東日本大震災から10年 海と生きる道を選んだ気仙沼の復興(後編): 巨大津波に備えたまちづくり

社会 防災

気仙沼魚市場の2020年の水揚げは172億円で、北海道・東北一に輝いた。震災を挟んで生鮮カツオの水揚げは24年連続日本一を達成。親潮と黒潮がぶつかる世界屈指の好漁場、三陸沖の恵みにより、気仙沼市は水産業で発展してきた。みなと祭り、海神様、海の唄全国民謡大会など、信仰も文化も海とともにあった。

海のそばで暮らしていく覚悟

これからも海のそばで暮らしていくには、津波に対する心の備えが必要だ。

津波常襲地帯にある気仙沼市では、震災前から津波対策に力を入れてきた。被害の想定を市民と共有し、避難マップをつくり、避難訓練を何度も行ってきた。しかし、想定にこだわった結果、浸水想定外の地域では避難しない人もいた。そして、想定外の巨大津波によって1246人もの市民が命を失った。

その教訓を伝えるため、被災した県立高校を震災遺構として保存した。

校舎4階の壁には、津波で流されてきた水産加工場が衝突した跡がある。3階に突っ込んできた車、教室に散乱したままの教科書が、当時のまま残されている。

校舎を見学した後、併設された震災伝承館で見ることができる映像は、避難所となった階上中学校体育館で行われた卒業式を紹介している。同級生3人を失った卒業生たちの代表が、涙をこらえながら、「命の重さを知るには大きすぎる代償でした。しかし、苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、私たちの使命です」と誓う姿に、来場者は海とともに生きていく覚悟の厳しさを知るのだ。

厳しさだけでなく、海の優しさも忘れてはいない。

震災1年後に気仙沼市が主催した追悼式。遺族代表でスピーチしたのは高校3年の女子生徒だった。一緒に暮らしていた父母や妹、祖父母ら家族7人を津波で亡くし、1人きりになっても、「海はたくさんの大切な人や思い出を奪ったけど、私は海が好き。母たちがいる海が、昔と変わらぬ海が、ずっと大好きです」と気丈に語った。

震災遺構として保存された校舎。3階に残された車が津波の威力を伝える
震災遺構として保存された校舎。3階に残された車が津波の威力を伝える

被災9000世帯の選択

ハード、ソフトの両面で津波対策を進めてきたが、海のそばで暮らし続けるか、移転するか、被災した人たちの判断は分かれた。

被災した約9000世帯のうち、1割が防災集団移転団地、2割が災害公営住宅を選択。土地区画整理でかさ上げした宅地を希望したのは140世帯程度で、残りは被災家屋を修繕したり、自分で移転先を見つけたり、民間アパートに入居したりする道を選んだ。

安全な地域で防災集団移転先、災害公営住宅の用地を探すのは大変だった。内陸のまとまった空き地には仮設住宅を建てることを優先したため、用意できたのは大規模な造成やアクセス道の整備が必要な土地ばかり。造成が始まっても、土砂の搬出先の調整に想定以上の時間を費やした。

全ての災害公営住宅が完成したのは2017年で、防災集団移転団地は19年までかかった。その間、年齢を重ねて家族構成が変化するなどして、災害公営住宅へ希望を変更する人が増えた。

多くの人が高台へ移転した結果を、20年9月に土地区画整理が竣工した南気仙沼地区で考えてみたい。

この地区は震災前、商店や水産加工場、住宅が建ち並び、1560世帯が暮らしていた。高度成長期に干潟を埋め立てて誕生した市街地で、高さ5~7メートルほどの津波に襲われた。津波対策で3メートルほど盛土したことで、大型書店やドラッグストア、クリニックなどが次々とオープンし、20年末には501世帯まで回復したが、そのうち344世帯は災害公営住宅の入居者だ。

南気仙沼地区の航空写真=2020年10月31日撮影(気仙沼市HPより)
南気仙沼地区の航空写真=2020年10月31日撮影(気仙沼市HPより)

土地の活用予定のない所有者と、土地の購入・賃貸を希望する事業者を結びつける支援制度を用意し、空き地の解消に努めたが、まだ震災前の活気は取り戻せていない。活用予定のない土地は復興市民広場や防災公園の用地、水産加工場の集積地としたことも居住人口減少の要因として挙げられる。それに加え、安全な高さまで盛土するといっても、多くの人が津波被害を受けた地域に戻ることを躊躇した。

土地区画整理の遅れも響いた。当初の計画より竣工が2年半ほど遅れたのは、かさ上げ工事のためには津波後に修繕した建物も撤去しなければならず、仮設住宅からせっかく戻ってきた住民の仮住まい先の確保が必要になったほか、上下水道管などの地下埋設物の移設などにも時間がかかったからだ。

土砂調整の問題もあった。市内の復旧・復興事業では、沿岸の盛土、防潮堤の整備などに約1300万立方メートルの土砂が必要なのに、高台移転先の山を切り崩したりして発生する土砂は約1000万立方メートルで、不足分は購入した。高台から土砂が出るタイミングと、沿岸を盛土するタイミングがずれるので、土砂の仮置き場も確保しなければならず、その調整に苦労した。

大型ダンプカーで1度に運べる土砂は5~6立方メートル程度。延べ200万台近くの運搬が必要で、復興当初は道路が大渋滞した。

結果、海と生きる道を選択したが、海のそばで暮らす人は激減した。震災前は、潮風を感じるのが普通の暮らしだった。失って気付いた当たり前の幸せとは、このことをいうのだろうか。

土地区画整理が終わった後も空き地が目立つ南気仙沼地区
土地区画整理が終わった後も空き地が目立つ南気仙沼地区

震災前の南気仙沼地区(中央の道路より上側の地域)
震災前の南気仙沼地区(中央の道路より上側の地域)

復興の先にある未来

震災からの10年を振り返ると、1年目は仮設住宅の確保やガレキの処理など最低限の生活環境を整えることに精いっぱいで、2年目にようやく暮らしや地域の再建を真剣に考え始めることができた。そして4年目に災害公営住宅や集団移転団地が完成し始め、生活が落ち着いてやっと防潮堤問題などの議論が本格化した。6年目以降に観光施設や公民館などの再建に取り掛かり、新しい市立病院や魚市場、商業施設の完成、三陸自動車道や大島大橋の開通、2021年春にスタートするNHK連続テレビ小説「おかえりモネ」の舞台に決定など、明るいニュースが続いている。

気仙沼市も市民も新しい取り組みに積極的で、スイスのツェルマットを視察して観光推進機構という新しい体制を構築したり、若者や移住者の挑戦を応援する仕組みをつくったり、念願だったパークゴルフ場ができたり、ライバルがまとまって造船団地を実現させたり、ビール工場などの企業誘致に成功したり、「創造的復興」はまち全体に広がっている。そのけん引役となっているのが、震災ボランティアなどをきっかけに気仙沼に移住してきた若者たち、そして震災を機に立ち上がった市民たちだ。

ただし、気仙沼市だけで1兆円以上の公費を投じて復興が進められた一方で、人口減少は加速している。

2011年2月に7万4000人だった人口は、21年1月末には6万1000人まで減少した。震災で亡くなった人たち以上に、加速する少子化や転出超過による影響が大きく、復興の陰で学校や保育所の統合が進められている。国立社会保障・人口問題研究所は、45年には3万3000人となる推計を示しており、基幹産業である水産業の漁獲減少も重なって、市民の心は復興の希望とその先の不安の間で揺れ動いているのだ。

被災しなかった自治体は、平成の大合併後の10年間で職員数や事業を整理して、人口減少社会に備えてきた。しかし、被災した自治体は復興に専念しなければならず、備えが遅れてしまった。復興10年が終わり、その遅れを取り戻さなければならないのだが、すでに復興でたくさんのエネルギーを使ってしまった。

冬の気仙沼魚市場には日本一の水揚げ量を誇るメカジキが並ぶ。300キロ超えの大物も珍しくない
冬の気仙沼魚市場には日本一の水揚げ量を誇るメカジキが並ぶ。300キロ超えの大物も珍しくない

震災を経験した私たちから見た新型コロナ

思い描いていた震災10年目とは違った。

復興に感謝するイベントが次々と開かれ、支援してくれた団体やボランティア、復興を支えてくれた元応援職員らが集まり、喜び合う日を想像していた。再建した商店や飲食店もそうした人たちでにぎわうと信じていた。むしろ、三陸道の全線開通と震災10年、それにNHKの朝ドラが重なり、観光客が集まりすぎて混乱することさえ心配していた。

新型コロナの影響は被災地も同じだ。苦しいのは、ちょうど住宅や事業所の再建ピークから5年が過ぎ、ローンの据置期間が終わり、返済がスタートする時期と重なったことだ。そして心が折れかけている人もいる。大切な人や街並みを失った悲しみに、復興に必要なエネルギーが加わって、たくさんのストレスを抱える中、友人や仲間とのコミュニケーション、ボランティアとの交流が心の支えとなっていたのに、自粛の波によってストレスの行き場を失ってしまったからだ。

それでも、震災を乗り越えてきた経験が、前を向いて生きる力になっている。明けない夜はなく、つらい時こそ支え合うことの大切さを、私たちは知っている。災禍にあって、命を守ることと、仕事や暮らしを守ることを両立し、てんびんにかけることの難しさも…。

新型コロナが収束したら、そのことを確かめに復興した気仙沼に来てほしい。そこで「海と生きる」の本当の意味を実感することもできるだろう。

安波山から一望できる気仙沼湾。市街地の復興は仕上げに入った
安波山から一望できる気仙沼湾。市街地の復興は仕上げに入った

=文中写真は全て筆者撮影=

バナー写真:漁船の大漁祈願や航海安全を祈って音楽と大漁旗で見送る気仙沼の伝統行事「出船送り」での光景=2020年3月10日(共同)

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