国の利益を守るために、分断化の傾向を強めている。米国と中国の対立、英国の欧州連合(EU)からの離脱、東アジアにおける日本と周辺国との緊張関係。そうした国際情勢にコロナは拍車を掛け、人間社会そのものも分断されてしまった。

杉本が書いたように、歴史はつながっている。世界中の人々が結びついた「平和」の歓喜を今につなぎ、次の時代に継承する。その熱意を途絶えさせてはならない。

新国立競技場=撮影・天野久樹
国立競技場=撮影・天野久樹

バナー写真:1943年10月、明治神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会(共同通信)

五輪 第二次世界大戦 東京五輪の課題 終戦記念日