未来の人類研究センター長・伊藤亜紗:“接触障害” のコロナ時代に問う「さわる/ふれる」人間関係と「利他」

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視覚障害者をはじめ、さまざまな障害を持つ人たちを通じて、体との付き合い方や「1人の中の多様性」、コミュニケーションについて考察する美学者の伊藤亜紗さん。人と接触することがリスクとなるコロナ禍で、信頼に基づく人間関係を築くことはできるのだろうか。「手の人間関係」を切り口に、話を聞いた。

伊藤 亜紗 ITŌ Asa

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮新書)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など。2020年10月『手の倫理』(講談社)を刊行。20年11月、第42回サントリー学芸賞受賞。

2020年2月、東京工業大学は「未来の人類研究センター」を始動させた。人工知能の進化、ヒトゲノム編集の発展などが「人間」の定義を揺るがしつつある中で、人文社会系の知を結集して科学技術が人間にもたらす変化や守るべき価値観などを探求する。人類の未来を多角的に探ることが目的だ。

センター長を務める伊藤亜紗准教授は、視覚障害、聴覚障害、四肢を切断した人など、さまざまな障害と共に生きる人が、どのようにその体を使いこなしているか、また世界をどのように感じながら生きているのかを研究している。

昆虫への興味と自らの吃音が研究の原点

「子どもの頃は昆虫に魅せられて、デッサンするのが好きでした。昆虫を観察して、体の細かい構造を観察して描いていくうちに、対象と一体化し世界の見え方が変わっていく。その感覚が好きで、研究者への出発点になりました」と伊藤さんは振り返る。

「それぞれの生物は、世界をどのように感じながら生きているのかといった総合的で巨視的な視点」での研究に関心があり、生物学者の道を目指したが、DNAを読み解けば生命全体が分かるというアプローチに違和感を持ち、大学3年生の時に文系に転向。「美学」を専門に選んだ。「芸術作品を見たときの感情など、簡単には言葉にできない曖昧な部分について深く考える分野」だ。

自身には吃音(きつおん)があり、言葉に対する警戒心がある。そのことも、美学という学問を選んだ背景にあると言う。

「自分の意図と発している言葉がかみ合わず、うまく話すことができない。子どもの頃から体と言葉の関係を微調整し続けて生きてきました。いまの研究対象は、私とは違う障害を持つ人たちです。体が思い通りにならないこととどう付き合い、どう工夫するのか―さまざまな障害を持つ人の話を聞いて、相手が生きている世界を想像し、理解しようとしています。例えば、人が得る情報の8割から9割は視覚に由来するといわれていますが、目に頼るあまり、目で捉えた世界が全てだと思い込んでしまう。目以外の手段で世界を“見る”と、違う顔が見えてきます。視覚障害者はどんな別の顔を捉えているのか。視覚の束縛から解放されてみたいと思いました」

自身も吃音と共に生きてきたことが、研究に役立っていると語る伊藤亜紗さん(ニッポンドットコム)
自身も吃音と共に生きてきたことが、研究に役立っていると語る伊藤亜紗さん(ニッポンドットコム)

「研究を始めてみると、吃音の経験が役に立つことを実感しました。見えない人の感覚を理解しようとするとき、自分の経験の延長線上で分かる部分があるのです。一方で、分かるためには、自分の『理解』を拡張しないとならない。相手のことを知ることは、自分が変わることでもあります」

触覚の人間関係=「さわる」と「ふれる」

最新刊の『手の倫理』では、「触覚」から人間関係を考察する。「分断が進む世界で、人との関わり方を考える際、『触覚』がヒントになるのではと思いました。私たちの社会は視覚をベースにした人間関係が主流です。でもそれがときに、相手と自分の間に線を引いたり、人に攻撃的な態度をとらせたりする。お互いの輪郭をはっきりひかない関係性を考えるうえで、(視覚ではなく)『触覚』が手掛かりになるのではと思っています」

考察のキーワードは「さわる」「ふれる」だ。英語ではどちらも「touch」だが、日本語の「さわる」「ふれる」では、微妙にニュアンスが違う。「文化によって、感じ方の枠組みが違うのではないでしょうか。言葉が介在することで、感覚に輪郭が与えられます」

「さわる」は物としての特徴・性質を確認する「物的な関わり」、「ふれる」は慈しみや相互性のある「人間的関わり」。コミュニケーションのモード(態度や調子)は、前者は発信者が一方的にメッセージを受信者に伝える「伝達モード」、後者は「その場で作られていく」ようなライブ感のある「生成モード」。伊藤さんはそう分類し、2つの動詞を手掛かりに、触覚を通じた人との関わり方を考察する。

「『ふれる』は、お互いの輪郭や、役割が曖昧になる関係性です。『ふれあう』という言葉があるように、どちらかがふれる、ふれられるではなく、意思を一方的に伝えるのでもない。お互いを探り合いながらのコミュニケーションです。日本では、『個』の概念があまり強くなく、“場”を大事にして、その場にいる人との一体化を優先する傾向があります。会話でも、結論を最後まで言わないことが多い。例えば、『今日の天気さ…』『すごくいい天気だね』みたいに、ひとつのことを話す際に、役割分担がはっきり分かれていません。“We”と“I”の境界が西洋の多くの文化圏よりちょっと弱い。それが接触に関する感性に影響しているのかもしれないと思っています」

出産、子育て、介護、看取り(みとり)など、人生の重要な局面に、触覚は大きな役割を果たす。親密さにも暴力にも通じることを認識した上で、「よきさわり方、ふれ方」とは何なのかを改めて考えることが大事だと伊藤さんは説く。

「多様性」という言葉への違和感

身体のさまざまな「障害」には、それぞれが内包する「文化」がある。

「視覚障害を持つ人たちにインタビューするとき、最初はびくびくしていました。こんなことを言ったら失礼ではないか、相手が傷つくのではないかと。でも、ある視覚障害の方の、『そっちの世界も面白そうだね』という言葉で、楽になりました。文化の違いのようなものかなと思ったんです。目が見えない人の世界の文化、見える人の世界の文化がある。それそれの流儀に興味を持って話を聞けばいい。それ以来、これは聞いてはいけないのではなどと思わずに、普通の人間関係の中で話を聞きます」

研究目的のインタビューよりも、雑談で得る情報の方が多い。「最初は相手の持つ障害を意識しても、話しているうちに忘れてしまいます。その人の中のさまざまな面を知っていけば、ママ友のように子育ての話や、“追っかけ”をしているバンドの話など、つながれるチャンネルがいくつも見つかります」

近年、東京五輪大会のビジョンをはじめ、あらゆるところで「多様性」「ダイバーシティ」という言葉が氾濫していることに違和感を覚えている。障害の有無、性的志向などを問わず、皆が活躍できる社会づくりを目指すということだが、「言葉だけがひとり歩きすれば、“私は私、あなたはあなたで違います”で終わってしまう。それは『不干渉』と表裏一体で、分断を肯定することにもなるのでは」と懸念する。「障害者」というレッテルを貼ってしまうと、個人としての多様な面が見えてこない。「1人の中にある多面性に敬意を払うこと―それが本当の『多様性の尊重』だと考えています」

「障害を持つ方たちが、『障害者を演じさせられている』と言うのをよく聞きます。一方で、周囲の人との差を強調する傾向も感じます。例えば“私は発達障害で、周りの人とはこんな風に違います”と伝えることは、周囲の啓もうにはなるでしょう。でも、それだけでは分断につながる。当事者の言葉を、他者が頭ではなく、体で実感として理解できるようにしたい。私の研究は、そのための“翻訳”作業と言えるかもしれません」

本当の「利他」を考える

「未来の人類研究センター」では、この1年、「利他」という問題について考察を重ねてきた。

「利他を推進しようというよりは、利他的な行為が含む毒、よくない部分も考え直すことで、本当の『利他』とはどういうことかを考えてきました」と伊藤さんは言う。

「障害に関わる場面で考えると、“困っている人を見たら助けましょう”という一見利他的な行動、分かりやすい善行が当事者のためになっていないことが多い。助ける人の正義を、障害を持つ人に押し付ける『伝達モード』になりがちです。障害者を“演じる”ことを相手に強いて、こうすれば感謝するだろうと信じて疑わない。それは利他ではありません」

「利他」とは“スペース”を作ることだと言う。「相手と関わる際に、時間のかけ方も含めて“スペース”―余裕、ゆとりを持つこと。相手を計画通りにコントロールしようとするのではなく、相手の潜在的な可能性を引き出す余裕を持つことです。その中で、自分のパースペクティブ(見方、態度)にも変化が起きます。関わる側も変わっていく関係性が利他なのかなと思います」

例えば介助する際には、まず「さわる」ことによって、相手の体の「物質としての情報」が入ってくる。そしてスペースを持つことで、「ふれる」へと移行する。介助される側が介助者を信頼して身を委ねれば、お互いの体の内部から徐々に感情や思いが伝わり、コミュニケーションが成立する。伊藤さんは、そのプロセスを「相手の体に入り込み合う」と表現する。「『入り込む』コミュニケーションを通じて関わり方が変わらなければ、介助される側はつらいだけです」

コロナ後に人はどうふれあうのか

コロナ禍では、Zoomを通して障害を持つ友人たちと集まる機会が何度かあった。

「いまは世界的に『接触障害者』の人たちばかりだね、と全盲の友人が言っていました。さわりたいのにさわれない。そのことによって、これまでの文化、価値観が変わるかもしれません。その国の文化や個人の年齢、状況によっても影響は異なるでしょう。例えば、“hug”(抱きしめる)の文化がない日本の『おじぎ』が、いま他の文化圏で注目されています。今後もこうした変化が起きるのか、興味深いですね」

「特に、食を巡る文化は変わる可能性があります。子どもが給食の時間は会話してはいけないと言われ、最初は居心地が悪くても、数年たてば“食事は黙ってするもの”が文化になってしまうかもしれません。大人でも、コロナ前には初対面の人と平気で鍋をつついていましたが、今後は気軽にそれができるでしょうか。また、コロナだけでなく風邪やインフルエンザに対しても、感染経路に意識的になって、コントロールしたいという気持ちが強くなる可能性はあります」

「接触障害」の世界は長く続くのかもしれない。

「物理的な接触をしないでいかに人の心にふれられるのか。別の方法を探すしかありません。現に障害を持っている人はずっと工夫し続けてきたのですから。例えば、視覚がないから絵画鑑賞をしないかといえば、そんなことはありません。会話を通して鑑賞するなどの工夫をしてきました。『接触障害』にも、違うアプローチを生み出せるはずです」

介護、出産、看取りなどの局面では、コロナ後でも触覚が重要な役割を果たすことに変わりないだろう。さわり方、ふれ方を探り続ける一方で、触覚がなくても「ふれる」方法を模索する必要がある。接触の絶対量が減ったとしても、特に「ふれる」が持つ価値は大事に受け継がれていく必要があると、伊藤さんは信じている。

バナー写真:PIXTA

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