医療人類学から考えるコロナ下の生と死―一度しかない最期の別れを奪っていいのか

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大学教員の職を離れ、生きること、死ぬことの意味を在野から問い掛けている人類学者の磯野真穂さん。日常で何気なく抱く違和感や疑問を大事にしたいという磯野さんに、コロナ下で「命を守る」ということ、人と人が関わることの意義について聞いた。

磯野 真穂 ISONO Maho

文化人類学・医療人類学者。1999 年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学) 。国際医療福祉大学大学院准教授を経て20年4月からフリー。主な著書に 『医療者が語る答えなき世界―いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『なぜふつうに食べられないのか―拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、哲学者の故・宮野真生子氏との共著『急に具合が悪くなる』(晶文社)がある。

最期の別れを奪う面会制限

コロナ下で入院中の家族に会えず、限りある最後の日々に寄り添うことができなかった人はどれだけいるだろうか。感染拡大が収束する見通しが立たない中では仕方がないと、諦めの境地だったはずだ。

「面会禁止があまりにも安易に行われている」と医療人類学者の磯野真穂さんは指摘する。「コロナ感染者なら病室に入室し、語り合ったり、触れ合ったりするのは難しいとしても、例えば終末期の入院患者にも類似の厳しい面会制限をかけるのは、適切なやり方なのでしょうか?」

大事な家族のひとりが死んでいくときに、その近くに寄り添い体に触れる「特権」を持つのが家族だと磯野さんは言う。

「死にゆく人との間では、言語でのコミュニケーションが難しくなり、身体接触を通じたコミュニケーションに変わっていきます。でもそれは一朝一夕にできるものではなく、それぞれの家族が時間をかけて探りながら身に付けていくものです。たとえ死ぬ数日前に特別に面会が許されたとしても、そこに至るまでの体の変化を日々確認していない家族は戸惑い悲嘆にくれるばかりでしょう。病院側は感染予防の観点から面会を厳しく制限する。そして家族側もコロナだから仕方ないと納得する。でも、一度しかない最期の別れに至るまでの大切な時間を、感染予防を至上として簡単に奪っていいのか。そのことについて丁寧な議論がほとんどされていないと感じます」

大切な命を守らなければならないということが、コロナに感染しないこと、コロナで死なないことと同義になり、「反論できない道徳になって流布していること」に違和感を持っていると言う。

現代医学への違和感

もともと運動生理学を学び、トレーナーを目指していたが、人を「モノの塊」と見て細分化、数値化する自然科学のアプローチになじめなかった。違和感を抱いたまま米国に留学、たまたま出会った文化人類学の面白さに引き込まれた。非常に些末(さまつ)に見える日常の出来事から、哲学的理論を展開できることが魅力だと言う。

「フィールドワークを基本にしているので、最初から抽象的な思考を求める学問領域とは異なり、日常に根ざす身近な事象から生きるということについての考察を展開します。例えば、緊急事態宣言が出る前に、なぜあなたは突然トイレットペーパーや食料品の買い占めに走ったのか。その行動の裏側にはどんな社会背景、情報があったのか。日常生活と結びついた問い掛けから考えるので、誰にとっても面白い学問だと思います」

文化人類学の重要なテーマの一つが「誕生と死」だ。磯野さんが抱く現代科学や医学への違和感を言語化する際の「ツール(道具)」となる資料が豊富なことも、専攻を変えた大きな理由だった。

「さまざまな民族が、どのように死を扱ってきたかについての資料の蓄積がある学問です。異なる民族のコミュニティーの多くで、『いい死に方』とはただ長く生きながらえることではなく、命の循環、生者と死者のつながりを重視しています。そこにある種の普遍性を見いだせます。一方で現代医学は、長く生きることが素晴らしいという価値観が前面に押し出され、エビデンスといった言葉に代表されるように『生』の価値が数値に変換されます。そのことにずっと違和感を抱いてきました。それによって多様な民族が自分たちなりのやり方で作ってきた死者と生者をつなぐ宇宙観が排除されてしまうからです」

全ての問題がコロナのせいに

磯野さんの研究フィールドの一つは医療現場だ。これまで医師、看護師、ケアワーカーなど、多くの医療従事者たちの話を聞いてきた。「医療現場はこう動いている」「“正しい” 医学はこうあるべき」と語る「スポークスマン的な立場にはいない人たちの声を拾いたかった」と言う。

「医療現場で懸命に患者のために働いている人たちの中には、現状に違和感を持っている方が少なくありません。例えば人工呼吸器を1カ月も着けて寝たきりの高齢の患者を見て、延命措置を重視するいまの医療に疑問を感じ、悶々(もんもん)とした思いを1人で抱え込んでいたりする。文化人類学の力を使って、その違和感に価値を見いだせるような仕事ができればと考えています。組織側の都合で目の前の患者さんの治療やその在り方が決定されてしまうことへの違和感を持っている医療者・介護者がいます。彼らのそうした違和感の中に、患者に寄り添う視点やより良い方法が生まれる“種”があると考えています」

いま、コロナ下で奮闘する医療従事者の姿がメディアで度々取り上げられている。だが、「患者のために命を懸けて働いてくれている」という共感を呼ぶ「ストーリー」を、当事者たちは必ずしも喜んでいないと磯野さんは指摘する。「スカイツリーを点滅させたり、ブルーインパルスを飛ばすといった方法で称賛してもらわなくてもいいと思っている人や、感染予防第一で全てが回っていく現場に違和感を抱きながら仕事をしている人もいます」

日本の医療の構造的問題を「コロナのせい」にしてしまう傾向にも、危惧を覚えている。例えば、コロナ感染の入院患者が重症から回復した際に転院先が決まらない、看護師の離職率の高さなどにメディアは注目している。だが、医療機関同士の連携がうまくいかないこと、看護師の離職などによる人出不足は、以前から深刻な問題だったことをもっと認識すべきではないかと言う。

「それを見誤ってコロナとの因果関係だけで語れば、改善すべき問題も改善できない。コロナが収束しても、何も変わらないでしょう」

リスクへの過剰な反応

コロナ感染者数、死者数の増加が報道される毎日だが、「政府が立派な対策をしたわけではなく、法的強制力を行使したわけでもないのに、感染者数を相対的に低く抑え込めたのは日本ぐらい」だと磯野さんは指摘する。

全体の死亡者数を見れば、2020年は11年ぶりに減少した。「ある意味で命は守られていると言えます。そのことにはあまり注目せずに、感染リスクや政策の問題点ばかりが強調される。他方で、介護が必要な家族のデイサービス利用や訪問看護を見合わせる世帯が増えたと聞きました。コロナ感染への恐怖心から介護サービスの利用をやめたせいで家族が介護疲れになったり、フレイル(虚弱)が進行したりすることもリスクではないでしょうか」

過度に感染リスクをあおり立てた情報に、行動や考え方が左右されてしまう。

「例えばインフルエンザなら、日常の身体経験を持つ人が多い。罹患(りかん)したら仕事を1、2週間は休むことになるとか、学校では学級閉鎖も起きるとかの予測がつきます。一方、コロナは感染者数が増えているといっても、圧倒的に感染していない人の方が多く、重症化した人はもっと少ない。でも、ネガティブな情報の量は膨大なのです。個々人が身体経験をベースに(対応を)調整することが難しい」

ワクチンを打ったからといって感染するリスク、うつすリスクがゼロになるわけではない。これからもコロナとの共存が長く続くだろう。だからこそ、情報を発信する側も受け取る側も、コロナに対する過剰な恐怖心を制御していく必要があると言う。

「いい“案配”、落としどころを見つける方向に、社会が動いてくれることを願っています」

「不確定さ」を引き受けて生きる覚悟を

病気にかからないための努力を否定はしない。ただ、どうやって長く生きるかだけではなく、生きること、死ぬことについてもっと深く考えるべきではないかと磯野さんは問い掛ける。

「私たちは必ず死にます。それなのに、死についてしっかり考えようとしない。また、社会的な生き物としての人間は、他者と出会い、関わることで生きていくものです。それなのに、いまはコロナに感染するかもしれないというだけで、出会いから生まれる心の“余白”を捨ててしまう。人間が他者と共に生きるとは、相手の唯一性、不確定なものを引き受けながら生きるということです。例えば、死に近づいている人は、不確定さが増しているということ。それを引き受けて、共に歩むのが家族や親しい友人です。ところが過剰なリスクコントロールの下では、その不確定なことに向き合いながら共に歩むことを探るスペースが最初から奪い取られてしまう」

想像力すら情報が支配する現状にも警鐘を鳴らす。「大量の情報が非常に巧みに、私たちの感情を支配してる感じがします。怖いのは、発信されるままに感情を動かされ、想像力まで支配されること。何に感銘を受け、共感するかは、個人の自由であるはず。一方的な情報発信を可能にしている背景や構造、発信者の意図、それが自分にとってどんな意味があるのか考えてほしい」

文化人類学は共存のためのスペースを広げる

コロナ収束後に、予防医学重視の傾向がさらに強まることは間違いない。だからこそ、文化人類学的なアプローチでの問い掛けを発信していきたいと言う。

「長生き自体に価値を置く統計学的倫理観、価値観がますます跋扈(ばっこ)する時代になるでしょう。これをやったらこれだけ健康リスクがあると、全てが数字で示されて際限がない。医療従事者だけでなく、一般人の中でも、こうした傾向に違和感を持っている人はいます。彼らに向けた言葉を発信していきたいし、生きるとはどういうことかを、身近な事例から共に考えるプラットフォームをつくることを目指しています」

個人として生きるとはどういうことかを考える力を手放してはならないと、強く言う。

「最近、医者が孤独な人につながりを処方する『社会的処方』という試みが注目されています。もちろん孤独の問題に医療者が気付き、何とかしようと思うのは当然だと思います。しかし非医療者の私たちは、そこに疑問を投げ掛けるべきではないでしょうか。人間関係まで専門家に処方してもらわないと、私たちはつながれないのでしょうか。つながることすらも専門家にアウトソースされてしまう状況を手放しで称賛するような空気には、あえて疑問を呈していきたい」

2020年春に准教授のポストを離れ、オンライン連続講座「他者と交わる」を開講した。医者、看護師やソーシャルワーカーなど医療専門職、介護職、教師、学生から退職者まで、さまざまな背景を持つ約300人が受講し、それぞれの洞察が深まったという手ごたえがあったという。21年6月には連続講座第2弾「聞く力を伸ばす」がスタートする。

「文化人類学は、権威ある人々が誰もが引き受けるべき当然のものとして、ある “正しさ” を掲げてきたときに『それってどうなの』と押し戻す力を持ちます。違和感を持つ人から言葉を引き出したり、単純に大きな声になびくことにちょっとストップをかけたりできる。一方で、物事の良しあしについて安易に断定しない。その意味で、人と人とが共存できる広場を少しだけ広げることのできる学問です。その魅力を私なりのやり方で発信していきたいのです」

バナー:新型コロナウイルスに感染した患者を担当し、病室の外でケアの準備をする看護師=2020年4月17日山形県酒田市の日本海総合病院(共同)

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