現役医師からの問題提起=コロナの時代に「健康第一主義」を問い直す

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コロナ禍は私たちの行動や意識に影響を与え、日常生活を変えた。これから長期にわたってコロナと共存しなければならないからこそ、ある程度のリスクを覚悟し、「生活を大事にする」という観点を忘れてはならないと説く医師の大脇幸志郎さんに話を聞いた。

大脇 幸志郎 ŌWAKI Kōshirō

1983年大阪府生まれ。東京大学医学部卒。出版社勤務、医療情報サイト運営の経験ののち医師。著書『「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信』、訳書『健康禍 人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭』。共に2020年、生活の医療社から刊行。

情報を「選ばない」選択肢もある

新型コロナウイルスを巡る「インフォデミック」(デマを含めた大量の情報の氾濫)の中で、「正しい情報を見極められる」と考えること自体が「迷信」ではないか。いったん情報をシャットアウトするという選択肢もあるはずだ。大胆な問題提起をするのは、医師の大脇幸志郎さんだ。

「正しい知識とデマを見分けるためのヘルスリテラシーを持とうというのは、医療従事者やメディアなど専門家の世界観だと思います。恐らく専門家が思っている以上に、世の中には“本当”より“ウソ”の情報の方がはるかに多く出回っている。わずかな正しい情報にたどりつければいいけれど、偽の情報をつかんでしまうリスクが大きい。それなら、本当だろうとウソだろうと、『どちらもいらない』という選択肢もあるはずです」

「科学的根拠」と意訳される「エビデンス」でさえ、「確実である」「効く」という意味にはならないと大脇さんは指摘する。その理由は複雑だが、要するに統計データをどう位置付けるかによって、結論が大きく変わるからだそうだ。つまり、研究者が証明したいことによって解釈が変わることもあり得るというわけだ。

「情報は病原体と似ている」と大脇さんは言う。拡散して不安を呼び、パニックを引き起こす。健康に関わるデマを信じれば、かえって体に害を及ぼす可能性もある。「身を守るためには、取りあえず情報の海から離れること。テレビを消す、ネットのページを閉じることがあってもいい」

パニックに免疫をつけるためには、多様で柔軟な戦略が必要だ。情報に振り回される背景には、もちろん感染への恐怖がある。だが、感染したくない、健康でいたいと思うあまりに生活を犠牲にしていないかーそう大脇さんは問い掛ける。

予防医学への過信

医学部生だった頃から、健康に長生きすること自体が目的となっている状況や、医療への過剰な期待に違和感を持っていた。

「医者はいつも正しいわけではありません。医学への過信を何とかしなければいけないし、人は遅かれ早かれ病気で死ぬのだということをもっとしっかり語ることが大事ではないかと常に感じてきました」

そうした問題意識を背景に取り組んだのが、『「健康」から生活をまもる』の執筆だった。同書では、主に生活習慣病やがん検診を巡る予防医学への過信に疑義を呈して、「迷信」をキーワードに切り込む。身近な例を挙げれば、プリン体やコレステロールに関する「迷信」だ。「ビールにはプリン体が含まれていて、痛風になるから飲まない方がいい」「コレステロール値を抑えるために食事に気をつけよう」などはよく耳にする。実はビールにプリン体はほとんど含まれていないし、コレステロールは食べ物から吸収されるよりも体内で合成される量の方がはるかに多い。飲みたいビールをがまんして、食べ物に神経を使っても、病気予防の効果はそれほどないのだと大脇さんは指摘する。

コロナ禍が深刻になったのは、執筆をほぼ終えた頃だ。内容の大半はパンデミック以前に考えていたことだったが、コロナ時代に加速する「健康」「安全」重視に一石を投じる内容となった。

「新しい生活様式」への違和感

『「健康」から生活をまもる』は6月に刊行、翌7月にはチェコ生まれで後にアイルランドに亡命した医師、ペトル・シュクラバーネクの1994年の遺作『健康禍 人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭』を翻訳刊行した。自著は、同書の「解説のようなもの」だという。

シュクラバーネクは、「健康主義」は宗教と同じだと説く。その「宗教」の下で、現代医学が健康に介入し個人の生活、幸せの大切さを忘れさせてしまうことは歴史上に何度もあった。健康主義は、国民を監視したり、深刻な社会的問題を隠蔽(いんぺい)したりするための手段として、政治的に利用もされてきた。そう指摘して、健康・医学と政治の結びつきに切り込んだ。

『健康禍 人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭』(生活の医療社)
『健康禍 人間的医学の終焉と強制的健康主義の台頭』(生活の医療社)

コロナ禍で提言された「新しい生活様式」は、まさにシュクラバーネクが批判する「健康のために何かをがまんしろ」というワンパターンの思考そのものだと、大脇さんは言う。「正確な効果が分からないまま、人の生活を細かく縛ることがいかに重大で深刻なことなのかについての感覚が鈍すぎることに違和感を覚えます。何よりも問題なのは、感染者バッシングを生むこと。“油断したことによって感染し、他人にもうつす。だから気を付けなければ”という思考は、感染した人を、“油断したのが悪い”という非難の視線にさらしてしまう」

「感染したからといって、必ずしも“油断”が原因とは限らない。また、やむにやまれぬ状況で密な場所に行くこともあるはずです。把握できないさまざまな事情、状況がたくさんあるのに、そこには目をふさいで、気を付けていればよかったはずだと非難するのは偏った見方です」

「新型コロナに関しては、はっきりしたことは誰も分からない。感染対策に明確な医学的根拠はなく、日本では法的根拠もありません。一方で、罰則がなくても、政府が『気を付けましょう』と呼び掛ければ、相互監視が自在に発動するのが日本です。そして、相互監視をうまく制御するのは難しい。だから“自粛警察”が生まれるのです」

生活を守るという視点

結局、全てが曖昧なまま、不安の中でウイルスと共存するしかないのだろうか。

「ワクチンや治療薬が開発されても、コロナが消えるわけではありません。経済活動、健康と安全、生活の質のバランスが不安定な状態は長く続きます。だからこそ、生活を大事にするためにある程度のリスクを取る覚悟が必要です」

新型コロナは、天然痘ウイルスやペスト菌のような脅威ではないと認識するべきだと、大脇さんは言う。「たとえ感染して最悪の場合、命を失うリスクがあっても、コロナが怖いからみんなが生活様式を変えるということは、私たちが長い歴史の中で積み重ねてきた文化を切り捨てることになります。生活を大事にすることで、ある程度のリスクは許容することになるかもしれない。でも、それが人生だという観点を忘れないでほしい」

現在は経済優先で、自粛モードはだいぶ緩んでいる。だが、「感染第2波」への危惧が大きくなれば、また事態が変わる可能性もある。

「コロナについては、“空気”が支配しているので、その空気がどう動いていくかは、引き続き観察していきたいですね」

相互監視が行き着く果て

大脇さんが本を書いたのも、シュクラバーネクの遺作を4年がかりで翻訳したのも、決して医学的な見地から現代の「健康第一主義」に反論しようとしたからではない。「いつの間にか忘れてしまった当たり前のことを思い出す」きっかけにしてほしいという強い願いからだ。

インタビューの際に言及したのは、ミシェル・フーコー『監獄の誕生』、サミュエル・バトラーの『エレホン』(Erewhon)、イヴァン・イリッチ『脱病院化社会』など過去の思想家たちの著作だ。

「医学は、医者にとって都合よく振る舞うように人々を洗脳してしまうと彼らは警告しました。自らの意思で行動しているのだと思い込ませ、相互監視させる窮屈な状況を生んでいることに警鐘を鳴らしたのです」。いままさに、そういう窮屈な世界になっているのではないかと、大脇さんは危惧する。 

『エレホン』(新潮社)
『エレホン』(新潮社)

「例えば、『エレホン』が病気になることが犯罪として罰せられるディストピアを描いたように、健康至上主義は、一つ間違えば、全体主義に行き着きます」

自著『「健康」から生活をまもる』では、ナチスや大日本帝国における健康の強制や優生思想の恐ろしさに一章を割いている。少し極論ではないかと思うかもしれないが、歴史の教訓は忘れるべきではないと大脇さんはいう。ナチスはたばこやアルコールの害にも容赦なかった。アルコール中毒患者を見せしめのために、強制収容所に送ったりもしている。国民が健康になれば国が強くなるという発想からだ。現代の私たちの周りでなされていることと似ていないかと、大脇さんは問い掛ける。

本書ではまた、初代厚生大臣・木戸幸一の1938年の言葉を引用している。「国民各自が自己の身体は自分だけのものではなく国家のものである…国家のために之を鍛錬し、之を強化し…」と続く一節だ。一方、2003年に施行された健康増進法第2条は、こう書いている。「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」。健康は努力して達成するもの、健康維持が国民の義務だとする姿勢は共通しているのだ。 

「病気になりたくない」という呪い

大脇さんが医大を出た後で、出版社や医療情報サイトで仕事をしたのは、医療を離れた立場から現実を見直したかったからだ。だが、経歴を生かして臨床医学の現場から学びたいと、3年前に医師になった。

高齢の患者が多い現場で、高齢化社会をどう生きるか、どう病気と向き合うかを考える機会が多いと言う。「健康問題をいくつも抱えながら長生きするということをどう肯定するか、社会全体でどう支えるかは、私たちが考え続けなければならない問題です。健康で長生きしたいと思っても、人は絶対に病気になる。“あの人のように病気でみじめな老後はご免だ”と思っても、明日はわが身なのです」

だからこそ、「病気で体はボロボロだけど、それでも生活が楽しい」という「ファッション」をつくりたいと言う。

「健康に関しては、自分のしたいようにしてくださいと言いたい。健康を宗教ではなく、ファッションにしたい。真面目に考え出すと、たとえ専門家の意見でも、ちゃんとエビデンスに照らし合わせて、正しいかどうか判別しなければとつい考えてしまいますが、そこは真面目にならなくていい。例えば、納豆をたくさん食べたら何かの病気にかかりにくくなるというエビデンスがあるとしても、その効果は取るに足らないほどわずかです。結局、好きだから食べる、嫌いだから食べない。それでいいのです。同様に、大した害がないものに目くじらを立てる必要もない。好きなように、“いいとこ取り”をして、自分のファッションで、食べたいものを食べてほしい」

「病気になりたくない」と自分に掛けた呪いを解いて、生活を楽しんでほしい―それが大脇さんの究極のメッセージだ。

バナー:大脇幸志郎さん(撮影=ニッポンドットコム/2020年10月、東京都港区)

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