大本営発表:セクショナリズムと権力・メディアの一体化が生んだ悲喜劇
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想像を絶するデタラメぶり
日本では、自分に都合がよいだけで信用ならない当局の発表を「大本営発表」と言う。2011年に福島第1原発事故が起きると、「原発は安全だ」と言い続けてきた経済産業省や東京電力の広報が、大本営発表として厳しく批判された。21年の今日でも、コロナ禍に東京五輪・パラリンピックを強行する日本政府の楽観的な見通しが、やはり大本営発表として非難を浴びている。スポンサー企業や、放送の許認可権をもつ政府に迎合して報道するメディアも、しばしばそのやり玉に挙げられる。
では、大本営発表とは一体何なのか。原義は、1937(昭和12)年11月から45(昭和20)年8月まで、すなわち日中戦争からアジア太平洋戦争の終戦までの日本軍の最高司令部による戦況発表のことである。
大本営は戦時中、劣勢になればなるほど「勝った、勝った」とデタラメな発表を繰り返した。そしてメディアはそれを無批判に垂れ流し、国民は捏造された報道に一喜一憂させられた。これが日本メディア史の暗部だからこそ、大本営発表という言葉が今なお使われているのである。
とはいえ、「プロパガンダは軍事政府の常とう手段ではないか」と言う人がいるかもしれない。確かにどこの国でも、兵士や国民の士気を高揚するため、敗北を矮小化(わいしょうか)し、勝利を過大に宣言しがちだ。しかし、日本の大本営発表は、デタラメぶりが想像を絶するレベルだった。
具体的にみてみよう。アジア太平洋戦争において、日本軍は連合軍の戦艦を43隻沈め、空母を84隻沈めたと発表された。だが、実際のところ、連合軍の喪失は戦艦4隻、空母11隻にすぎなかった。戦艦の戦果は10.75倍に、空母の戦果は約7.6倍に水増しされたことになる。反対に日本軍の喪失は、戦艦8隻が3隻に、空母19隻が4隻にそれぞれ圧縮された。
このような戦果の誇張と損害の隠蔽(いんぺい)は、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などの小型艦艇や輸送船、さらには航空機や地上兵力の数字にも及んだ。全てを足し合わせれば、さらに現実との乖離(かいり)は広がる。単純ミスなどでは説明がつかない、途方もない数字の独り歩きである。
さらに大本営発表のデタラメぶりは、表現や運用にも及んだ。守備隊の撤退は「転進」(方向を転じて進む)と言い換えられ、全滅は「玉砕」(玉のように美しく砕ける)と美化された。悲惨な地上戦はわずか数行で片付けられる一方で、神風特別攻撃隊の戦果は華々しく何回にもわたって発表された。本土空襲の被害はもっぱら「軽微」とされ、「目下調査中」のまま永遠に発表されなかった。
大本営発表は戦局の悪化とともに現実感を失い、軍官僚のむなしい作文と化していった。当初こそ軍部を支持した国民も、やがて疑念を抱くようになり、戦争末期にはほとんど発表の内容を信じなくなった。
軍部の下請け機関に成り下がったメディア
なぜ大本営発表はここまでデタラメになってしまったのか。原因は4つ考えられる。1つ目は、組織間の不和対立である。日本軍は全体を統括する組織を事実上持たなかった。大本営は陸軍と海軍で分かれ、大元帥とされた天皇も概して名目的な存在にとどまった。そのため、陸軍と海軍が対立するのみならず、軍政部門(陸軍省・海軍省)と軍令部門(参謀本部・軍令部)が対立し、軍令部門の中でも作戦部と情報部が対立するというありさまだった。
大本営発表は日本軍にとって最高レベルの発表なので、事前にさまざま組織や部署の決裁を要した。そのため、組織間の不和対立が反映されることになった。Aが「敗北もそのまま発表せよ」と主張すれば、Bは「いや、それでは国民の士気が下がる」と反論するというように。
発表の実務を担当する報道部は権限が弱かったので、意見の対立の中で右往左往し、調整に走り回らざるを得なかった。結果として、完成した発表内容は、さまざま組織や部署に配慮した、お手盛りで、妥協的な、玉虫色のものになりがちだった。
2つ目は、情報の軽視である。よく指摘されるように、日本軍の情報軽視は深刻だった。その弊害は、航空戦の戦果確認で顕著に表れた。どの軍艦に、どれくらいダメージを与えたか。監視衛星もない当時、確認作業は困難を極めた。日本軍はもっぱら作戦に参加したパイロットからの報告に頼った。勝っていた頃はそれでもまだよかった。ところが劣勢になると、パイロットの練度や帰還率が下がり、情報の精度も下がった。にもかかわらず、現地部隊も、大本営も、数値を厳しく査定しなかった。むしろ戦勝への期待から、過大な報告を鵜吞(うの)みにした。こうして、戦争末期になればなるほど、過大な戦果が計上されるという矛盾が生じた。
3つ目は、戦局の急速な悪化である。これはそんなに難しい話ではない。日本軍が勝っていた頃は、戦果を捏造し、損害を隠蔽(いんぺい)する必要はなかった。ただ、そのまま発表すればいいのだから。ところが1943(昭和18)年に入り、日米の戦力が完全に逆転すると、状況は一変した。たちまち組織間の不和対立が頻発し、発表文への介入が激しくなった。また、戦力の消耗により前線からの報告が不正確となった上、焦った大本営が希望的観測を加えて発表文を作成するようになった。要するに戦局の悪化が、日本軍の組織的欠陥を露呈させたのだ。
最後の4つ目の原因は、権力(軍部)とメディアの一体化である。これこそ、大本営発表がデタラメになった最大の原因である。いかに大本営が虚偽の発表を行っても、メディアが不自然さを指摘すれば、国民は騙(だま)されなかっただろう。大本営の軍人たちも、メディアが厳しくチエックしてくると分かれば、ここまで無理筋な発表をしなかったに違いない。ところが、メディアは大本営発表の下請け機関に成り下がり、大切な権力監視の役割を放棄してしまった。こうして大本営発表の暴走に歯止めが掛からなくなった。
もちろん、日本のメディアもずっと軍部に従属的だったのではない。大正時代から昭和初期にかけては、大正デモクラシーや世界的な軍縮ムードを背景に、軍部に批判的な論陣を張っていた新聞社も多かった。
潮目が変わったのが、1931(昭和6)年9月に勃発(ぼっぱつ)した満州事変からだった。多くのメディアはスクープを狙って記者を戦地に送り込んだ。軍部もここぞとばかりにメディアに便宜を図った。こうして両者の協調関係が形作られた。その関係は37(昭和12)年7月に日中戦争に突入するといよいよ緊密になった。もちろん、反抗的なメディアには検閲や新聞用紙の制限などで脅しが掛けられたのは言うまでもない。
こうした巧みなアメとムチにより、アジア太平洋戦争時には、日本のメディアは進んで戦争協力せざるを得ないほど軍部に従属的になったのである。これでは、権力監視などできようはずもなかった。
現代も重要なメディアの権力監視
このような大本営発表の歴史から、われわれは何を学べるだろうか。最も今日に応用できるのは、権力とメディアの一体化によって引き起こされた弊害の教訓であろう。昨今、世界的に大手メディアへの批判がかまびすしい。一種の既得権益であり、一方的な価値観に偏っていると言うのだ。そこに傾聴すべき点がなくもない。ただその批判の核心はあくまで、「もっと権力をしっかり監視せよ」と言うものでなければならない。メディアは、立法・行政・司法の3つの権力と並んで「第4の権力」と呼ばれることを思い起こしてほしい。
メディアの権力監視なんて教科書的で古臭い──そう思う人にこそ、大本営発表の歴史を知ってもらいたい。巨悪の存在が見当たらず、セクショナリズムの横行や情報の軽視によって官僚機構があらぬ方向に進んでいく。そんな悲喜劇は、近い将来にもじゅうぶん起こりうるからである。
バナー写真=第2次世界大戦の開戦を発表する大本営陸軍報道部=1941年12月(共同)