100年ぶりの急接近:「新・日英同盟」の行方

日英同盟締結:世界を驚かせたサムライ・ジェントルマン|「新・日英同盟」の行方(3)

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かたや世界の7つの海を支配していた覇権国家英国、かたや欧米列強に次々と植民地化されていたアジアの中の小さな島国日本、この両国はなぜ同盟を結ぶ関係に至ったのか。「月とすっぽんとの結婚」と揶揄(やゆ)された同盟関係の淵源をたどる。

月とすっぽんとの結婚

「脱欧入亜」を決意した英国が安全保障や貿易などで日本に接近して連携を図る背景には、約100年前まで結んでいた日英同盟の存在がある。1902(明治35)年1月30日に調印発効し、1921年(大正10年)末にワシントン軍縮会議での四カ国条約の締結で破棄が決まるまで、日英同盟は二国間で、約20年続いた軍事同盟だった。

「月とすっぽんとの結婚」「王子と粉屋の娘の結婚」と揶揄(やゆ)されたほど、この同盟は世界を驚かせた。当時、七つの海を支配していた覇権国家・英国が極東の小さな島国で非白人国家の日本と同盟を結んだのは、いかなる理由だったのだろうか。

この頃の世界情勢は、北からロシアが南下し、南から英国が北上し、日本、朝鮮半島、満州(中国東北部)で、英露の利害が衝突していた。そこで英国は日本と同盟を結び、ロシアに対抗しようとしたのだが、この背後には、1900年に中国華北地域で勃発した清朝末期の動乱、義和団事件(北清事変)における日本軍の勇猛果敢さと綱紀粛清ぶりに英国はじめ列国が瞠目(どうもく)した事実があった。

日清戦争に敗れた清国に欧米列強が次々と進出し、日本が勝ち取った遼東半島をロシアが横取りし、ドイツは膠州湾と青島、英国は威海衛と香港島対岸の九龍半島、フランスは広州湾を手中に収めた。こうした外国勢力を駆逐しようと立ち上がったのが山東省で結成された秘密結社の義和団だった。

西洋人とキリスト教に反感を持つ清の民衆が「扶清滅洋」(清国を助けて西洋人を滅ぼす)を掲げ、義和団と称して反乱を起こし、外国人の殺傷を繰り返し、北京駐在の外国公使館を2カ月以上、包囲した事件だった。

外国人居留民らを救った柴五郎中佐の活躍

各国政府は暴徒鎮圧を要求したが、清国政府は義和団を利用して列強の力を弱めようという思惑から放置し、西太后は逆に清国軍に義和団へ協力する勅令を出したため、大掛かりな排外運動となり、清国軍も呼応して列国に宣戦布告し、公使館を攻撃したのである。

義和団と清国軍が協力して当時、北京の紫禁城東南地区の「東交民巷」にあった外国公使館区域(当時の中国は大使館より格下の公使館が開設されていた)を攻撃した際、英国はじめ欧米列強と日本の居留民ら約1000人と、キリスト教徒の中国人避難民約3000人が立てこもったが、その攻防戦で8カ国からなる連合軍で最大の1万の兵を派遣した日本が最も優れた奮戦をした。一方のロシア軍は騒乱に紛れて満州を軍事占領してしまった。

各国公使館の武官や兵士のなかで日本の柴五郎中佐は階級が一番高く、実戦経験も豊富だった。何よりも幼少期に会津城籠城戦を経験していた。総指揮官として英国公使、クロード・マックスウェル・マクドナルドが就任すると、その経験と見識を評価していた柴五郎中佐に籠城戦の陣頭指揮を委ねた。

英語、フランス語、中国語に堪能であった柴五郎中佐は、連合軍の全てと息を合わせ、最も激戦となった地区を担当した日本軍を率い、公使館防衛に獅子奮迅の活躍を見せた。各国の外交官や婦人たちから感謝と尊敬を集めたが、とりわけ英国公使館が襲撃されたときには救援に駆けつけ、清国兵を撃退し、大いに感謝された。

桂五郎中佐
柴五郎中佐

『守城の人』(村上兵衛著、光人社)によると、英国の作家、ピーター・フレミングが、当時の関係者の日記などをもとに『北京籠城』で、次のように記している。

「柴五郎中佐は、籠城中、どの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになった。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった」

実際に柴五郎中佐の配下で戦った英義勇兵の一人は、前出の『守城の人』によると、おおむね以下のように書き残している。

「日本軍が優れた指揮官を持っているということに気付くには時間がかからなかった。小柄な指揮官は、混乱を秩序よくまとめ部下の兵士だけでなく避難民も含めて組織づくりを見事に行い、前線を強化した。その指揮ぶりをみて、この人の下で死んでも良いと思うようになった」

「救出は日本の力によるものと全世界は感謝」と英紙

また英公使館員は日記でこう絶賛した。

「王府への攻撃が極めて激しかったが、柴中佐が一睡もせず指揮を執った。日本兵が最も勇敢であることは確かで、ここにいる各国の士官のなかでは柴中佐が最も優秀だと誰もが認めた。日本兵の勇気と大胆さは驚嘆すべきで、我が英水兵が続いたが、日本兵の凄さはずば抜けて一番だった」

英タイムズ紙は社説で「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。(中略)日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。(中略)日本は欧米の伴侶たるにふさわしい国である」と絶賛したのだった。

義和団が鎮圧されると、北京城内では、各国軍兵士たちが財物の略奪や婦女への強姦といった蛮行に及んだが、規律の厳しい日本軍は節度と礼儀ある態度を貫いた。この姿勢に西洋列強各国公使館関係者の婦人たちは、柴五郎中佐の「騎士道的ジェントルマン」ぶりを称賛した。「サムライ・ジェントルマン」として世界で認められた第一号となったのだ。

柴五郎中佐はその後、英国をはじめ各国から勲章を授与され、「ルテナント・コロネル・シバ」(柴中佐)として広く知られるようになり、日本軍および日本に対する評価も高まった。

「日本武士道は西洋騎士道である」

総指揮官だった英国のマクドナルド公使は、「サムライ魂」を持つ柴五郎中佐と日本兵の礼節と勇気に感動し、「日本武士道は西洋騎士道である」と称賛した。そして「日本人以外に信頼し得る人々は他になし」との信念から、「東洋で組むのは日本」と確信し、これが日英同盟締結につながった。英国には、義和団事件以降も満州から撤退しないロシアを牽制する必要性もあった。日英はロシアの南下を防ぐ共通利害があったのだ。

マクドナルド公使は帰国後、ロバート・ガスコイン=セシル首相(ソールズベリー侯爵)を説得し、英国のアジア政策と1896年以来、「光輝ある孤立」政策を棄却して、日本と同盟を結ぶことを強く勧めた。そこに柴五郎中佐の活躍があったことは、間違いない。その意味では、柴五郎中佐が日英同盟を締結した陰の主役である。

そこでマクドナルド公使はロンドン駐在の林董公使に「日英同盟」を提案。国内で日露協商締結に流れが向かう中、外務大臣・小村寿太郎から全権を委任された林公使は、日英同盟の交渉を詰めた。ランズダウン外相は林公使に対し、「日本人は礼儀正しく、秩序正しく、信頼できる」という評判を伝えた。これは中国に対する英国の認識と対照的だった。さらに「義和団事件におけるロシアの満州占領は、中国で英国の利益を、朝鮮で日本の権益を脅かした」との考えで一致した。

1902年1月30日、林公使の努力が実り、歴史的ともいえる「日英同盟」が締結される。世界が日本を一流近代国家と認めた瞬間となった。

日英同盟締結を報じる1902年2月12日付の英紙タイムズのコピー(大英図書館別館新聞図書館所蔵)時事
日英同盟締結を報じる1902年2月12日付の英紙タイムズのコピー(大英図書館別館新聞図書館所蔵)時事

バナー写真:日英同盟を締結し、友好関係が深まった東郷平八郎海軍大将(前列右から5人目)、財部彪海軍大佐(同左端)、英国陸軍元帥アーサー・コノート公(同中央)、エドワード・ホバート・シーモア英国海軍元帥(同右から4人目)ら日英の将官 
Mary Evans Picture Library/Grenville Collins Postcard Collection/共同通信イメージズ

柴五郎中佐 義和団事件